「牧師は男性でなければならない」ことをめぐって

フィンランド語原版執筆者: 
トム・サイラ(フィンランド・ルーテル福音協会会長、牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

はじめに

フィンランド・ルーテル福音協会はフィンランド福音ルーテル教会の正規の海外宣教団体であり、牧師制に関しては「牧師職は男性に委ねられている」とするキリスト教の伝統的な立場を守っています。そして、同じ姿勢を保つルター派キリスト教の海外宣教団体などはほかにも幾つかあります。それに対して、フィンランド福音ルーテル教会では女性を牧師として認める「女性牧師制」が1980年代の半ば以降採用されています。このちがいのために、フィンランドでは時折、牧師制をめぐる議論がメディアなどで展開されてきました。「牧師は男性でなければならない」という主張にはどのような根拠があるのかについて考えをめぐらす人々が今でも少なくありません。この問題を考える際に大切なのは、答えを聖書に求めることであり、聖書ではどのように教えられているかを確かめることです。人間の長たらしい説明よりも単純な聖書の箇所のほうが多くの知見を与えてくれることがしばしばあるからです。

初期のキリスト教会における女性たち

聖書を読むとわかりますが、まさに教会の女性たちこそ、自らに委ねられた使命を遂行するために全力を注いだキリスト信仰者たちであったと言えます。彼らは時には非常に困難な状況の只中においても尊い奉仕の業を全うしたのです。初期の教会の有様を記録した新約聖書の「使徒言行録」において、このことはとりわけよく描かれています。以下に具体例をあげます。

「さて、アレキサンデリヤ生れで、聖書に精通し、しかも、雄弁なアポロというユダヤ人が、エペソにきた。この人は主の道に通じており、また、霊に燃えてイエスのことを詳しく語ったり教えたりしていたが、ただヨハネのバプテスマしか知っていなかった。彼は会堂で大胆に語り始めた。それをプリスキラとアクラとが聞いて、彼を招きいれ、さらに詳しく神の道を解き聞かせた。」
(「使徒言行録」18章24〜26節、口語訳)

このように、プリスキラとアクラというキリスト信仰者の夫婦(プリスキラが妻でアクラが夫)はアポロという福音伝道者に「神の道」の神学をより深く教えました。

使徒パウロの伝道において、女性には重要な役割がありました。新約聖書の「ローマの信徒への手紙」の終わりに、パウロは16人の大切な伝道の協力者たちの名を挙げていますが、そのうちの10人は女性です(16章1〜16節)。

初期の教会の頃、女性の置かれた場所は家の中だけではありませんでした。

「ある安息日に、わたしたちは町の門を出て、祈り場があると思って、川のほとりに行った。そして、そこにすわり、集まってきた婦人たちに話をした。ところが、テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人が聞いていた。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた。そして、この婦人もその家族も、共にバプテスマを受けたが、その時、彼女は「もし、わたしを主を信じる者とお思いでしたら、どうぞ、わたしの家にきて泊まって下さい」と懇望し、しいてわたしたちをつれて行った。」
(「使徒言行録」16章13〜15節、口語訳)

「わたしはユウオデヤに勧め、またスントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いになってほしい。ついては、真実な協力者よ。あなたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい。彼らは、「いのちの書」に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである。」
(フィリピの信徒への手紙4章2〜3節、口語訳)

もしもこれらルデヤやユウオデヤやスントケという女性信徒たちがいなかったならば、フィリピの教会はいったいどうなっていたことでしょうか。

多くの状況においてイエス様は女性信徒たちから支えを受けておられました。「ルカによる福音書」は、とりわけ積極的に活動した数人の女性たちの名を挙げています。また、彼らやその他多くの女性信徒たちが私財を投じてイエス様と弟子たちの活動を支えたことを次のように記しています。

「そののちイエスは、神の国の福音を説きまた伝えながら、町々村々を巡回し続けられたが、十二弟子もお供をした。また悪霊を追い出され病気をいやされた数名の婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリヤ、ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒にいて、自分たちの持ち物をもって一行に奉仕した。」
(「ルカによる福音書」8章1〜3節、口語訳)

イエス様もパウロも共に男女平等を強調しました。しかもこの平等性はたんに社会的地位や立場にとどまるものではなく、神様との関係にも及ぶものでした。とりわけ次に引用する「ガラテアの信徒への手紙」の箇所は、そもそものはじめから洗礼を通して女性信徒が男性信徒とまったく同じ救いにあずかっていることを明確に示しています。

「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。」
(「ガラテアの信徒への手紙」3章26〜28節、口語訳) 

牧会について

初期の教会においては、男性も女性も多くのやりかたで積極的に活動しました。それにもかかわらず、女性が教会の指導者として働いていたケースを私たちは知りません。聖書において牧会に関わる指示は常に男性に向けられたものとなっています。

初期の教会の有様が具体的にどのようなものであったかを今に伝える最古の資料は、パウロの手紙です。「コリントの信徒への第一の手紙」はそれらの手紙のうちのひとつです。この手紙においても、パウロは女性信徒たちの積極的な教会での活動について語っています。しかしながら、パウロはそこに限定を設けます。

「神は無秩序の神ではなく、平和の神である。聖徒たちのすべての教会で行われているように、婦人たちは教会では黙っていなければならない。彼らは語ることが許されていない。だから、律法も命じているように、服従すべきである。もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい。教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことである。それとも、神の言はあなたがたのところから出たのか。あるいは、あなたがただけにきたのか。もしある人が、自分は預言者か霊の人であると思っているなら、わたしがあなたがたに書いていることは、主の命令だと認めるべきである。もしそれを無視する者があれば、その人もまた無視される。わたしの兄弟たちよ。このようなわけだから、預言することを熱心に求めなさい。また、異言を語ることを妨げてはならない。しかし、すべてのことを適宜に、かつ秩序を正して行うがよい。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」14章33〜40節、口語訳)

すなわち、女性は「教会」では黙っていなければならない、ということです(14章34節)。「教会」(ギリシア語で「エックレーシア」)という言葉でパウロが意味しているのは、ほかでもなく聖餐式を行う集まり、すなわち礼拝のことです。このことは、上掲の箇所の少し前のところ(11章17〜34節)で、パウロが教会員たちに聖餐式への参加の仕方について指示を与えていることからもわかります。なお、この箇所(11章18節)でも聖餐式を行う集まりが「教会」(「エックレーシア」)と呼ばれています。

上記のことを踏まえると、「女性は教会では黙っていなければならない」という禁止命令は、聖餐式の行われる教会の集まり(すなわち礼拝)において女性が教える(礼拝で説教する)ことを禁じている、という説明が自然であると思われます。なぜなら、パウロは同じ手紙の中で、女性が礼拝参加者の祈りを導いたり、預言したりすることについては許可を与えているからです。

パウロの手紙において同様な内容を扱ったもうひとつの箇所は、次に引用する「テモテへの第一の手紙」2章9〜15節です。

「また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。むしろ、良いわざをもって飾りとすることが、信仰を言いあらわしている女に似つかわしい。女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。むしろ、静かにしているべきである。なぜなら、アダムがさきに造られ、それからエバが造られたからである。またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。しかし、女が慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、子を産むことによって救われるであろう。」
(「テモテへの第一の手紙」2章9〜15節、口語訳)

この箇所でもパウロは礼拝のための指示を与えています。ですから、この同じ文脈で与えられている「女性が教えることを禁止する指示」もまたやはり礼拝に関わる指示であると理解するのが自然です。教会の牧師の中心的な使命は、礼拝で説教して教会員を教えることだからです。

宗教改革の基本原則によれば、聖書は信仰と人生の最上の指示を与えるものです。牧師の性別をめぐる問題に答えを探し求める場合にも、聖書の位置づけに関するこの原則を曲げるべきではありません。「牧師制」は特権でも人権でも男女平等の問題でもありません。牧師制は終局的には聖書をめぐる問題に帰着します。いうまでもなく男性にも女性にも同じ価値があります。しかし、それぞれには異なる使命が与えられているということです。

女性牧師制を採用している教会の一般会員からみれば、世界のキリスト教会全体をみたときに、依然としてその大多数の会員が男性のみに牧師職を委ねる諸教会に属していることは軽い驚きを与えるものかもしれません。ただ、「牧師は男性であるべきである」と主張する根拠は教会によって相違があります。たとえば、ローマ・カトリック教会は自らの立場が聖書に加えて教会の長い歴史的な伝統に基づくものであることを根拠としています。さらにまた、優れた女性信徒がたくさんいたにもかかわらずイエス様が選ばれた使徒たちが全員男性であったことや、彼らが教会の牧者として男性のみに按手を授けたことなどもしばしば引き合いに出されます。

ここフィンランドを含め多数の国では、牧師制をめぐる問題は何十年にもわたって、「自分の主張こそは正しい」という感情的な議論をキリスト信仰者の間で幾度となく巻き起こしてきました。それは今でも続いています。この問題に限らず、どのような問題に関しても、キリスト信仰者の間で大きく意見が分かれることがあります。そのようなとき、この牧師制をめぐる問題を含め、いかなる場合においても、パウロがローマの信徒たちに対して与え、一般的にも妥当する次の聖書の指示を思い起こすのが適切である、と思います。

「兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。」 (「ローマの信徒への手紙」12章10節)


出典 フィンランド・ルーテル福音協会の週刊新聞(Sanansaattaja)2017年2月9日号

日本語版では、日本の読者にフィンランドの教会事情を説明するため、また、聖書の箇所などを具体的に明示することで理解を深めるために、フィンランド語原版を一部編集しています。なお、聖書の日本語訳は口語訳によっています。