人間

4.7. 人間

「神様のかたち」として

 創造の御業全体の頂点であると同時に終点でもあったのは人間です。人間の創造は、神様がそれまでのすべての創造の御業を越える決定的に何か新しい存在を造られたことを意味しています。人は「神様のかたち」、「神様に似たもの」として他のすべての被造物を支配するために創造されました。

 神様は、私たち人間がそれ以外の被造物とは決定的に異なる生き物として創造されたことを「天地創造」の記述を通して知らせてくださったのです。このことを告げているのが「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造ろう」(「創世記」1章26節 )という御言葉です。わかりやすくいえばこの御言葉は「人間は神様が存在することを知ることができる」という意味です。人間は神様と一緒にいることができます。宗教改革者マルティン・ルターが「モーセの十戒」についての説明で言っているように、人間に与えられている仕事は、神様に感謝し、賛美をささげ、仕え、忠実を守ることです。「神様のかたち」として造られた人間は信じることも祈ることもできるのです。

同時に「塵に等しいもの」として

 人間の置かれている立場はきわめて独特です。本来人間は、神様に感謝し賛美をささげ仕え忠実を守るような存在ではありません。むしろ、そのような者になることを神様から期待され、人としての職務を委ねられている、と言ったほうが適切でしょう。人間は本性的には他の被造物と同様に大自然の一部である、というのが聖書の教えるところです。「あなた(人)は土から取られたのだから、あなたは塵だから、あなたは塵に帰る」(「創世記」3章19節)。もともと人は「土から取られた」存在です。私たちが死ぬ時に神様は私たちを再び土の塵に帰します(「詩篇」90篇3節)。人間の体が無機的な自然と同じ諸元素から構成されていることを現代の私たちは昔に比べてはるかに正確に把握しています。同じ知見に基づいて、人間が死ぬ時にその体を構成していた同じ原子や分子が新しい結合物をまったく新しいやりかたで構成することは原則的に可能であることになります。

 現代の科学は人間を自然の大いなる全体性の一部としてとらえます。この見方はそれ自体としては聖書に反する主張ではありません。しかし、聖書は人間について科学よりも多くのことを知っています。神様は人間を「魂の所有者」として、より正確に言えば「魂」として造られました(「創世記」2章7節)。

4.8. 魂

魂は人間のある一部分ではありません

 聖書は魂について描写していません。魂はそれだけを他から分離できるような人間の構成部分ではないからです。体と魂を持った人間そのものを「魂」と呼ぶ場合があります。人間を魂と呼ぶのは、人が神様とどのような関係にあるかがその人の命に決定的な意味を持っているからです。また、人間は死を通していずれこの世から永遠の世界へと移行するからでもあります。

魂は私たちに神様と結びつく可能性を与えるものです

 人間をこのような「永遠の生命体」にしているのは、人間が何かしら他の生物よりも優れた消滅しない精神的な本質をもっているからではありません。ほかでもなく人間が神様の子どもとなり、神様を知り、神様の語りかけに耳を傾け、神様に信頼して祈り、神様を信じて愛するようになることを神様御自身が切に望んでおられるからなのです。中世のローマ・カトリック教会のスコラ神学者たちは魂の本質をめぐる理論を構築しました。それを批判したマルティン・ルターは魂が何であるかという問題は人間には知りえない事柄であることを強調しました。それは神様やその御意志と同じく奥義に属することであり、私たち人間の知識や理性によっては把握できないものだからです。

魂と体は相反するものではありません

 体と魂の関係を考察する時に何よりもまず銘記すべきなのは、キリスト教信仰は、物質的で汚れた下等な欲望に満たされた「体」と、より優れた精神的な「魂」とを正反対なものとして対置させない、という点です。私たち人間の内部において、体と魂との間にこのような単純な境界線を引くことはできません。私たちがこの世で人生を歩み続けるかぎり、体と魂はひとつの全体をなしています。体も魂も神様に仕えることができますし、神様からの罪の赦しを受けることもできる善き存在なのです。しかし、もしも人間が神様に自らを委ねていない場合には、「魂の命は人間の内部で体よりも優れた部分である」などとはとうてい主張できません。むしろ、逆であると言えましょう。

人間の価値

 「人間はかけがえのない大切な存在だ」と私たちは断言することができます。そして、この主張の根底には、神様の創造の御業への絶対的な信頼があります。人間は「神様のかたち」であり、神様が造って愛を注いでくださる対象です。それゆえに、人間は皆が同じようにかけがいのない存在なのです。人々を各々の実力や才能や性格といった基準によって計測するなら、彼らの間には多様な差異が見出されることでしょう。にもかかわらず、ある点において人間は皆同じ立場なのです。それは、神様が人間を御自分の子どもとして造られた、という点です。それゆえ、それぞれの人を、たとえその人が誰であろうとも、神様の目には等しく尊い兄弟姉妹として接するべきである、ということになります。お年寄り、体の調子が悪い人、病気の人、体に障害がある人、気難しい人など、人は十人十色ですが、皆が人間としてかけがいのない価値をもっています。ですから、人の命に危害を加えることは許されません。また、人は愛と配慮を享受する権利をもっています。

4.9. 被造物の支配権

人間に理性が与えられているのは被造物世界を適切に支配するためです

 創造の御業への信仰には、神様は人間が自然界を支配するようになさった、という意味も含まれています。「あなたはこれ(人間)に御手の御業を治めさせ、すべてのものをその足の下におかれました」(「詩篇」8篇7節)。

 この点で、人間はこの世において他のあらゆる生き物から区別されることになります。人間は道具を発明し、動物を飼いならし、自然の力を利用して上述の御言葉を実現していきます。

 独創的で生産的な仕事をすることは人間が神様から受けた使命のひとつです。技術を革新し、機械を設計し、発電所を建設し、道路を敷設するときに、人間は神様の意志を実現します。自然を研究することも神様の意志にかなっています。もちろん、これらすべてのことについて人間が環境破壊など間違った方法をとる場合もあります。なぜそうなるかというと、人間がもっている力は神様が人間創造の際に人間に与えた善き力や精神的な力だけではないからです。