第6章 救い

「見ず知らずの他人が私の罪の責任を取らなければいけない」というメッセージを聞いて「ずいぶん馬鹿げた話だなあ」と以前私は思っていた。「大人なら自分のことはちゃんと自分で責任を取るべきだろう」と。

 しかし、自分自身や家族や他のどんなことに関しても私の望み通りにはいかなかったことを今になって思いかえしてみると、私の失敗の数々を記した「負債書」を帳消しにして「すべて支払いは済みましたからここにあなたの署名をしてください」と誰か書いてくれないかなあ、と思うようになった。こんなことは自分ではできないし。

6.1. 下降から高挙へ

キリストの御業は「下降」と「高挙」という二つの主要部分に分けることができます。

キリストの下降

 キリストの下降が始まったのはキリストが人になられたときであり、その下降が最も深くなったのはキリストの十字架上での死においてでした。パウロはキリストの下降について「キリストは神様のかたちであられたのに、神様と同等の存在であることを自らの獲得物とは思わずに、かえって御自分をむなしくして僕のかたちをとり、人間の姿になられました。その有様は人として見出され、御自分を低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順でした」というよく知られた表現で描写しました(「フィリピの信徒への手紙」2章6節以降)。

 キリストは御自分をむなしくなさいました。パウロの説明によると、それはキリストが御自分が神様と同等の存在であることを自分で獲得したとは見なさなかったことを意味しています。キリストはもともと神様と同質の存在であり、それをわざわざ自分に勝ち取る必要はなかったからです。処女マリアの胎に宿る以前には「神様のかたち」のみをもっておられたキリストは、それを背景にひっこめて「人」としてこの世にお生まれになりました。キリストは人となることで時間と空間によって限定された領域へと身を低めました。石だらけの道を痛む足で歩き回りました。疲れた頭を休める場所もありませんでした。陰謀に苦しめられ、陰口の犠牲となりました。そして、鞭で打たれ、苦痛に満ちた死を甘受なさいました。

キリストの実行なさった従順

 パウロはキリストが死に至るまで従順を貫かれたことを強調しました。「ヘブライの信徒への手紙」にもパウロの手紙と同じテーマが登場します。「この方は御子でありながらも、さまざまな苦しみを通して従順を学ばれたのです」(5章8節)。神様なるお方が自ら律法の下へ身を低め、人間が破ったすべての戒めを私たちに代わって完全に実行してくださったのです。キリストは御自分に委ねられた権能を私益のために悪用させようとした「誘惑する者」(悪魔のこと)の試みをすべて斥けました。キリストこそは世の人間の中で神様が人間に望まれた理想的な生活を純粋に実現した最初で最後の人でもありました。

キリストは苦難に対しても従順でした

 それだけではありません。この地上でただひとり義なるキリストがその死にいたるまで従順を貫いたのです。そして、人間たちを神様への不従順という罪の罰から救い出すために、底知れない苦しみを身代わりに引き受けてくださったのです。

 「それゆえ」とパウロは言います、「神様はこの方を高くあげ、この方にすべての名よりも高い御名をお与えになりました」(「フィリピの信徒への手紙」2章9節)。

キリストの高挙

 キリストの高挙は「使徒信条」では「陰府にくだり」という箇所から始まります。キリストが墓に葬られた時点で、人間的に見れば一切の希望は失われたといえます。イエス様の敵の勝利に終わったようにみえたからです。彼らは民衆の前で「イエスは詐欺師である」と言いふらしました。旧約聖書に基づいて、十字架に架けられ絞首刑の木に吊されることは受刑者が神様に呪われ見捨てられた確実な証拠であると見なされていました(「申命記」21章22~23節)。弟子たちはもはや何を信じるべきかわからなくなっていました。それで彼らは錠を下ろした部屋の内側に隠れていたのです。

 そのときに神様は人間を救う御計画の中でもきわめて決定的かつ斬新なやりかたで働きかけてくださいました。私たち人間ができうる限り深い底へと沈めたお方を、なんと神様が高きところへと挙げてくださったのです。すなわち、神様はイエス様を死者たちの中からよみがえらせ、「すべての名よりも高き御名」、「主」という神様の御名をイエス様にお与えになったのです。キリストは神様の御力による死者からの復活によってその神の御子たる本質が人々にも明示された方なのです(「ローマの信徒への手紙」1章4節)。

 キリストの高挙は陰府(死者たちのいる世界)から始まりました。陰府へと下ったキリストは、他の死者たちとは異なり、知られざる場所の中へと永遠に消えゆくことはありませんでした。天と地における一切の権能を有するお方として、キリストは陰府に下降なさいました。陰府においても、キリスト以前に死んだ者たちに対して福音が宣べ伝えられたであろうことを新約聖書は示唆しています(「ペテロの第一の手紙」3章19節、4章6節)。

 しかし、地上の人間世界の歴史においては、キリストの高挙は復活から始まります。

6.2. 復活という事実

キリストは本当に復活なさいました

 私たちキリスト信仰者は「キリストの復活」を人間世界全体に関わるキリスト教の基本的な事実であると見なしていますが、一方では、この事実が本当かどうか疑うことができることも知っています。それは、はるか昔のすべての出来事が事実かどうか疑うことができることとまったく同様です。しかも、これはもっともな懐疑でもあります。なぜなら、ここで問題になっているのはただ一度だけ起こった比類のない出来事だからです。

 それでは、キリスト信仰者はいったいどのようなことに基づいて、キリストが本当に死者たちの中からよみがえられたという確信を得ているのでしょうか?

キリストの復活の証人たち

 第一に、弟子たちはキリストの復活をどのようにして信じることができたのでしょうか?彼らがこの出来事について語ったことを通して、私たちはこのことを考えることができます。出来事について目撃者たちは驚嘆しつつ証言しています。起きた出来事について各々が独自の視点から生々しく語っています。彼らの証言には、どのような疑問にもあらかじめ返事が用意されている「首尾一貫した物語」とするために後から細工や編集が施された形跡はありません。

 弟子たちにとってこの出来事はまったく予想外なものでした。たしかにイエス様は復活について以前にも話しておられました。しかし、それは彼らの想像力をはるかに超えるものだったため、おそらく彼らはそれを心の隅に追いやっていたのでしょう。

 イエス様の復活は一挙に事態を変えました。完全な敗北と皆に思われていたことが、実は決定的な勝利であったことが示されたのです。外面的に見ると、弟子たちの立場が好転するようなことは何も起きなかったようではあります。ユダヤ人たちにとって、イエス様は依然として処刑された詐欺師でした。ところが、「キリストは正しかった。キリストは勝利なさった。キリストは神様の御子である」という揺るがない確信を弟子たちに瞬時に与える何事かが起きたのです。どのようなことがこの確信を彼らに与えたのでしょうか。彼ら自身が語っているように、それは死者の中からのイエス様の復活の出来事でした。彼らはイエス様の墓が空になっているのを発見しました。その後、彼らはイエス様を自分の目で見、面と向かってイエス様と話し合いました。また、イエス様の復活について世の中の人々を説得するようにイエス様から命じられました。それゆえに、彼らにはイエス様の御名によって宣教する勇気が与えられたのです。人間的に見れば、これはまったく愚かなことでした。それは想像しうるかぎりもっとも望みのない試みのはじまりでもありました。しかし、イエス様の死によって自分たちの期待や信仰が潰え去ったと感じていたにもかかわらず、イエス様の弟子たちはイエス様の指示に従いました。

 このような証人たちの証言は信じるに値します。人間的に見れば、彼らはその活動を通して迫害を受け、しまいには殉教していくほかありませんでした。しかし、疑いの余地が微塵もないほど偉大で革新的で信頼できる出来事に彼らは遭遇したのです。

キリストの復活について歴史的に言えること

 歴史的に言えることは、イエス様の死後、イエス様が復活なさったことやイエス様が神様の御子であり人間世界の解放者であることを世界全体に宣教する使命を直接イエス様から受けたとイエス様の弟子たちに確信させる何か特別な出来事が起きたということです。イエス様を収めた墓が空だったことは当時すでに一般的によく知られていた事実であったようで、それについて反対者たちは筋道の通った説明を与えなければなりませんでした。復活した主を目にしたのは弟子たちだけでした。目撃者は大勢いました。パウロの報告によると500人以上いました(「コリントの信徒への第一の手紙」15章6節)。もちろんこの不思議な現象については、夢破れたイエス様の信奉者たちには絶望から我が身を守るために幻想や恍惚状態を経験したり想像の世界へ逃避したりする必要があった、などと説明付けることはできます。しかしその一方では、このような説明が的外れであることを示す、真剣な検討に価する次のような証拠もあります。すなわち、イエス様の復活を宣べ伝えはじめた弟子たちは、長期間にわたって、困難な仕事を抱え様々な危険に晒されることになりました。彼らはふつうの働き人であり、使徒の職務の中で現実の生活に絶えず触れていました。彼らは日常から遊離してはいませんでした。真実性が怪しまれることや危険に感じることに対しては健全な疑いをもつ普通人であったと思われます。イエス様の復活についても彼らの示した最初の反応は「疑い」でした(「マルコによる福音書」16章11節以降)。

復活信仰と経験

 人がキリストを信じるようになる決定的な要因はその人自身の経験です。人々が自らの人生の中で何度も繰り返して「復活の主」に出会うことがなかったとしたら、復活への信仰が今に至るまでこの世で存続するのはありえなかったでしょう。キリスト教会がこの信仰をしっかり守り続けていることには理由があります。教会全体の命はキリストと共にある命であり、その中でこそ復活の主が私たちに語りかけ、私たちの只中で働かれるのです。

 「復活信仰」に関する確信の基盤は私たちが「神様への信仰」に関わる問題を考えるときと同じです。イエス様の復活についても理論的には多様な説明を与えることが可能です。しかし、人はそれらの中から何かを選ばなければなりません。結局のところ個人的な確信は、人が真理に出会った際にその人が間をおかずに内面で個人的に経験する事柄にその基礎を置くものなのです。

 これからキリスト教の復活信仰の内容を描写していきますが、私たちはそれを新約聖書に記述されている事柄に沿って紹介することにします。

6.3. 死に対するキリストの勝利

死という敵

 イエス様の復活の最も明瞭な第一の意味は「死は打ち破られた」ということです。キリストは死を打ち滅ぼしました。ですから、死はもはやキリストを自分の支配下におくことができません。

 もしもそうでなかったならば、死は人間世界を無制限に支配し続けたことでしょう。死は、人が神様との良好な関係を捨てており、もはや神様と共に活きていない、という罪の引き起こす結果です。もともと人は神様との破綻しない理想的な関係の中で活きていくように定められていました。もしも罪がこの関係を壊すことがなかったとしたら、どうなったのでしょうか?私たちは想像するしかありません。その場合には、死は少なくとも今のような恐るべき滅びの力ではなかったことでしょう。私たちの体を痛めつけ滅ぼす点で、また私たちの中に恐れと生きる意味を見失わせる感情とを生み出す点で、死は「敵」と呼べるものです。死は神様の世界では本来なら起こるべきではない事態を引き起こしました。死の恐るべき滅ぼし尽くす支配力は罪と連関しています。それは、神様の御意志と矛盾する、神様の善き創造の御業を腐敗させるものが実在することを示しています。

打ち砕かれた死の支配

 キリストの復活はこの滅びの力がもはや支配力を独占しているわけではないことを宣言しています。死に打ち勝つ存在が現れたのです。神様と人々とを分け隔てる深淵を越えて「橋」が架けられました。復活は神様が私たちの罪の重荷を拭い去るという御業や「贖い」と呼ばれる御業と内的に関係しています。

6.4. 贖い

「贖い」とは?

 キリストは私たちの「罪の贖い」です。これは新約聖書がイエス様の苦しみや死に対して与えている説明の最も大切な点のひとつです。罪人を神様から分け隔てるすべての障害が存在するにもかかわらず、神様は罪人に神様の子どもになる可能性を備えてくださいました。これが贖いの意味です。罪深い存在である人間が神様と共にいようとすると、悪と接触を持ちえない聖なる神様の愛の力のゆえに人間なら誰もが滅ぼされてしまう、というのが本来なら当然なのですが、キリストの贖いの御業のおかげで罪人が神様と共にいることができるようになったのです。

私たちは贖いの意味を部分的にのみ理解できます

贖いは奥義です。私たちの思考力ではそれを部分的に理解できるにすぎません。キリストが世のすべての罪を御自分に引き受けられたことや、キリストがそれらの罪を御自分の体によって十字架まで運び、私たち人間が罪を犯したことに由来するすべての悪い結果を身代わりに引き受けてくださったことを私たちは知っています(「ペテロの第一の手紙」2章24節)。まさにこのゆえにキリストは十字架で死ななければならなかったことを私たちはすでに学びました。キリストの中で本来ひとつにすることができない二つのものが出会いました。すなわち、神様と悪です。しかしまた、キリストを犠牲死へと至らせたこの出会いは、キリストの尊い血の代価によって罪がすべて帳消しにされ負債が全額返済されるという結果をもたらしました。どのようにしてこのことが起きたのか、私たちのうちの誰ひとり詳細な説明を与えることができません。新約聖書は様々なイメージを用いながら、まさにこの結果がゴルゴタでもたらされたことを何度も強調しています。私たちのために「呪いの下にあるもの」、「呪いそのもの」となったときに、キリストは私たちを律法の呪いから買い戻し解放してくださったのです(「ガラテアの信徒への手紙」3章13節)。

私たちの罪のための犠牲

 キリストの死はそれゆえ「犠牲」と名づけることができます。「ヘブライの信徒への手紙」によれば、旧約聖書の犠牲を捧げる儀式は「来るべきよいことの影」、来るべき出来事を指し示す比喩でした(10章1節以降)。これら犠牲の儀式は人間に自らの罪深さを絶えず思い起こさせ、神様の律法を破ることがどれほど重大な過失であるかを示す出来事でした。律法を破ったがゆえに律法によって死罪とされるはずの者が神様の裁きの下に置かれ、自分の命の代価としての犠牲を捧げ、自分の罪の重荷を告白しました。これらの犠牲はキリストのことを指し示している「予型」でもあります。キリストは神の御民の罪のために捧げられた犠牲や、御民の代表者として犠牲を捧げる大祭司に比較されています(「ヘブライの信徒への手紙」10章10節、9章11節以降)。

神様と人との仲保者

 贖いの意味は新約聖書に従って「仲保者」という言葉でも説明できます(「テモテへの第一の手紙」2章5節以降)。キリストは神様であると同時にも人間でもあります。それゆえ、キリストは神様と人との仲介者の役割を担うことができるのです。このキリストが私たち人間の罪を取り去って肩代わりし、私たちが神様の御許に行けるようにしてくださったのです。キリストを通して私たちは神様のおそば近くに行くことができます。まだ贖われていない罪は聖なる神様の愛を耐えることができません。しかし、成し遂げられた贖いのゆえに、神様の愛が私たち人間を焼き滅ぼすことはもはやなくなりました。それどころか、私たちはこの愛を御父の真心の暖かさとして経験することができるのです。

6.5. 新しい創造

新しい世界の始まり

 復活の意味は、世の罪が贖われた後で死が打ち破られたことだけではありません。それは同時に新しい世界と神様の新しい創造の御業の始まりを告げるものでもあります。キリストは「神様の御国」(あるいはマタイが言っているように「天の御国」)を創設するためにこの世に来られたのです。神様の御国は「神様による支配」を意味しています。それは、悪が粉砕されて、神様に対する反抗もなく、それゆえにいかなる苦しみもない新しい世界のことです。この新世界は神様が新しいことを創造なさることによってのみ実現します。「肉や血」すなわち私たちの人間的な性質は神様の御国を継ぐことができません。神様が御自分で以前造られたものを創造の力によって変えることによって「この朽ちるものは朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになります」(「コリントの信徒への第一の手紙」15章50,53節)。この「新たな創造の御業の初穂」こそ、復活して弟子たちに姿を現したキリストです。復活の証人たちは、本来なら記述不可能なはずの出来事を描写しようと試みたのです。

復活後のキリスト

 彼らが立ち会ったのはまったく新しい出来事でした。新約聖書は「栄光の体」やキリストの「栄光のかたち」について語っています(「フィリピの信徒への手紙」3章21節)。この「栄光のかたち」がどのようなものか私たちは知りません。この世にはそれに比較するものが何もないからです。私たちが知っているのは、イエス様は復活の後にもこの世に明らかに実在しておられたが、この世に出自をもつ方ではなかったことだけです。弟子たちはイエス様のことを認識して会話を交わすことができました。しかしその一方で、イエス様は閉め切った戸を通り抜けて弟子たちの目の前から消え去ることもできました。

 さらに、新約聖書は「キリストが死者たちの復活の長子である」と教えています(「使徒言行録」26章23節)。キリストになさったことを神様は、信仰を通してキリストに属しているすべての人たちに対しても行われます。神様の御国において私たちは皆同じ「栄光のかたち」をいただくことになるのです。「私たちがどうなるのか、まだ明らかではありません。この方が現れるとき、私たちは自分たちがこの方に似るものになることを知っています」(「ヨハネの第一の手紙」3章2節)。

6.6. 祝福するために遣わされた者として

今なお継続する御業

 イエス様の復活の出来事の数週間後、ペテロはユダヤ人たちに話しかけてこう言いました、「神様がまずあなたたちのために御子を立てて遣わされたのは、あなたたちひとりひとりが悪から立ち返ることによって、あなたたちを祝福なさるためです」(「使徒言行録」3章26節)。

 ここで私たちは復活の出来事の別の側面に出会います。それは、キリストのたゆまない御業の出発点を意味しています。人々が「もう終わった」と思ったことを、神様は世の終わりまで継続する働きの始点となさいました。人々は神様の提供なさる恵みを心かたくなに拒絶することで一切の可能性を台無しにしてしまったかのように見えました。しかし、そのような状況の下にいる人々の罪の重荷を取り去り肩代わりすることで、神様はまったく新しい道を人々に開いてくださったのです。このことについてパウロは「ローマの信徒への手紙」の中で「キリストは私たちの罪過のために死に渡され、私たちが義とされるためによみがえらされたのです」(「ローマの信徒への手紙」4章25節)と言っています。キリストの復活は人間社会の歴史にまったく新しい地平を開きました。それ以来、復活の主御自身が十字架の御業による罪の赦しを全人類に提供すべく福音を告げ知らせておられます。

 これはまたキリストが全人類のすべての罪を帳消しにしてくださった結果でもあります。この世は神様を捨てた結果、裁きの下に置かれてしまいました。しかし、今や無制限の罪の赦しを受ける可能性がこの世に対して差し伸べられているのです。

6.7. 天に昇り、

復活の主の顕現

 「キリストは40日間、何度となく弟子たちの前にあらわれた」と福音書は語っています。「数々の確かな証拠によってキリストは御自身が生きておられることを弟子たちに示された」と福音書記者ルカは語っています(「使徒言行録」1章3節)。キリストは弟子たちにあらわれて、神様の御国について彼らと話されました。

キリストの高挙

 「イエス様は40日目に弟子たちをオリーブ山へと連れて行かれた」とルカは語っています。イエス様は彼らの目の前から消え去ることが何度もありました。しかし今回は、今後イエス様を見る望みがかなわないことを彼らがはっきり知るようなやりかたで行われました。イエス様は天へと昇られたのです。

天は「上方」にあるのでしょうか?

 「昇天」についての記述が未開民族にもありがちな原始的なイメージとみなされて、「神が上方に住んでいることを本気で信じる人が今時いるのか」という質問が出るのは珍しいことではありません。ここで、用語について少し説明を加えたほうがよさそうです。聖書で「天」や「もろもろの天」という言葉は、一方ではふつう私たちが「宇宙」と呼んでいるのと同じものを意味しており、他方では「神様の御国」すなわち神様の世界を意味しています。宇宙とは(以前考えられていたように)私たちの上方に、より正確に言えば、私たちの周りに存在する空間のことです。ところが、神様の世界には定められた場所がありません。それは空間概念に関わる一切のものからまったく独立した世界です。「神様の世界」という意味での「天」はどのような点で「私たち人間の世界」でもあるのでしょうか。あえて説明を試みるなら、「それはいたるところで私たちと遭遇することがありうる世界である」とは言えるでしょう。私たちを神様の世界から隔てているのは物理的距離ではなく、罪と不信仰です。

 とはいえ、私たちの上方に広がっている天はその無限さと輝きによって、神様の世界に比較できる比喩的なイメージでもあります。神様は被造物世界の特定の部分や特質が不可視の真の世界の本質の何がしかを映し出すようになさっているのです。自然の中における神様の啓示について学んだときに、私たちは 「もろもろの天は神様の栄光をあらわし、大空は御手の御業を示している」という「詩篇」19篇2節を引用しました。このように、宇宙という意味での天は、神様の見えない世界に比較できる適切なイメージを構成します。ですから、それが比喩であることを自覚した上でなら、神様の世界があたかも「どこか私たちの上方、栄光の中、天空の向こう側にあるもの」として語るのはいたって自然で適切な表現だと言えましょう。しかも、このイメージは私たち人間にはそれより上手にあらわすことができない何かを伝えています。イエス様にとっても、このようなイメージを用いて「天」について語るのはまったく自然なことでした。イエス様は御自分について「天から下ってきて、またそこへと上る」と言われました。天の御父様と話されているときに、イエス様は天に向けて目を上げられました(「ヨハネによる福音書」3章13節、17章1節)。イエス様は最後に弟子たちに姿を見せられたときに、御自分が今や天の父の御許に戻ろうとしていることを彼らが目で見てすぐに分かる仕方で彼らのもとから出発することになさったのです。ですから、こうした天のイメージは原始的な迷信などではありません。宗教的なメッセージが常用するのにふさわしい比喩的な言語表現の一例なのです。

6.8. 父の右の座につかれました

御父と等しい立場に戻られたキリストは今や私たちの兄でもあります

 「使徒信条」の中にある「キリストが今や父なる神様の右の座につかれた」という箇所は、神としての本質を維持しつつも「自らをむなしくして」人となられたキリストが今や御父と同じ立場(「右の座」)に戻られたことを意味しています。

 とはいえ、以前とは決定的に違う点があります。イエス様は高く挙げられた主となられた今もなお「真の人間」なのです。イエス様は御父の右に座しておられる私たちの兄です。イエス様はまだ地上にいる御自分の弟と妹のために祈っておられます。「ヘブライの信徒への手紙」には「私たちがいただいている大祭司は私たちの弱さを思いやることのできないようなお方ではありません。罪は犯されなかったが、すべてのことについて私たちと同じように試練に会われたのです」とあります(4章15節)。

 真の人なるキリストは天と地におけるあらゆる支配権を委任されている方でもあります(「マタイによる福音書」28章18節)。キリストは玉座に就いて、自らの王国における信仰者全員の支配者になられたのです。

恵みの王国と栄光の王国

 このキリストの王国にはふたつの面があります。地上ではそれを「恵みの王国」と呼ぶことができます。世界が新たに創造されて、復活の主に始まる新たな存在様式に変えられる時に、もうひとつの「栄光の王国」が訪れます。

 この地上においてキリストの王国は「恵みの手段」すなわち御言葉(の説教)と洗礼と聖餐式を通してキリストの恵みが私たちに差し出される不可視の「恵みの王国」です。この国でイエス様は目には見えないかたちで、世の終わりにいたるまで日々私たちと共におられ、聖霊様を通して活動なさっているのです。こうして、私たちは「使徒信条」の信仰告白の第三部で述べられている聖霊様の御業の箇所に至ります。

1)「キリストの下降と上昇」という言葉は何を意味していますか?

2)いつキリストは下降し始めましたか?またいつ上昇し始めましたか?

3)歴史的視点からのみ出来事をとらえるとき、キリストの復活についてどのようなことが言えますか?

4)復活信仰は何に基づいていますか?

5)そもそも「復活信仰」とはどういう意味でしょうか?

6)「贖い」とはどういう意味でしょうか?

7)旧約聖書には犠牲を捧げる手順についての記述があります。 新約聖書はそれをどのように理解していますか?

8)「天」という言葉を私たちはどのような意味で使っていますか?複数あげてください。

9)「イエス・キリストは全能の父なる神の右に座しておられる」という信仰告白の言葉はどういう意味でしょうか?

1)以下にあげる聖書の箇所から次のA)~C)の質問にあてはまる例をあげてください。

A) キリストの復活は初めどのような印象を弟子たちに与えましたか?

B) キリストの復活は使徒たちの宣教活動にどのような意味をもっていましたか?

C) 使徒たちはキリストが復活されたことを確信していました。 その根拠について彼ら自身はどのようなことを語っていますか?

「ルカによる福音書」24章9~24節、36~43節
「ヨハネによる福音書」20章1~29節
「使徒言行録」1章1~3節、2章22~24節、32~36節、3章12~16節、24~26節、4章8~12節、18節~21節、10章39~43節、13章26~39節
「コリントの信徒への第一の手紙」15章1~20節
「ペテロの第一の手紙」1章3~5節