天地創造

4.1. 天地創造

天地創造の物語をどのように読んではいけないか

 天地創造の記述を読む際には、神様が聖書を通して私たちに語られる独特のやりかたを思い起こさなければなりません。このやりかたについては今まで扱ってきました。考察対象としては興味深いが実生活では役に立たない内容を講義する教授の語り口と神様の私たちへの語りかけとはまったく異なっています。むしろ、神様の御言葉は重大な決断を迫られている集会での発言に似ています。神様の御言葉には「律法と福音」と呼ばれる二つの側面があります。それは神様の意志と救いの御業に関するメッセージです。そして、このことを念頭においた上でこれから取り上げる旧約聖書の冒頭を飾る天地創造の記述も読むべきなのです。

 もしも私たちが天地創造を百科事典の記事であるかのように読むならば、神様が私たちに言われたいことを正しく把握することはできません。ところが、実際にはこのようなやりかたで天地創造の記述は読まれることがしばしばありました。神様の御言葉の特質である「律法と福音」に興味を示さない人々が聖書の冒頭の箇所から見出したことといえば、一般の人が全宇宙の誕生を概説する科学的な啓蒙書の内容程度のものでした。今でもなお、このようにして天地創造の記述を読む人たちが絶えません。

自然科学と天地創造

 もしも旧約聖書の天地創造の記述を前述のやりかたで読むならば、解決が困難な様々な問題にたちまちぶつかることになります。たとえば、科学が提供する世界観や全宇宙の誕生についての理論などは科学的知識が増大するにつれて絶えず変化し続けます。それら常に更新される科学的世界観と聖書に語られている天地創造とはどのような関係にあるのでしょうか。疑問が次から次へと湧いてきます。

 神様は天地創造の記述をそのようなやりかたで読むために与えてくださったのではありません。神様は私たちに世界の誕生過程を記した「日誌」のような科学的概説を与えるおつもりはなかったのです。たとえば、聖書の冒頭の2つの章にはふたつの創造の記述があります。そして、それらふたつの天地創造の記述は統一して整合的に読むようには書かれていないようにも見えます。細部において多少なりとも歴史や学問に関連をもつ諸事象は神様の伝えたいメッセージの「枠組み」(たとえば、特定の空間や時間など)を提供するものではありますが、神様が語りたい事柄自体ではありません。キリスト信仰者として私たちはこれと同じことを天地創造の記述にも見てとることができるでしょう。もちろん人間はこれらのことについても研究する自由があります。歴史的・科学的研究においては神様が人間に付与された理性的な理解力を用いるのが適切であるともいえます。しかし、神様は聖書をそうした研究を手っ取り早く進める近道になるようないわば「科学的索引辞典」としてお与えになったのではありません。聖書を通して神様はそのようなことよりも大切な事柄について語っておられるのです。

 旧約聖書冒頭を飾る天地創造の記述は大まかであり、創造の具体的な進展過程についても隙間が残されています。ですから、それは天地創造に関する科学的な意味で厳密な知識を得るための基礎文献にはなりえません。天地創造の記述は半ば曖昧さに包まれたものだからです。いつか私たちがそのことをよりよく理解できるようになる時がおそらく到来するであろうことを待ち望みつつ、その時までは態度を保留しておくのが賢明だといえましょう。

天地創造の伝えるメッセージ

 しかし、上で述べたことは「天地創造とは大昔の人々の世界観を私たちに伝える古い作り話である」という意味ではありません。実は、その逆なのです。神様は天地創造の記述のスタイルを自ら選び、その中に御自分の伝えたいメッセージを配置なさったのです。そのメッセージとは、律法と福音を含んだ御言葉であり、神様が私たちに世界の誕生や創造の御業について知ってもらいたい事柄であり、科学的世界観の変遷の影響を被らずに誰もがいつでもどこでも読んで理解できる事柄です。

 それでは、このメッセージはどのような内容を含んでいるのでしょうか?

4.2. 神様はすべての源泉です

宇宙全体は神様が創造なさったものです

 旧約聖書の天地創造の記述では「神様」という言葉が繰り返し登場します。たとえば、「神様は造られた」、「神様は言われた」、「神様は分けられた」、「神様は行われた」、「神様は置かれた」、「神様は祝福された」というように。すべて地の上にあり私たちを取り巻いている宇宙の中に存在するものは神様の御手が形作られたものです。「地とそれに満ちるもの、世界とその中に住むものたちは主のものです」(「詩篇」24篇1節)。「主が仰せられるとその通りになり、命じられると堅く立てられたのです」(「詩篇」33篇9節)。神様にはこれらすべてのものに目的と計画を用意なさっています。「あなたがすべてをお造りになったので、それらはあなたの御意志に沿って存在しまた創造されたのです」(「ヨハネの黙示録」4章11節)。

4.3. すべてには存在目的があります

私たちが存在しているのは意味のないことではありません

 この世界はでたらめに偶然に誕生したのではありません。天地創造の記述は神様が御言葉の力によって光を輝かせ、地を形作られ、海や大陸を生き物で満たし、最後には人を造られた過程を描写しています。これらすべてを神様はご覧になって「よし」とされ、意義深いものとなさったのです。

4.4. 神様は宇宙全体の秩序をお定めになりました

自然法則は神様の御意志のあらわれです

 天地創造の記述によると、神様は地と海を互いに分け隔てて天空の星それぞれに名を付与されました。「主はこれらをとこしえに堅く定め、超えることのできない律法をお定めになった」と「詩篇」148篇6節にあります。「ヨブ記」には、神様が扉で海を閉じ込め、朝日に自らの場所を指し示し、雲を数え、山ヤギの出産の時期を知っておられる様子を詩の形で描写されています(38章8、12、37、39節)。現代風に言えば、神様はまず物質を構成する最小の基本粒子(素粒子)を精緻に創造なさり、電子が原子核の周りを動き回るようにさせ、それらを用いて私たちの世界の全現象を細胞レヴェルにいたるあらゆる活動を含めて構成してくださった、ということになります。そのようにしてできあがった細胞は生命の基本的な構成要素であり、私たち人間の考えや詩心や愛情の基礎を形作っています。自然の全秩序において私たちは神様の力と計画と目的に出会います。

 自然界の法則は神様の創造的な御意志を明示しています。「あなたたちは目を高く上げてどなたがこれらのものを創造したかを見なさい。この方は万象を数えてひきいだし、すべてをその名で呼ばれます。その勢いは偉大で、またその力は強く、この方からは一人たりとも見失われるものはありません」(「イザヤ書」40章26節)と「イザヤ書」は語っています。

 神様は自然の多様な物理法則を設定なさった方でもあるので、それら諸法則の支配主でもあられます。そして、それら諸法則は御自分が定めたものなので、神様は必要に応じてそれらを変更することもできます。ここで、前章の奇跡についての考察を思い起こしましょう。

4.5. 天地創造と進化

進化論が天地創造への信仰を否定することになるとは限りません

 天地創造の記述は創造が段階を踏んで一歩一歩行われたことを語っています。地には植物が生えはじめ、海には生き物が満ち、鳥は天空を飛びまわるようになり、地上には動物たちが種類に応じて出現しました。そして、最後に創造の御業の頂点、被造世界の冠として人間が登場しました。ここで心に留めておかなければならないことがあります。今私たちは天地創造の記述スタイルをある種の観点から大まかに扱っているだけなので、答えがもともと見つからない事柄に関しては答えを無理に案出すべきではない、ということです。時間の経過とともにある生物が別の生物へと変わってきたとする「進化論」と呼ばれる仮説があり、それを科学的真理として受け入れている現代人は大勢います。彼らはいわば「進化論信仰者」なのです。仮にこの仮説が科学的に正しいとされたとしても、聖書の天地創造の記述が真理性は揺るぎません。進化論は神様の創造の順序に関するひとつの仮説にすぎないからです。神様は地や海に植物やその他の生き物を種類に従って生じさせました。これらのものがその多様さを伴って一遍に生み出されたのか、それとも遺伝子レヴェルで起きた一連の変化によって徐々に生じたのかということは、私たちがこの問題を信仰の視点から見るときにはたいした意味を持っていません。あらゆる変化の過程には絶えず神様の御意思が働いている、というキリスト教信仰に基づく確信は、神様の創造の御業を否定する不信仰とは正反対のものだからです。

4.6. 創造の御業は今も継続しています

神様は創造の御業を継続することによって万物を維持してきました

 自然の中で起きるすべての出来事は神様の絶えざる創造の御業である、と聖書は教えています。これには地質学が扱う自然界の事象も含まれています。たとえば「詩篇」には「山々は立ち上がり、谷々はあなたがそれらのために定められたところに沈んだ」(「詩篇」104篇8節)と書いてあります。また、これには季節の移り変わりと自然の新生も含まれています。これについても「詩篇」には「あなたはその天宮から山々に水を注がれます。地はあなたの御業の実をもって満たされます。あなたは家畜のために草を生えさせ、また人の必要のために植物を与えて、地から食物を産出させます。人の心を喜ばす葡萄酒、その顔をつややかにする油、人の心をしっかり支えるパンなどです」(「詩篇」104篇13〜15節)と記されています。あらゆる出来事が神様の偉大なる創造の多様な一連の現象として提示されています。峡谷の泉から野生のロバは喉の渇きをいやし、木は養分を補給し、コウノトリは杉の木に巣を作る、というように。「あなたが御霊を遣わされるとき、それらは造られます。あなたは地の面を新たになさいます」(「詩篇」104篇30節)。

 同様の視点をイエス様も新約聖書で提示なさっています。神様は野の草を装って、栄華を極めたソロモンでさえ見劣りするほど立派な衣装を野の花々に与えてくださるのです(「マタイによる福音書」6章29~30節)。

 これらの記述は、自然の内在的因果関係に対する無知のゆえに案出された原始的な想像の所産などではありません。聖書に基づく天地創造信仰は現代の自然科学の知識では未だ説明が困難な事象を一時しのぎ的に補完する便宜上の説明などではありません。もともと人間は自然を詳細に探求する傾向をもっています。そして、「詩篇」の記者は自然のあらゆる事象を「神様の創造の御業」として受け止めているのです。

 人間の感覚で把握可能な自然現象に関して、キリスト信仰者は無神論者や懐疑論者と同じように理解しています。低気圧や肺炎などについて、キリスト信仰者は他の人々と一緒に同じ自然法則の存在を信じています。しかしその一方で、キリスト信仰者は「神様が日々の糧を祝福し、病気の時に助け、地の産物を守ってくださるように」といったお祈りをします。キリスト信仰者は自然の大いなる総体の細部にわたって神様が働きかけてくださることを信じているからです。