4.12. 罪への堕落と原罪

罪への堕落

 本来、人間は損得勘定抜きで自発的に神様を愛する善き存在として造られた、と聖書は教えています。しかし、あらゆる点で神様の御計画を台無しにしようと目論む悪魔は、最初の人間たちが神様からいただいた「自立した生き物として活きる」という意志と権利を誤用するように教え込み、神様の御意志よりも自分らの行きたい道を勝手に選ぶように仕向けました。その時に起きた出来事は神様の用意なさった道からのたんなる一時的な逸脱ではありません。それは人間の心と本質が悪に向かって開かれたことと、神様に徹底抗戦を挑む者である悪魔が人間に自分の目印を刻印するのを許してしまったことを意味しています。人間は以前に神様の御霊をいただいていたのに、罪の中に堕落したせいで、今度は悪の霊を受けることになってしまったのです。

人間性の中に住む悪

 創世記3章にある「罪の堕落」の記述は具体的な状況の下で最初の人間たちに起きたことを正確に伝えようとしている、と多くのキリスト信仰者は確信しています。この記述をたんなる比喩とみなす人々さえも、悪が人間性に感染してしまうきっかけとなった事情をその記述から読み取っています。現代的な言いかたをするなら、人間はいわば誤ってプログラムされてしまったのです。人間が他者を犠牲にしてまで己の欲望を実現しようとする自己中心的な心の傾向をもっているのは誰の目にも明らかな事実です。私たちには悪を行う傾向があるのです。この傾向は様々な形でいかにも自然に実行されるので、人間は悪を行うのが当然である、という感じさえします。私たちには他者を攻撃する欲望、他者の失敗や不幸を喜ぶ心、冷酷さ、偽りを言う心、その他にも多くの似たような悪の心があります。福音ルーテル教会にとって最重要な信条といってよい「アウグスブルク信仰告白」が教えているように、私たち人間には神様への正しい信仰がない、というのは最悪な事態です。さらに、私たちは世俗的な平和が乱されたり、信仰のない者が困惑したり、自らの生きかたが批判されたりすることを恐れています。私たちはこれらが起こることのほうを神様の御意志を破ることよりも恐れているのです。私たちの信仰は疑心暗鬼、不満、報酬をねだる心、信仰と矛盾するその他多くの事柄によって汚されてしまっています。

「原罪」「肉」「罪の腐敗」「古い人」は同じ内容を意味しています

 神様に対して怒りをもつ自己中心的な人間の心の動きは「原罪」と呼ばれます。原罪について聖書は多くの場合「肉」という言葉を用いています。この言葉はその聖書的な背景を知らない人たちに誤解を生むことがしばしばあります。肉はたんに肉体を意味していると思われることがよくありますが、そういう意味ではありません。原罪を意味する言葉として「罪の腐敗」という表現も一般的です。この言葉は私たち人間の本質が罪に由来する腐敗に感染してしまっている状況を的確に表現しています。

 罪の腐敗は「古いアダム」と言われることもあります。自分たちの腐敗した性質を私たちはアダムからいわば「遺産」として引き継いでいるのです。私たちの中にある「古い人」、堕落した人間、神様に疑念を抱き自らの力や栄光や快楽に固執する人間が私たちの自己の一部を構成しているのです。

4.13. 罪とは何ですか?

行いによる罪とは、ある事柄を無視する罪でもあり、具体的に何か悪いことを行う罪でもあります

 「罪」という言葉は、真っ当な人間生活から逸脱した具体的な行いや振る舞いを指すものとして使われることが多いでしょう。もちろん、そのような行いも罪です。キリスト教的な表現を用いるなら、このような行いは「行いによる罪」と名づけられます。行いによる罪には、外面的な犯罪や無頓着な振る舞いだけではなく、神様の禁止したことを行ったり、神様が行うように命じたことを無視したりして神様の戒めを破る人間のあらゆる欲望、考え、言葉遣い、行いなどが含まれています。

原罪は私たちの内部にあって、私たちがいかなる存在であるかを示しています

 神様の御命令に反していることはすべて罪です。それは「私たちが何を行うか」ということだけではなく「私たちは何であるか」という問題でもあります。私たちには神様を捨てて悪を行う傾向があります。このこと自体がすでに罪なのであり、私たちを罪深い存在(罪人)にしているのです。

 ここで、「私たちはこれほど罪深い者なのだから、どうしようもないではないか」と言いたくなるかもしれません。しかし、人間を不当に処罰する口実を得るために神様が人間の心のあら探しをすることはありません。実は、神様の善なる意志から外れているものは、そのすべてが罪なのです。罪とは、私たちを神様の近くにいるのにふさわしくない者にしたり、私たちが神様の御許にいるのを望まなくさせたりすることで、私たちを神様から引き離そうと働きかける何かです。罪は、私たちを神様の御国に不適格な者にしてしまう、人間性に染み付いている特質なのです。

 それゆえ、罪は実に深刻な問題なのです。もしもこの問題がたんに外面的な行いに関するものであるならば、おそらく私たちはそれを捨てることで状況を変えることができるでしょう。最も大切な戒めでもある第一の戒めは、私たちは神様を真に心から愛さなければならない、というものです。これと同じくらい大切なもうひとつの戒めは、イエス様が言われているように、私たちは自分たちを愛するように隣り人をも愛さなければならない、というものです。神様と共に歩む人生はこれらの戒めに基づいています。しかし、私たちは戒めを守れるような者ではありません。そのような人間になろうと真剣に努力するときに、私たちはそれが不可能であることに気づきます。そのときにようやく私たちは、神様に受け入れていただくために神様の戒めに従おうといくら自分で努力しても、人間にはそれがどうしてもできない、という人間の原罪性に関わるキリスト教の教えが正しいことを認めるようになるのです。

 これは私たちの人生にとって大きな問題です。しかし、この問題は天地創造に関わるキリスト教の信条だけでは解決できないのです。

4.14. 人間は同時に悪い存在でも善い存在でもあります

人間性の中には神様の善き創造の御業の痕跡と罪による腐敗の痕跡の両方が残っています

 人間は神様によって造られた存在です。しかしその一方で、人間は罪によって腐敗した存在でもあります。それでも、「人間は隅々まで悪い」と信じてしまうのはまったく間違っています。なるほど人間の中には罪の腐敗があります。とはいえ、そのせいで人間が何も善いことができなくなってしまうことはありません。ルーテル教会の信条書によれば、人間は神様から理性を授かっているので、ある程度までは表面的に正しく生活することができるし、社会の中で正義を実現したり、人間的な美徳として周囲の尊敬を受けるのが当然であることを実行したりすることができます。人間の中で神様のよき創造の御業がなされてきたことを証するような事柄が人間存在にはあります。たとえば自然を支配する力、物を生産するために使用される道具を開発する力、社会を形作る力、理路整然とした法律を制定する力、身近にいる人々を自然に愛する力、家庭や学問や人間社会のために大きな犠牲を払う力などです。しかしその一方で、人間の中には罪や悪の引き起こした事柄もあります。それによって人間が行えるはずのよい事柄でさえ何度となく台無しにされてしまいます。たとえば、人間は自らの技術力を破壊的な兵器の製造にも利用します。これまで人間が形成してきた社会は、どういうわけか住民たちが不満を募らせては腐敗してしまう社会でした。また、人間は正義や神様の御意志に反する不当な法律を制定して人々を苦しめ搾取の対象にしてきました。

目立たない形で神様のための働きをする人々がいます

 今まで見てきたように、人間社会の生活や歴史は神様とサタンの間の絶えざる戦いの舞台という様相を呈しています。この戦いで神様は御自身のために人々を利用します。彼らの中には、神様を信じていないものの、神様からの賜物である理性と創造力を正しく活用する人々も含まれます。それゆえ、社会問題の解決や世界の改善に関してなら、キリスト信仰者は善き良心を維持しながら無神論者や教会の批判者とも協力することができるのです。この世の事柄に限って言えば、人は誰でも、たとえキリストを知らず神様が存在することを信じていない場合でさえも、創造に際して神様からいただいた善き賜物を用いて善を行うことが可能なのです。

4.15. なぜ神様は悪が起きることを容認なさっているのでしょうか?

神様は罪人が一人でも滅びるのを望まれません

 「もしも神が存在するなら、どうして神は世界にこれほど大量の悪が起きることを許しているのか」という疑問をもつ人が大勢います。ところが、人間が引き起こす悪をよく調べてみると、「神様は憐れみ深い方だからである」というのがその疑問への答えであることがわかります。万能なる神様はすべての破壊、不正、苦難をいつでも瞬時に止めさせることができます。しかし、もしも神様が政治的腐敗や戦争に関してばかりではなく、家庭での喧嘩や仕事場での不愉快な振る舞いや他人の苦しみを無視する態度など、ありとあらゆる苦難に関しても終止符を打つ場合、いったいどれくらいの人がその後に残されるのでしょうか?神様はこのような形で全能性を発動したいとは思われないのです。そのかわり、神様は人間に御自分への確固たる信頼をもたせることによって働きかけようとなさいます。神様はこの働きかけを、一方では創造の際に私たち人間の良心に植え付けた律法、善い力、能力を通して実行し、他方では御自身の愛の力によって私たち人間に賜る御言葉を用いて遂行なさいます。とはいっても、神様のこの働きかけは自動的に実現するものではありません。神様は「御自分のかたち」としてお造りになった人間をその実現のために活用なさるのです。そのために、私たち人間には物事を解決したり選択したりする可能性が与えられているのです。このように、人間生活の歴史は常に緊張をはらんだドラマなのであり、そこでは私たちめいめいが神様とサタンの間の戦いの只中に配置されていることになります。

なぜ不幸な出来事が私たちに起こるのでしょうか?

 自然災害や病気や農作物の不作など自然法則に起因する苦難を扱うとき、問題の難易度はさらに上がります。私たちは先に、自然法則は神様の御意志の表出である、と言いました。ということは、自然の中で起きることはすべて神様の御意志にかなったことなのでしょうか?このような疑問に私たち人間は最終的な答えを与えることができません。聖書には二つの異なった答えを示唆する箇所があります。神様は不幸も人間に与える場合がある、と旧約聖書の登場人物たちは確信していました。不幸の問題を聖書的に扱う際には、これが出発点となります。神様の御言葉が直接的な根拠を与えます(たとえば「イザヤ書」45章7節)。不幸をめぐる問題への答えを模索する試みはすでに古代キリスト教会において見られます。「不幸は神様がそうなるのを許された結果の出来事である。その目的は、一方では神様をないがしろにしている人々に対する警告や処罰を下すことであり、他方では神様を信じる人々の信仰を強めるための試練を与えることである」という考えかたです。それによると、不幸とは偶然ではなく、運命の不可避な結末でもありません。

 たしかにイエス様はある病気に関して「サタンの引き起こしたもの」と言っておられます(「ルカによる福音書」14章16節)。しかし、これも神様のお許しの下になされた不幸であることを覚えましょう。パウロは「被造物すべてが滅びの隷属の中でうめいており、そこから神様がいつか解き放ってくださるのを待ち望んでいる」と告げています(「ローマの信徒への手紙」8章19節以降)。自然の中で神様の御意志に反対し神様に挑戦してくる破壊者の仕業に見える出来事を目の前にする場合にも、私たちキリスト信仰者はパウロと共に次のように堅く信仰を守るべきです。「神様は反抗者たちよりも力が強く、滅ぼす力と戦っているときにも常に事の推移を先導して、自分自身を神様の護りに委ねる人々にとってよい結果をもたらしてくださる」(「ローマの信徒への手紙」8章28節)。

 全能なる神様は不幸な出来事にも目的を与えてそれらをよいものに変えることができます。不幸が降りかかったときに神様のもとに避難するかどうか、にすべてはかかっています。古来のキリスト信仰者の一般的な経験によれば、不幸は人を苦い思いで満たすか、あるいは悔い改めへと導くかのどちらかです。過去を振り返って「なぜこんなことがよりにもよって私に起きてしまったのか?」と問うのは意味がありません。不幸は何らかの道徳的な基準によって、犯罪に釣り合う罰として不幸の犠牲者に降りかかるものではないからです。しかしそれとは逆に「なぜ、どういう意味で、何を目的にして、神様は私をこのような不幸に陥らせたのか」と問うことはできます。あるとき弟子たちはイエス様に「先生、この人が目の見えない者として生まれたのは誰が罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」と問いました(「ヨハネによる福音書」9章2節以降)。それに対して、イエス様は「本人が罪を犯したのでもなく、またその両親が犯したのでもありません。そうではなく神様の御業がその人の中にあらわれるためです」と答えられました。私たちが自らに降りかかる不幸について確信してもよい事柄は結局ひとつだけです。不幸な出来事が私に起きるのをお許しになる際に神様は善き目的をもっておられる、ということです。不幸が起きるのを容認なさる理由が何であれ、起きた不幸によって神様が御自分の御業を公に示し、私にも他の人にも祝福となる何かを私を通して実現する機会を大切に思われているのはたしかです。