天地創造、聖書、進化論

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

1)天地創造はキリスト教信仰の主要な信条のひとつです

 旧約聖書の始まりと新約聖書の終わりで、天地創造の出来事が語られます。聖書は創造に始まり創造に終わるのです。キリスト教信仰によれば、この世界には誕生の瞬間と終結の瞬間があります。この世の始まりと終わりの間流れ続ける時間の世界を導いているのが、見えるものと見えないものとを全て無から創造なさったお方、常に永遠に存在する唯一の神様です。

 神様による天地の創造を信じることは、キリスト教信仰にとって必要不可欠の主要信条です。人間が神聖なるお方の御前で自らの置かれている立場を適切に自覚するためには、キリスト教信条全部が必要になります。天地創造にかかわる信条はその中でも重要な部分です。この信条は、世と世のもたらすものとに対してキリスト信仰者が適切な態度を取れるように教え導いてくれます。またこの信条は聖書を統一体として捉え、その主要なメッセージを伝えてくれます。すなわち、「聖書を通して語っているお方は、人間を創造し御許に招かれる神様である」、ということです。神様の天地創造に対するキリスト教信仰は、私たちに多様な視点を提供します。この小文ではその幾つかを取り上げます。

 天地創造を信じるキリスト教会は、おひとりでこの世の全ての出来事を統率なさる全能なる神様に全幅の信頼を置いています。悪霊も、世の強大な支配者も、人間の罪も、全世界を御手で治められるこの偉大なお方に対しては無力です。御言葉によって世を創造された神様は、ふたたび御言葉によっていつかこの世の歴史を終わらせます。その瞬間まで、時間の流れるこの世界は神様の支配下に置かれています。

 危険な旅に出発した際、旧約聖書の時代の信仰者たちはこの真実に頼りました。それは次の詩篇からもわかります。

「わたしは山にむかって目をあげる。 わが助けは、どこから来るであろうか。 わが助けは、天と地を造られた主から来る。」
(詩篇121篇1〜2節、口語訳)

 迫害を受けたキリスト信仰者たちは、次のヨハネの黙示録に書かれているように、主がこの世に帰還してご自分の民のために裁きを行ってくださることを願い求めました。

「小羊が第五の封印を解いた時、神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂が、祭壇の下にいるのを、わたしは見た。彼らは大声で叫んで言った、「聖なる、まことなる主よ。いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか」。」
(ヨハネの黙示録6章9〜10節、口語訳)

 多くの試練にさらされているときに、神様が全能であることを信頼するのは難しい場合もあるかもしれません。それでも全能なる神様は、現代のキリスト信仰者にとっても、大いなる希望と力の源なのです。

 「神様は人間一人ひとりを胎児の時からこの世を去る時までいつも世話してくださる」、という信頼が、神様による天地創造への信仰には含まれています。このような主への感謝と崇拝の心が次の詩篇にはよく表現されています。

「あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。 わたしはあなたをほめたたえます。
あなたは恐るべく、くすしき方だからです。
あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます。
わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合されたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。
あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。
わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。
神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。
その全体はなんと広大なことでしょう。」
(詩篇139篇13〜17節、口語訳)

 このように人は皆、神様の大いなる創造の奇跡であり、それゆえ、男性も女性も、母親の胎の中にいる子どももはたまた老人も、黒い肌の人も白い肌の人も、健常者も障害者も、キリスト教徒もイスラム教徒も、皆等しく尊い存在なのです。人間の価値は序列化できません。どれほど罪が深かろうとも、その人の価値自体が失われることはありません。人間は皆が神様にとって大切な存在であり、神様は皆を御許に招いておられます。次のイエス様の有名な御言葉は感動的です。

「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」
(マタイによる福音書6章25〜34節、口語訳)

 聖書の最初の章によれば、人間は神様から次のような使命を授けられています。

「神は彼らを祝福して言われた、 「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。 また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。」
(創世記1章28節、口語訳)

 人間に与えられた使命については詩篇8篇にも記されています。

「主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。
あなたの栄光は天の上にあり、みどりごと、ちのみごとの口によって、ほめたたえられています。
あなたは敵と恨みを晴らす者とを静めるため、あだに備えて、とりでを設けられました。
わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、
人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。
すべての羊と牛、また野の獣、空の鳥と海の魚、海路を通うものまでも。
主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。」
(詩篇8篇1〜9節、口語訳)

 神様はこの被造物世界において人間に特別な立場をお与えになりました。人間にとってそれは大きな名誉ですが、それはまた重い責任を人間に課すものでもあります。人間はいわば「神様の地所の管理者」なのです。私たちにはこの被造物世界を利用する権利があります。しかし、責任をもってその権利を行使する義務もあります。私たちはこの世界を滅ぼしてもだめにしてもいけません。なぜなら、この世は私たちの持ち物ではないからです。
他の被造物と同様に、人間も神様の被造物であり僕です。 そして人は皆、いつかは最後の裁きの場に立たされ、この世での自分の人生の歩みについて裁きを受けなければなりません。キリスト教信仰によれば、この裁きの場に臨んで「無罪判決」を受け天の御国に行けるのは、キリストに避けどころを求める人だけであり、他の人は誰一人この神様の裁きを耐え抜くことができません。キリストのみがご自分に避けどころを求める者に対して、恵みと罪の赦しをもたらしてくださるからです。

2)聖書と自然科学

 1859年にチャールズ ダーウィンの「種の起源」という本が出版されてのち、キリスト教会の中でも進化論をめぐる議論が始まりました。おそらく議論はこれからも続いていくことでしょう。現在に至るまで自然科学は絶えず発展してきました。それに伴いキリスト教会の側からも、進化論の根拠とされる研究結果に対して様々な応答がなされてきました。
この問題の中心的な論点は次のように簡単に要約できます。聖書の最初の数章には、6日間で神様が世界を創造なさった様子が語られています。それに対して自然科学は、宇宙の誕生や地球の初期の状態、人類の進展の様子について聖書とは全く異なる描き方をしています。現代の天文学と生物学は聖書とはちがう宇宙誕生の物語を提案しており、科学者の大多数は、進化論こそが人間の誕生を説明する最良の方法である、と考えているように見受けられます。

 「神が人間を造ったのではない。人間が神を造ったのだ」、といったことを1800年代のドイツのある哲学者は言い放ちました(フォイエルバッハ「キリスト教の本質」(1841年刊行))。共産主義者たちはこの煽り文句を採用し、その意味を発展させて次のように要約できる思想を喧伝しました。「宗教とはたんなる空疎な決まり文句ではなく危険なものである。なぜなら、宗教は革命を妨害するからだ。宗教とは「民衆の阿片」、苦しみに満ちた現実の中に生きる彼らに必要な痛み止めの薬のようなものである。」(カール マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」(1843年刊行))。

 このような思潮の中から進化論は歴史の舞台に登場しました。宗教の代替物として援用された進化論は、造り主なる神様への信仰を捨てるように人々をそそのかす役割を果たしました。「私は神を信じないが、進化論を信じている」という「信条」をもつ人は現代には大勢いるのではないでしょうか。私たちキリスト信仰者の聖書理解によれば、進化論信仰をもってこの世を去った人々もまた、キリスト信仰者とまったく同様に、最後の裁きで万物の造り主と対面することになり、自分がこの世でどのように信じどのように考えどのように生きたか、について詳細に裁きを受けることになります。上述のように進化論は、神様を侮る者に使用される場合には神様への冒涜として機能します。しかし進化論を標榜する者皆が、それをキリスト教信仰に反対する武器として用いているわけではありません。キリスト信仰者の中でも、進化論を自らの信仰と調和させることができる、と考える人がいるかと思えば、それはできない、と考える人もいます。

3)キリスト教信仰における進化論の評価

   進化論を標榜する無神論者に対して、進化論の不備な点を指摘することで進化論を批判するキリスト信仰者たちがいます。彼らは進化論への反論としてたとえば次のような論理を展開します。「進化の過程を隙間なく提示できる科学的可能性は、ゼロではないにせよ非常に困難である。また、進化の過程を示す上で必要不可欠だが未だ発見されていない部分があり、それを一時しのぎの方法で埋め合わせることで進化論の仮説そのものが構成されている。さらに、実在する自然界の生命の誕生と進展とが、ちょうど私たちが知っているような非常に豊かな多様性をもって実現する可能性は確率的に見てきわめて低い。」

 こうした議論は大切であり説得力もあります。しかし一方で、キリスト信仰者は進化論批判のやりかたを注意深く吟味するべきでしょう。宇宙の誕生や進化論については世界中の大学で研究が続けられています。ですから、「これらの研究に携わる科学者たちは皆が皆、より優れた世界観に反抗する愚か者である」、などと安易に批判するのは問題があります。 

 この小論では、信仰の領域と科学の領域を区別することから出発して、問題を整理してみたいと思います。この二つの領域は両者ともに重要な視点を提示しています。信仰の基礎にあるのは人間の理性ではなく、神様が聖書に啓示された御言葉です。それとは異なり、大学での科学研究は人間の理性で理解可能なやりかたで科学的真理を追究します。ここで注意すべきなのは、研究に携わる自然科学者全員が無神論者なのではないし、進化論信者というわけでもない、ということです。

 往々にしてメディアや公開討論会などでは、極論に走る人々があたかもそれぞれの陣営の代表者であるかのように取り上げられます。たとえば、一方にはキリスト教信仰を覆すために自然科学を持ち出す人々がおり、もう一方にはキリスト教を擁護するために自らの議論の質を吟味せず自然科学に反対する人々がいる、といった具合です。しかし、問題の本質は世間の注目を浴びる安易な二項対立に収まるものではありません。目立たない場所でキリスト教信仰に対して中立的な立場をとる堅実で精確な研究が地味に続けられており、また問題と真摯に取り組むキリスト信仰者たちもいます。ある研究者は自らの立場を次のように短く表現しました。「神様は世界を造られた。それがどのようにして起きたか、私たちは知るために努力を重ねている。」

 ある時私は牧師として若い男女のカップルと面会しました。彼らは婚約中で、数週間後に結婚する予定でした。二人ともはっきりとしたキリスト信仰者であり、医学部の学生として自然科学の教育をきっちり受けていました。ですから彼らは、天地創造や進化論に関する議論についてよく知っていました。新郎は新婦を見つめる時にいったい何を見ているのでしょうか。元素の集合体と化学反応のプロセスでしょうか。科学的にいえばこの視点はまちがってはいません。とはいえ、新郎はこの視点だけから新婦を見ているのではありません。彼は、自分の全人生をすべて分かち合いたい相手として愛する新婦を見つめているのです。
物事は様々な角度から眺めることができるものです。世界とその誕生のプロセスについても、二つの視点から見ることができるでしょう。科学のやるべきことは科学的理論をできるかぎり展開し拡張していくことです。キリスト信仰者は偉大な造り主を畏れ敬いながら御前における自分の居場所を探し求めます。このどちらの視点も私たち人間に与えられた大切な使命です。

 進化論は科学的な仮説であり、それには科学的な検証を加えるべきです。科学の世界ではより優れた理論がより劣った理論に置き換えられていくのが常です。ただしこの変化がゆっくりと進行する場合もあります。自然科学が爆発的とも言える発展を遂げたここ数百年の人類の歴史を振り返ると、キリスト教信仰は科学的研究に対して実に様々な態度を取ってきたことに気付かされます。無益な人間のだましごとだとして科学そのものが否定された時代もありました。科学万能主義を妄信した時代もありました。しかしそうした極端な時期を除けば、キリスト教信仰と自然科学との間にはなんらかの関係が保たれてきました。この関係を適切なかたちで理解するのが、それぞれの時代に生きる者の課題であるとも言えるでしょう。そしてそのためには、多くの知恵が必要とされます。

4)信仰はどのように生まれるのでしょうか?

 ルター派の信条は人間を謙遜にならせる真実を告げ知らせてくれます。これは私たちにとって非常に意義深いことです。その信条とは、「人間は自分の力によっては、自分を信仰者にすることができないし、一瞬でも信仰に留まらせることさえできない」、というものです。聖霊様のみが人間の心の中にキリストへの信仰を生み出してくださるからです。

 進化論を批判するキリスト信仰者の中には、「進化論がまちがっていることを理解した時に人はキリスト教信仰に入れる」、という考え方を支持する人がいます。しかしいくらひとつの科学的仮説をもうひとつの科学的仮説によって置き換えてみても、誰もキリスト信仰者にはなりません。人間の理性にはそれ特有の使命があります。しかし理性によっては、人は十字架の福音を信じるようにはなりません。信仰は聖霊様からの賜物です。聖霊様は御旨にかなう時と場所を選んで、御言葉と聖礼典を通してそれに与る人に信仰を生み出してくださるのです。

5)神様の御前にひれ伏す知恵

 西欧の科学は周囲から干渉を受けず自律的に発展してきた歴史に誇りをもっています。科学者としての自負に満ちた人は誰にも何事にもひれ伏しはしないものです。1800年代から1900年代前半の科学には楽観的な面があったと思います。「絶えず発展する科学技術の力を借りれば人間は世界の問題をすべて解決することができるはずだ」、といった進歩思想が一般の人々の心を支配していました。ところが近年、こうした科学信仰は崩れつつあります。たしかに現代の科学技術は平和と幸福を地上にもたらしました。しかし一方でそれは、人間たちを互いにばらばらに引き離して孤独の中に閉じ込め、自然を地球規模で急速に破壊してきました。

 新約聖書の始めのほうには、遠い東の国の博士たちが飼い葉桶に寝かされた幼子イエス様を訪問した出来事が記されています。彼らは聖なる神様の御子を前にしてひれ伏しました。しかしそうすることで彼らの知恵が価値や面目を失ったわけではありません。この美しい光景を描いている多くの有名な絵画の中での博士たちの顔には、長旅の末にようやく御子を見出したことの至福と喜びがはっきりと映し出されています。

 科学が細分化され専門化が進んだ現代においても、偉大な造り主に素直にひれ伏すことができる知恵を私たちもまた大切にしたいと思います。

   もっと見る>>「信仰のABC」 4.1. 天地創造