家庭での信仰生活

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

家庭 〜 キリスト教信仰生活の実験室

私たちキリスト信仰者にとって、信仰者としての生活と訓練を実践することになる最初の場所は、私たちがその中で実際に生活している環境にほかなりません。これは極めて重要なことです。多くの人にとってそのような身近な生活環境は具体的には家庭を意味しています。キリスト教徒と呼ばれる人々の中には家の外の世界でのみ「真価」が発揮されるようなタイプの人もいるようです。しかし、家の外ではまるで天使のように振る舞っている人々に、私たちは盲目的な尊敬の眼差しを注ぐべきではありません。むしろ「キリスト信仰者は家の中でどのように生活しているのか」という問いに目を向けるべきなのです。外部の人々には見られることのない家の中での日常生活はいわば「楽屋裏」のような場所です。家の外では眩しいほどに光り輝いて見える信仰者としての外面も家に戻ると途端に薄暗くなってしまうものです。ところが、人間は家族など身近な人たちの間にいるときにこそ本当の人となりが明るみになります。そして、そのありのままの姿はその人の信仰の本当の状態を映し出すのです。

みなさんの中には親がキリスト信仰者という家庭環境で育つ幸せを享受できた人もいるでしょう。もちろん、たとえキリスト信仰者の家に生まれたとしても、それぞれの家庭の状態は互いに異なっています。また家族の人間的な欠点によって悩まされたことのある人も多いのではないかと思います。しかしそれでも、家で親からキリスト教信仰について教えられてきた人ならば、信仰の基本的なことがらについてはすでに幼少の頃から耳にする機会があったでしょう。そしてそのおかげで、彼らはキリスト教信仰の教えについてゼロから逐一説明を受ける必要性もないでしょう。とはいえ、目まぐるしい変化の最中にある現代では家庭環境にも大きな変化が見られます。キリスト教が国教であるフィンランドでさえも、イエス・キリストを救い主として信じるようになった今の若者たちのうちで、この信仰を共有する家族がひとりもいないような家庭環境で育った者の割合は以前よりもいっそう増えてきています。家庭などの身近な生活環境にキリスト信仰者の模範を示す人がいなかったためもあって「キリスト信仰者の家庭生活はいかなるものであるべきか」ということがわからずに途方に暮れている人たちが大勢います。また、キリスト信仰者の家庭で育てられた者同士が結婚した場合であっても、夫婦が一緒に注意深く考えるべき課題があります。それは「彼らが築くこれからの家庭にそれぞれの実家の生活から何を取り入れ何を捨て去るべきか」という問題です。

家庭の信仰生活について考察するときには、まず「家庭」とはそもそも何かということを定義しなければなりません。この小文では家族や夫婦のことをよく話題として取り上げます。しかし、一人暮らしの人も大勢いる現代の居住動向にも配慮しつつ考察を進めることにします。家族と一緒に住んでいるかどうかにはかかわりなく、私たちには皆、誰かしら身近な人がいるのではないでしょうか。その意味で、この小文で取り上げる内容が異なるさまざまな環境で生活している人たちにも適用できるものであることを願っています。

罪深い者たちの生活

聖書は私たちに「人間」というものについての真実を突きつけます。それはにわかには受け入れがたいほどひどく粗野なものです。その真実とは、人間がいるところにはどこであれ否応なしに罪も巣食っているということです。それでも私たちは外面を取り繕うことをやめて、この過酷な真実を直視するべきなのです。使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」7章で次のような自己分析をしています。

「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。」
(「ローマの信徒への手紙」7章18〜20節、口語訳)

この「ローマの信徒への手紙」7章を通じて書かれている内容はすべてのキリスト信仰者の家庭にもそのままあてはまります。キリスト信仰者は皆、罪深い存在であるからです。しかしその一方で、キリスト信仰者はあがなわれた存在であり、キリストの十字架の死と復活のゆえに罪の赦しの憐みをいただいた存在であり、愛する主の御声に聴き従って正しく生きていこうとする「神様の子ども」でもあります。同時に罪深い存在でもあり贖われた存在でもあるというこの対極的な二重性が、キリスト信仰者の信仰生活全般において喜びと悲しみをもたらしているとも言えましょう。

人間という存在の基本的な特徴について正しい認識をもつときに、自分自身について抱いているあらゆる幻想は消え去り、すべてはありのままの現実へと引き戻されることになります。私たちはたとえキリスト信仰者であったとしても「天使」のような存在ではありえません。しかしその一方では、私たちには「悪魔」のような生き方をする権利もありません。キリスト信仰者の人生とは絶え間なく信仰を鍛錬し、罪に躓き、罪から立ち上がることの繰り返しであるとも言えるでしょう。信仰生活におけるこの現実はすべてのキリスト信仰者にあてはまることですし、キリスト信仰者の身近にいる人たちにもよく知られていることです。

信仰生活にはきわめて個人的な側面があります

キリスト信仰者の信仰生活を強制的にある種の「型」に嵌めようとするのは無意味です。神様は私たちをそれぞれ互いに異なる者として創造なさいました。必然的に神様との私たちの関係もまたそれぞれちがったものになっています。二人のキリスト信仰者たちの間にさえ、それぞれの祈りや信仰の生活には互いに共通するところがあるとしても、それらがすべてにおいてまったく同一であるということはありえません。信仰生活には個人的な要素が強く反映されるので、夫婦の間でさえも互いにちがう部分が必ず出てきます。例えば、たくさん読みたい人もいれば、それほど本に興味を持たない人もいます。たくさん話し合いたい人もいれば、ほとんど短く受け答えするだけの無口な人もいます。このように実際の信仰生活は人によってさまざまなのです。しかし、このことを事実として受け入れてみると、何かしら清々しい気持ちになるのではないでしょうか。本を利用する人もいるでしょうし、祈りを日記として書き留める人もいるでしょう。また自然の中の静けさを好む人もいるかと思うと、他のキリスト信仰者たちに会うために外出したくてしかたのない人もいます。これら数々のちがいにもかかわらず、キリスト教会全体にとっても、またそれぞれの家庭にとっても、キリスト信仰者全員に共通する大切なことも存在します。次にそれについて考察しましょう。

聖餐礼拝へと向けて

新約聖書の「エフェソの信徒への手紙」によれば、キリスト信仰者は個人的な信仰生活を守っていけばそれで十分であるようにはできていません。むしろ、主イエス・キリストによって創設され守られている教会とのつながりを保ち、その一員として信仰生活を行なっていくように信仰者は創造されているのです。キリスト教会は無いと不便なのでしかたなく設立された公的機関などではありません。地上にはさまざまな教会がたくさんありますが、それらはすべて多くの欠点を抱えています。もちろんこれはルター派の教会にもあてはまることです。にもかかわらず、本来の意味での「教会」とはイエス・キリスト御自身の働きかけによって「神様のもの」となった人々の群れのことです。この世にいる間、彼らは天の御国の栄光に入るまで一緒に荒野を横断して旅を続けます。「エフェソの信徒への手紙」は私たちキリスト信仰者たちを孤独で箱庭的な信仰生活に閉じ込めるのではなく、皆が集う共同の信仰生活へと招いています。

キリスト教信仰の共同的な性格がもっともよくあらわれているのが聖餐礼拝です。これは信仰生活全体の中心をなすものです。聖餐式において罪人たちは聖なる神様と向き合います。そして、罪の赦しという憐みをいただくのです。一人暮らしの人も、家族と一緒に住んでいる人も、聖餐礼拝に参加することを信仰生活の主軸に据えるべきです。聖餐礼拝を通して私たちは日々の信仰生活を送るために必要な力をいただきます。教会の聖餐礼拝をなおざりにして孤独な信仰生活で自足している人は、この点で自らの信仰生活のありかたを見つめ直す必要があるでしょう。

いくつかの具体的なやりかた

古くからあるキリスト教のやりかたにしたがって、朝起きるとすぐに祈る習慣を身につけましょう。少なくとも私(エルッキ・コスケンニエミ)たちの場合、子どもたちがまだ我が家に住んでいた頃は毎朝がとても慌ただしいものでした。皆がそれぞれちがう時間に起きてきて、それぞれ別の交通手段で別々の場所に出かけていきます。ですから、家族一緒に朝のお祈りの時をもつのは時間的に無理がありました。そのような私たちにとって、昔からある地方に伝えられてきた次のようなやりかたはとても役に立ちました。それは、朝起きたら「主の祈り」という主イエス様が弟子たちに教えてくださった短いお祈りを唱えるのです。いくら忙しい人でもこれを祈るための時間くらいなら必ずあるはずです。家族が皆まちまちの時間に起きてくるので、この祈りも各人がそれぞれ別の時間に行うことになります。はじめのグループで一緒に祈り、また次のグループで一緒に祈ります。ひとりで祈ることになる朝もあるでしょう。ともあれ家族全員がそれぞれ「主の祈り」を必ず毎朝祈ることにするのです。このように主の祈りによって天の御父と一緒に新しい一日を始められるのは素晴らしいことです。それぞれの目的地へと向かってバスに乗っている時や歩いている時などにはもっとゆっくり祈ることができるでしょう。そのようにして各人が祈りの続きをすればよいのです。

「主の祈り」の日本語訳にはいろいろなものがあります。次にあげるのは日本福音ルーテル教会で用いられているものです。

天にまします我らの父よ。
願わくはみ名をあがめさせたまえ。
み国を来たらせたまえ。
み心の天に成るごとく、地にも成させたまえ。
われらの日ごとの糧を今日も与えたまえ。
われらに罪を犯す者を われらがゆるすごとく、
われらの罪をもゆるしたまえ。
われらを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。
国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。
(主の祈りについて)

食前のお祈りを捧げることはささやかですが大切な習慣です。私たちの多くは自分に必要なものは一応手に入れられるほど豊かになったために、いつしか自分自身や自分の経済力に過度な信頼を寄せるようになってしまいました。宗教改革者マルティン・ルターは「大教理問答」というキリスト教の基本を教える本で、自分の目の前におかれたパンの籠ばかり見ていないで、むしろ神様が私たちを養うために用いておられる長大な連鎖全体のほうに注意を向けるようにと助言しています。例えば日々の食べ物が手に入ることは決して当たり前のことではありません。食べ物に事欠くような苦境には陥りたくない、というのは誰しもが望むことであると思います。しかし、このことがこれから先にも実現するためには多大な努力が必要とされるのです。何よりもまず世界が平和である必要があります。実際に戦争を体験した人たちはかつての窮乏の時代を決して忘れることがありません。

夜になるとまたお祈りの時をもちます。これはとても大切です。眠りに就く前に、自分自身を、そして家族をはじめ私たちがいただいているすべてを善なる神様の守りにすっかり信頼してお委ねするのです。祈ったあとに就寝するのはよいことですし、次の日に起床してすぐに祈るのもよいことです。夜は、自分のすべての悪い行いや言葉や思いについて神様に告白し、それらの罪がイエス・キリストのゆえに赦されたことを堅く信じる時です。また夜は、自分の家族からも罪の赦しを乞う時でもあります。これは喧嘩したまま眠りに就くことを次の聖書の教えに従って避けるためでもあります。

「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。」
(「エフェソの信徒への手紙」4章26節、口語訳)

イエス様の御業のゆえに、すべての罪にはその赦しが宣言されています。まさにそれゆえに、私たちもまた神様から罪を赦していただけるのです。またそれゆえに、私たちもまた家族の中でもお互いに罪の赦しを乞うたり与えたりすることを望むのです。

最後に、親である人たちにどうしても言っておきたいことがあります。どうか夜のお祈りだけで満足しないでください。それぞれの家庭で子どもたちに子ども向けの聖書をたくさん読み聞かせてあげてください。読めば読むほどいっそうよいことです。この点で、特に母親のみなさんは私たちの想像もできないほど尊い働きをしています。ですから、どうか毎晩のように子どもたちに聖書の物語を読み続けてあげてください。そして、一冊を読み終えたら、今度は次の子ども聖書を最初から読み聞かせてあげてください。子どもが大きくなってきたら、例えばマルティン・ルターによる簡単な説明のついた日々の御言葉の本などを子どもたちと一緒に読むとよいでしょう。このように夜のお祈りの必要性は子どもたちが成長してからもなくなることがありません。また当然のことですが、子どもたちにも自分用の聖書を与えましょう。聖書の中でも特に福音書はすでに小さい頃から読み始めることが望ましいです。


聖書の引用は「口語訳」によっています。
この日本語版は日本の読者の理解を助けるために表現などに一部編集を施して訳しています。