イエス様は今どこにおられるのか?

6.7. 天に昇り、

復活の主の顕現

 「キリストは40日間、何度となく弟子たちの前にあらわれた」と福音書は語っています。「数々の確かな証拠によってキリストは御自身が生きておられることを弟子たちに示された」と福音書記者ルカは語っています(「使徒言行録」1章3節)。キリストは弟子たちにあらわれて、神様の御国について彼らと話されました。

キリストの高挙

 「イエス様は40日目に弟子たちをオリーブ山へと連れて行かれた」とルカは語っています。イエス様は彼らの目の前から消え去ることが何度もありました。しかし今回は、今後イエス様を見る望みがかなわないことを彼らがはっきり知るようなやりかたで行われました。イエス様は天へと昇られたのです。

天は「上方」にあるのでしょうか?

 「昇天」についての記述が未開民族にもありがちな原始的なイメージとみなされて、「神が上方に住んでいることを本気で信じる人が今時いるのか」という質問が出るのは珍しいことではありません。ここで、用語について少し説明を加えたほうがよさそうです。聖書で「天」や「もろもろの天」という言葉は、一方ではふつう私たちが「宇宙」と呼んでいるのと同じものを意味しており、他方では「神様の御国」すなわち神様の世界を意味しています。宇宙とは(以前考えられていたように)私たちの上方に、より正確に言えば、私たちの周りに存在する空間のことです。ところが、神様の世界には定められた場所がありません。それは空間概念に関わる一切のものからまったく独立した世界です。「神様の世界」という意味での「天」はどのような点で「私たち人間の世界」でもあるのでしょうか。あえて説明を試みるなら、「それはいたるところで私たちと遭遇することがありうる世界である」とは言えるでしょう。私たちを神様の世界から隔てているのは物理的距離ではなく、罪と不信仰です。

 とはいえ、私たちの上方に広がっている天はその無限さと輝きによって、神様の世界に比較できる比喩的なイメージでもあります。神様は被造物世界の特定の部分や特質が不可視の真の世界の本質の何がしかを映し出すようになさっているのです。自然の中における神様の啓示について学んだときに、私たちは 「もろもろの天は神様の栄光をあらわし、大空は御手の御業を示している」という「詩篇」19篇2節を引用しました。このように、宇宙という意味での天は、神様の見えない世界に比較できる適切なイメージを構成します。ですから、それが比喩であることを自覚した上でなら、神様の世界があたかも「どこか私たちの上方、栄光の中、天空の向こう側にあるもの」として語るのはいたって自然で適切な表現だと言えましょう。しかも、このイメージは私たち人間にはそれより上手にあらわすことができない何かを伝えています。イエス様にとっても、このようなイメージを用いて「天」について語るのはまったく自然なことでした。イエス様は御自分について「天から下ってきて、またそこへと上る」と言われました。天の御父様と話されているときに、イエス様は天に向けて目を上げられました(「ヨハネによる福音書」3章13節、17章1節)。イエス様は最後に弟子たちに姿を見せられたときに、御自分が今や天の父の御許に戻ろうとしていることを彼らが目で見てすぐに分かる仕方で彼らのもとから出発することになさったのです。ですから、こうした天のイメージは原始的な迷信などではありません。宗教的なメッセージが常用するのにふさわしい比喩的な言語表現の一例なのです。

6.8. 父の右の座につかれました

御父と等しい立場に戻られたキリストは今や私たちの兄でもあります

 「使徒信条」の中にある「キリストが今や父なる神様の右の座につかれた」という箇所は、神としての本質を維持しつつも「自らをむなしくして」人となられたキリストが今や御父と同じ立場(「右の座」)に戻られたことを意味しています。

 とはいえ、以前とは決定的に違う点があります。イエス様は高く挙げられた主となられた今もなお「真の人間」なのです。イエス様は御父の右に座しておられる私たちの兄です。イエス様はまだ地上にいる御自分の弟と妹のために祈っておられます。「ヘブライの信徒への手紙」には「私たちがいただいている大祭司は私たちの弱さを思いやることのできないようなお方ではありません。罪は犯されなかったが、すべてのことについて私たちと同じように試練に会われたのです」とあります(4章15節)。

 真の人なるキリストは天と地におけるあらゆる支配権を委任されている方でもあります(「マタイによる福音書」28章18節)。キリストは玉座に就いて、自らの王国における信仰者全員の支配者になられたのです。

恵みの王国と栄光の王国

 このキリストの王国にはふたつの面があります。地上ではそれを「恵みの王国」と呼ぶことができます。世界が新たに創造されて、復活の主に始まる新たな存在様式に変えられる時に、もうひとつの「栄光の王国」が訪れます。

 この地上においてキリストの王国は「恵みの手段」すなわち御言葉(の説教)と洗礼と聖餐式を通してキリストの恵みが私たちに差し出される不可視の「恵みの王国」です。この国でイエス様は目には見えないかたちで、世の終わりにいたるまで日々私たちと共におられ、聖霊様を通して活動なさっているのです。こうして、私たちは「使徒信条」の信仰告白の第三部で述べられている聖霊様の御業の箇所に至ります。