第7章 聖霊様と教会

 「聖霊」についての話は私には少しもわからない。
 「天の父」という言葉の意味ならなんとなくわかるけれど。
 それにイエス様のこともほとんど目の前に見えるようだよ。
 しかし、聖霊か。
 いくら考えてもどんな存在なのかさっぱりわからない。
 なんだか話が難しくなるばかりだなあ。

7.1. キリスト教ならではの特徴

私たちはキリストを通して神様につながります

 キリスト教を他の諸宗教からはっきり区別しているのは「キリストへの信仰」です。ここで問題となっているのは、キリスト信仰をどのように理解するかということだけではありません。キリストの復活を信じることは、キリストが今も生きておられることを確信することだけではありません。それは、キリストが今日も世界の出来事や私たちひとりひとりの人生の歩みに働きかけておられることを実感し確信することも意味しています。ある特定の活動原則の背景にある多様な意見およびそれらに基づく体系的な価値観は「イデオロギー」と呼ばれることもあります。しかし、キリスト教はイデオロギーではありません。「信仰」とは神様と共に活きることです。「キリスト教の信仰」とは、復活して今も世界を支配なさっている活ける神の御子イエス・キリストを通して御自分の本質を啓示した神様への信仰なのです。そのような信仰によって、私たちはイエス様を通して御父を正しく知り、御父と共に正しく生きることができるようになるのです。

7.2. キリストと共にいること

聖霊様がイエス様への信仰を創生します

 「ある方法」によってのみ私たちはキリストにつながることができます。この方法はキリスト教に特徴的なものであり、他のいかなる宗教にもないものです。すなわち、キリスト信仰者は、聖霊様の活動によって人間はイエス・キリストと接触することができる、と確信しているのです。

 すでにこの地上で生活なさっていた頃にイエス様は弟子たちに、聖霊様すなわち助け主を送ってイエス様が言われる一切のことを彼らに思い起こさせ、彼らをまったき真理に導くようにする、と約束なさいました(「ヨハネによる福音書」14章26節、16章13節)。この約束は、聖霊様が使徒たちの上に注がれたペンテコステの日(聖霊降臨日)に成就されました(「使徒言行録」2章)。

7.3. 聖霊様について

どうして聖霊様についてのイメージは曖昧に感じられるのでしょうか?

 人間にとって聖霊様を「イメージする」のはふつう難しいものです。これには理由があります。父なる神様については、自然の中で御自分を啓示していることを通して人はなんらかのイメージを抱くことができます。キリストは人となられた神であり、人間の一員として、人間の目にもはっきり見えるかたちで、人間と出会ってくださいました。しかし、聖霊様は御自分について、父や御子と同様には啓示なさいません。聖霊様はいたるところにおられますが、ある特定の手段を通して活動なさいます。そして、この手段はどこにでもあるわけではありません。聖霊様はキリスト教会において「恵みの手段」を通して活動なさるのです。ラテン語でmedia gratiaeと呼ばれるこの恵みの手段が用いられないならば、たとえそれがどれほど霊的な働きに見えようとも、それを聖霊様の働きであると確実に認識するのは不可能です。

 聖霊様の使命は、救い主キリストについて証をして、そのイメージを活き活きと伝えることです。聖霊様が私たちの中で活動なさっていても、その結果として私たちが聖霊様を目の当たりにするようにはなりません。そのかわり、聖霊様の働きかけによってキリストのイメージが躍動するようになるのです。私たちの心にキリストへの信仰を形成することを第一の目的とする聖霊様の活動を通して、私たちは聖霊様について学び知るようになっていきます。この御業を通して、聖霊様は私たちにとっても(ルターがよく言っていたように)「愛する聖霊様」になります。そして、御父や御子に祈るのと同じように御霊に祈ることも自然な行為になっていきます。また、御父や御子と共に活きるのと同じように御霊と共に活きるのも当たり前のことになっていきます。

7.4. 教会とは何でしょうか?

新約聖書は「教会」と「各個教会」について同じ言葉を用いています

 「教会」という言葉に対応する新約聖書のギリシア語は「エックレーシア」です。この言葉は「各個教会」と訳すこともできます。エックレーシアという言葉は各地域の教会という意味も教会全体という意味ももっています。そして、地域の教会は教会全体を代表するものとして理解されていました。それはちょうど私たちが「銀行」という言葉で地元の銀行のことも銀行全体のこともあらわしているのと同じです。

「神の民」、「真のイスラエル」

 エックレーシアの文字通りの意味は「召された者たち」あるいは「選ばれた者たち」の集まりのことです。新約聖書はしばしばキリスト信仰者の群れを「召された者たち」とか「選ばれた者たち」などと呼んでいます。教会は神様によって召され集められた民の群れです。ちょうど昔イスラエルが雲の柱に導かれて荒野を旅したように、主キリストの指導によって今この世を旅し続けている神様の御民なのです。それゆえ、教会を「新しいイスラエル」とか、あるいは単純に「神様のイスラエル」と呼ぶことができます。ユダヤ人が洗礼を受けたとき、その人は「新しい信仰」に乗り換えたのではありません。前からもっていた信仰に基づいてある結論に至り、それを実行に移しただけなのです。神様は御自分の民と新しい契約を結ばれました。旧約聖書でその到来が約束されていたメシアがついにこの世にやって来られたのです。人々はメシアの周りに集まり、メシアを信じる者たちの群れに加わりました。「新しい信仰」を得たのではなく、「新しい時」が始まったのです。キリスト教会は今や真のイスラエルになったのです。

7.5. キリストの体

教会は教会員のたんなる総和ではありません

 教会は同じ考えをもつ人々が共通の目的を持って活動するために一堂に会して誕生したのではありません。キリスト教の信仰によれば、神様がこの世での一連の重要な出来事に働きかけてくださったおかげで教会はこの世界に誕生したのです。「使徒信条」などの信仰告白の中に「教会」という言葉がでてくるのはこのためです。教会はたんなる社会的な現象ではなく、人間的な共同生活や活動の一形式でもなく、神様の創造物なのです。聖霊様は教会を利用することで人々をキリストのもとに導いて、その命に与るようになさるのです。

キリストの体

 パウロはこれに関連して「教会はキリストの体です」と言っています(「エフェソの信徒への手紙」1章22節以降)。キリストは「かしら」であり、私たちキリスト信仰者はその体の一部です(「エフェソの信徒への手紙」5章23節、「コロサイの信徒への手紙」1章18節)。互いに比較してみるとわかるように、私たちは皆それぞれが唯一無二の存在なのです(「ローマの信徒への手紙」12章4~5節)。しかしその一方で、私たちは皆それぞれが聖霊様を通してキリストという真の命に与っているのです。

ぶどうの木

 教会についてイエス様は「ぶどうの木とその枝」というイメージを用いておられます(「ヨハネによる福音書」15章1~5節)。枝はそれだけでは生きることができず、木の幹につながることによってのみ生命を維持することができます。それと同様に、弟子たちも自分の力では何もできません。彼らは生きるためにはキリストのうちに留まらなければなりません。

御霊の神殿

 ペテロとパウロは他のイメージも用いています。教会は「建物」や「霊的な部屋」であり「御霊における神様のお住まい」です。私たちは「活きた石」であり、使徒たちや預言者たちを土台とする神様の建物の「建築材」の一部です。その土台を支えている「隅のかしら石」はキリストです(「ペテロの第一の手紙」2章5節、「エフェソの信徒への手紙」2章19節以降)。この「活きた石」については、ひとつの建物を構成するために結合されていくバラバラの石ではなく、御霊の命がその中を流れているおかげで健やかに成長していける細胞のようなものをイメージするとよいでしょう。

キリスト、恵みの手段、キリスト信仰者が「教会」に属しています

 以上あげてきたこれらのイメージは同じことを語っています。教会は霊的な器官だということです。幹がぶどうの木にとって、また頭が体にとって大切であるのと同じように、教会ではキリストは欠くことのできない大切な存在です。教会とは教会員の単なる集合体以上のものなのです。教会にはキリストが属しておられます。さらに教会は恵みの手段(御言葉と洗礼と聖餐)を有しており、それらを通して真の命がキリストから教会員へと流れ込んでいくのです。

7.6. 教会はひとつです

ただひとつの教会が存在します

 教会に関する聖書のすべての記述から、教会は本来ひとつであることがわかります。教会は「真のイスラエル」です。もしも内輪で敵対し合って国民を四散させるなら、それはもはやひとつの国民ではありません。体はひとつです。体から切り離された部分は死にます。木につながっていない枝は枯れます。 

教会がひとつであるためには、教会組織が一体化している必要はありませんが、福音の教義および聖礼典の施行に関する一致した見解がその前提となります

 現実のキリスト教会がバラバラになっているのはキリストの御意志とも教会の本来のありかたとも矛盾しています。教会は組織として一体である必要がありません。「アウグスブルク信仰告白」(ルター派の基本的な信仰告白書)によれば、教会の真の一致にとっては、どのように福音について教えて聖礼典(洗礼と聖餐)を施行するか、に関する理解が一致していることがその十分な前提とみなされます。聖霊様は御言葉(の説教)および洗礼と聖餐という「恵みの手段」を通じてキリストへの信仰を私たちのうちに創り出してくださいます。この世のあらゆる場所で礼拝や教会組織が同一である必要はありません。これらは国や時代に応じて変化することがありえるものです。しかし、福音が正しく宣教されて聖礼典が正しく施行されるのは、どこの国でもまたいつの時代でも教会にとって不可欠なことです。そうでなければ、私たちの間でキリストが御自分の約束に基づいて語り活動なさっていることに私たちは確信をもつことができないからです。

 すべての真のキリスト信仰者たちはすでにキリストにおいてひとつであるという意味で教会の一致はすでに実現していることを福音ルター派は確信しています。ただし、この「一致」をよりいっそう見えやすいものにするために私たちは努力する必要があります。しかし、この目的の実現を口実として教義をことさら曖昧なものにし妥協を図ることや、聖書に基づくことと基づかないこととを混同することは、断固として避けなければなりません。もしもキリストへの信仰およびそれに伴うはずのキリストとの共同生活に関して何かしらおかしなところがあるならば、いくら外面的に取り繕ってみたところで、真に一致した教会を実現することは決してできません。そのような場合には、いくら組織や礼拝を共通の(いわゆるエキュメニカルな)ものにしてみても無意味です。

7.7. 教会は聖なるものです

聖なる教会は「聖人たち」によってのみ構成されているものではありません

 今までに見てきたように「聖」という表現は実際のところ神様についてのみ用いることができる言葉です。例外的に「聖」という言葉を地上に存在するものについて使う場合もあります。私たちが神様と出会うために必要な「神様の手段」について語る場合がそれに該当します。教会は聖なるものですが、それは教会が完全であるという意味ではありません。ちょうどそれは、聖書に登場する「聖徒たち」すなわちキリスト信仰者たちが罪なき人々であったとは間違っても言えないのと同じです。教会が聖であるのは、教会が聖なる神様の使用する手段、聖なる神様の創造物、聖なる神様に仕えるために選ばれたものであるからです。

 教会が「教会のかしらなるキリスト」という意味で使われる場合には、完全かつ無条件に「教会は聖である」ということができます。同様のことが恵みの手段にも当てはまります。というのは、神様御自身が恵みの手段を通してこの世に来て、この世で活動なさるからです。神様御自身が私たちと恵みの手段を通して出会われること、恵みの手段を通して伝達されるメッセージが完全に信頼できることを、私たちキリスト信仰者は知っています。ここで「教会員」について考えてみましょう。彼らが聖とみなされるのは、神様御自身が彼らを召して御自分に仕えるように選んでくださったことにのみその基礎を置いています。彼らが主の召しを真摯に受け入れる場合に、彼らは聖とされるのです。その際に、彼らは自らの罪の赦しをいただきながら日々の聖化の中で生活していくことになります。もちろん「聖化」とはいっても、この世で生きていくかぎり、人間は決して罪のない状態にはならないことを覚えておかなければなりません。

7.8. 教会は公同なるものです

公同はカトリックと同じ意味です

 「公同」という言葉は原語のギリシア語では「カトリコス」という言葉です。「カトリック」という言葉はここに由来しています。福音ルーテル教会は教会が公同であることを信仰告白します。公同とは「すべてを取り扱う」とか「すべてに及ぶ」という意味ですが、ここでより適当な表現と思われるのは「全体を含む」という表現です。これによって、この信条箇所は新約聖書の次の内容を言い表そうとしているのです。 「神様はすべて満ちているものがキリストに住むようになることをよしとされ、キリストをすべてのかしらとして教会にお与えになりました。この教会はキリストの体であってすべてのものをすべてのもののうちに満たしているお方が満ち満ちているものにほかなりません」(「エフェソの信徒への手紙」1章22節以降)。

教会が公同であるとはどういう意味ですか?

 神様の真の教会があるところにはキリスト御自身がおられます。それに加えて、キリストが私たち人間に贈ろうと望まれるキリストの善きものすべてがあります。教会が公同であるとは、御言葉と聖礼典のおかげで教会には私たち人間がこの世で神様について知ることができるすべてがある、ということです。さらにそれは、すべての人を人種、国籍、教養、文化にかかわりなくその内側に集めるためにこそ教会は設定された、という意味でもあります。罪に腐敗したこの世にあって教会の存在自体が人類の究極的な存在目的を明らかにします。その目的とは「あなたたちの教師はひとりであり、あなたたちは皆兄弟姉妹なのです」(「マタイによる福音書」23章8節)というキリストの御言葉を実現するような、世界中に広がるひとつの家族の兄弟姉妹としてひとつとなることなのです。

 この世のすべての罪に対する霊的な処方箋である「すべての罪の赦し」をキリストにあって使用することが教会には許されています。その意味でも教会は公同なのです。いつでもどこでもそうだったとは言えませんが、世界史全体を俯瞰してみると、教会には善、徳、多様で繊細な先駆的事業、賜物、知識など、創造主の栄光とキリストの充溢を反映してきた側面があります。現実に存在する教会を特徴づけているのは、教会内に様々な人間がいて様々な礼拝や祈りの時がもたれ、様々な歌や音楽、建築や説教のスタイルがあるということです。しかし、パウロが言うように御霊は同じです。それゆえ、これらすべての教会の諸特徴にも「内的な一致」が見られます。そして、真のキリスト教は本来、同じ御霊の働きの結実とそうでないものとを表面的な違いに惑わされることなく正しく識別する感覚を備えているものです。

7.9. 教会は使徒的な存在です

教会内における使徒の地位

 「使徒信条」は教会の特質として聖と公同すなわち共通性をあげています。古くからある諸教会に共通の信条である「ニケア信条」は教会を「唯一のもの」と告白しています。この教会の特質はすでに取り上げました。「ニケア信条」は教会に固有な特徴として「使徒的」であることも指摘しています。「使徒的」とは、キリストの使徒たちを通してそれ以後の時代の教会のありかたが決定づけられたことを意味します。キリストはその御業を周囲に広く伝えていくために使徒たちを選ばれました。使徒たちがこの任務を実行するために、キリストは彼らに御霊をお与えになりました。聖霊様の職務は彼らをあらゆる真理に導くことでした。ですから、たとえば「パウロはふつうの人間にすぎなかった」と主張するのはキリスト教の信仰に沿った考えかたとは言えません。パウロやその他の使徒たちは皆、キリストの任務を遂行するために選ばれた教会の職員でした。聖霊様は使徒たちを指導なさり、彼らが教会と社会の中で特別の地位を占めるようになさいました。使徒たちやその近しい弟子たちの働きのおかげで、今私たちは新約聖書を手にしています。彼らの指導があったからこそ、この世の終わりまで存続することが決まっている「教会」の基礎が形作られたのです。

7.10. 教会の職制について

 「使徒」という言葉は、新約聖書では委ねられた公務の実行責任者を意味しています(「ルカによる福音書」10章16節)。使徒たちの使命は、彼らを派遣なさったお方のためにそのお方の御名によって働いたり語ったりすることでした(「マタイによる福音書」10章40節、「ヨハネによる福音書」20章23節)。彼らには福音が世界中に伝えられていくようにするという責任がありました(「マタイによる福音書」28章19~20節)。彼らは教会の最初の指導者であり、各個教会にそれぞれ長老を任命しました(「使徒言行録」14章23節、「テトスへの手紙」1章5節)。西欧諸国の多くの言語で「牧師」に相当する言葉は「長老」という言葉の原語「プレスビュテロス」に由来しています。使徒たちはまた、彼らの仕事の継承者たち(例えばテトス)が彼らと同じように仕事をし、自らに託された仕事を次世代のそれを受け継ぐにふさわしい男たちにバトンタッチしていくために細心の注意を払いました(「テモテへの第二の手紙」2章2節)。

教会には職制が必要ですが、その仕事は様々な方法で人々に分配することができます

 新約聖書には教会の多様な職制や仕事が記されています。たとえば「監督」(ギリシア語で「エピスコポス」といい、ビショップ(教区長)はこの言葉に由来します)、「執事」(ギリシア語で「ディアコノス」といい、職業的な教会奉仕者のことです)、「伝道者」、「牧師」、「教師」などです(「フィリピの信徒への手紙」1章1節、「エフェソの信徒への手紙」4章11節)。それぞれの職制の内容の詳細に関して、新約聖書はさほど語っていません。ですから、教会における職制は必ずある特定の方法で配分されなければならないというものではない、と私たち福音ルーテル教会は理解しています。たとえば、教区の牧師たちを御言葉によって指導するビショップ(教区長)を有する職制をもつ北欧のルター派教会の職制はよいものではありますが、教会組織としてはビショップと牧師とを職制的に分け隔てる必要は必ずしもありません。なぜなら、教区長と牧師とは本質的には同じ立場にあるからです。

 その一方では、私たちルター派教会の信条によれば、御言葉の説教と聖礼典(洗礼と聖餐)を施行するための職制は教会にとって不可欠の要素です。この職を委ねられている人は教会の教師であり牧師でなければなりません。この職はキリスト御自身が設定なさったものです。キリストがこの使命を誰にお与えになり誰が今それを受け継いでいるかを明らかに示すという重大な責任が教会にはあります。いついかなるときにも教会は「牧師職」が前任者の牧師から後任者の牧師へと一定の秩序にしたがって受け継がれていくようにとりはからなければなりません。このようにして、ルター派教会の基本信条「アウグスブルク信仰告白」にある「正しい秩序による召命」(rite vocatus)が実現します。

 御言葉について説教し聖礼典を施行する職制はキリストが自らお与えになった職です。教会はこの職制をそのまま先へ先へと受け継いでいきます。「説教職」とも呼ばれるこの職制はいわゆる「万人祭司制」とは明確に区別されなければなりません。教会の牧師職を委ねられた者たちは、ちょうど旧約聖書における神殿祭司たちのように、民の罪を帳消しにする犠牲をささげることによって神様のおられる場所に近づける人々を意味している、と中世のカトリック教会は「牧師職」について理解していました。しかし、私たちルター派の信仰告白によれば、このような考えかたは誤りです。すべてのキリスト信仰者はキリストへの信仰を通して神様のおられる場所に近づくことが許されています。彼らは聖なる洗礼を受けた時すでにこの万人祭司職の任命を受けているのです。彼らは皆がイエス様の御業に基づく新しい契約において、今でも大切な意味をもっている犠牲をささげつづけるように奨励を受けています。その犠牲とは神様へ賛美と感謝をささげることであり、自分自身を神様に用いていただくようにささげることです(「ヘブライの信徒への手紙」10章、「ローマの信徒への手紙」12章1節)。このように、キリスト信仰者は皆が、感謝をささげる祭司職への召命を受けています。これが万人祭司制の意味するところです。しかしこれは、キリスト信仰者なら誰でも自由に礼拝で御言葉を説教したり、聖礼典を施行したり、神様の教会の牧者となる仕事を行えるという意味ではないのです。

7.11. 恵みの手段

 聖霊様は教会において「恵みの手段」を通して活動なさいます。御言葉は恵みの手段として用いられることについてはすでに述べました。聖礼典(サクラメント)もまた恵みの手段です。

「聖礼典」という言葉は何を意味していますか?

 「聖礼典」とは「キリスト御自身が設定なさった聖なる礼典」と定義されるものです。聖礼典を通してイエス様は恵みを与える約束をなさいました。福音ルター派の教会では洗礼と聖餐が聖礼典とされています。このふたつの聖礼典は疑う余地もなく可視的な「しるし」(水およびパンとぶどう酒)を伴っています。そして、これらのしるしには、救いを与えて罪を赦す主の約束の御言葉が堅く結びついています。

聖礼典は洗礼と聖餐です(罪を告白した者にその罪を赦す「告解」も聖礼典のひとつとみなされる場合もあります)

 実は、聖礼典として告解を含める考えかたもあります。ルターの「小教理問答書」の原版には洗礼と聖餐の間に「ざんげ(懺悔)」と「罪の赦しの宣言」に関する章があります。この礼典もキリストが設定なさったものであり、そこには罪の赦しの約束が与えられています。しかし、この約束は、水やパンやぶどう酒といった目に見える「しるし」にではなく、「罪の赦しの宣言」(ラテン語でabsolutio)に結びついています。この点で、告解は可視的な物質と結びついている洗礼と聖餐とはその性格が異なります。

聖礼典を通じて神様は恵みを私たちに賜ります

 神様の御霊が人間の不思議な幻想や内的な感覚を通してではなく直接的に外から見え聞こえる恵みの手段を通して働かれる、という確信は私たちルター派の教会の信仰にとって自然なものであり、ルターも特に強調した点です。キリストは今日も世の中を歩まれ、御霊は私たちの只中で働かれます。そして、それらの働きは外から見え聞こえる御言葉と聖礼典を通してなされます。今この時にもキリストは外面的には取るに足らない「かたち」をとってこの世に来られます。しかし、この些細に見える恵み手段の中に天の御国とそのすべての力が秘められているのです。どうして神様はこのような何の変哲もない手段を選ばれたのでしょうか。それには「耳目をひきつけるような不思議な事柄は真の信仰を育むどころか、その障害になるからである」と答えることができるでしょう。私たちは自らの信仰をそうした大げさな事柄に基づいて培っていくのではありません。そうではなく、私たちの信仰の基礎には、私たちに御自分を啓示して私たちの心の中に罪を悔いる心と信仰を生み出してくださる神様との出会いがあります。この出会いの場を用意するのが恵みの手段なのです。

7.12. 教会への信仰

キリスト信仰者の信仰には「教会への信仰」が含まれています

 キリスト教の信仰は「教会への信仰」も含んでいます。これは、私たちが何を信じるべきか命じる権力をもつ特定の組織を神様が設立なさった、という意味ではありません。それとは逆に、恵みの手段を通してキリストの影響の下に入った人々のための特別な交わりの場を神様が創出なさった、という意味なのです。それゆえに「使徒信条」で教会は「聖徒の交わり」とも呼ばれています。「孤立したキリスト信仰者」というのは存在しません。キリスト信仰者はキリストの体の一部であり、他のキリスト信仰者たちと分けがたく結びついているからです。キリスト信仰者の信仰生活は本人の考えや祈りの成果などではなく、教会で私たちが共にいただく御言葉の説教と聖礼典とを通して聖霊様が生み出してくださったものです。この絆だけでも、信仰に目覚め信仰に留まるために重要な意味を持っています。新約聖書は聖徒の交わりをキリスト教会の信仰生活の主要なありかたとして提示し、これを決して無視しないように厳しく警告しています(「使徒言行録」2章42節、「ヘブライの信徒への手紙」10章25節)。私たちが共に信じ祈りキリストと出会う他のキリスト信仰者たちと一同に会するときにこそ、聖霊様は働いてくださるのです。簡単にわかることですが、信徒の交わりから離れた人々は、たとえ自分ひとりで神様への信仰を維持できると思っていても、時が経つうちに霊的な事柄についての確信が次第にあいまいになってしまうものなのです。

使徒信条の第3部に述べられている聖霊様のさまざまな働きは相互に連関しています

 ここまできて私たちは「使徒信条」の第3部「聖霊様のさまざまな働き」に関する諸項目がたんにでたらめに列挙されたものではないことがわかります。それらの項目の間には明瞭な相互連関があります。それをいくつかのキーワードによって次のようにあらわすことができるでしょう。「私は聖霊様を信じます。聖霊様は聖徒の交わりという聖なる公同の教会の中で働かれます。そこで聖霊様は私たちに罪の赦しを賜り、私たちをからだのよみがえりにあずかる者とし、私たちに永遠の命を与えてくださいます。」

 キリスト信仰者であることには、教会に属していることも含まれています。この章を終えるにあたり、洗礼について話すことにしましょう。洗礼を通して私たちはキリスト教会の一員となります。洗礼はキリスト信仰者の全人生にわたってキリスト信仰者としてのはっきりとした「しるし」を与えるものです。

7.13. 洗礼とは何でしょうか?

 新約聖書で洗礼は「新生の洗いと聖霊様による新化」と呼ばれています(「テトスへの手紙」3章5節)。洗礼が「洗い」と呼ばれるのは水を用いて洗礼が授けられるからです。洗礼における「新生」を理解しようとする際には、教会を「キリストの体」あるいは「キリストのぶどうの木とその枝」としてイメージするのが最も適切でしょう。

キリストへの結び付き

 キリスト信仰者になることは優良な木に接木されること(「ローマの信徒への手紙」11章17節)や、キリストの一員になること、キリストと共に成長することなどに比較することができるでしょう。このことが洗礼を通して実現するのです。私たちは洗礼においてキリストの教会の一員となり、教会の最も奥深い本質にキリストと共に結び付けられるのです(「ローマの信徒への手紙」6章5節)。そして、この新しい命を生み出し保ってくださるのが聖霊様です。

神様の御業

 洗礼は神様の御業です。「神様の御名によって洗礼を受けることは、人間ではなく神様から洗礼をいただくということです。たとえ人間の手を通してなされるとしても、洗礼は本当に神様御自身による御業なのです」、とルターは「大教理問答書」で述べています。私たち人間にはなしえず支配もできない出来事が洗礼を通して起きています。それは神様が御自分の約束を洗礼の聖礼典に結び付けてくださったからなのです。それは聖礼典の基となる御言葉の力によるものでもあります。

洗礼はそれを授ける者には関わりなく有効です

 洗礼を通して働きかけるのは神様御自身です。それゆえ、たとえ洗礼を授ける人間が不信仰なふさわしくない牧師であったとしても、洗礼は有効なのです。人間の罪が洗礼を無効にすることはできません。教会が分裂している悲しむべき状態も洗礼自体を無効にすることはできません。洗礼が新約聖書で定められたイエス・キリストによる規定に従って施行されるものであるかぎり、その洗礼を受けた人は、その誰もがキリスト教会に結び付けられています。このことは洗礼がどの教派のキリスト教会で施行されたかには関係がありません。そういうわけで、他教派の教会で洗礼を受けた人がルター派教会に移籍するときに、再度洗礼を受ける必要は決してありません。ただし、移籍者に対してルター派教会の信仰告白について教える必要はあります。人はある一定の規則に従って教会の一員になります。堅信礼が必要になる場合もあるでしょう。しかし、洗礼を再び施す必要はいかなる場合でもまったくありません。むしろそれは、あってはならないことなのです。

7.14. 洗礼の賜物

洗礼は私たちを救います

 私たちが洗礼でいただくものは「救い」という一言であらわすことができます。罪の赦しと永遠の命を賜るキリストからは真の命が発しています。この命に私はあずかるのです。私たちは「生まれながらの罪人」です。なぜなら、神様に対して絶えず敵意を抱かせる罪の腐敗が私たちの人間性の中には染み付いているからです。ルター派の信条によれば、この腐敗は「染み付いている」のであって、人間の本質そのものと同じではないことに注意しましょう。「原罪」と呼ばれるこの腐敗からキリスト信仰者が最終的に解放されるのは信仰のうちに死を迎え、復活する時です。洗礼において私たちは罪の赦しの影響の下に閉じ入れられます。私たちは「恵みの王国」なるキリスト教会の一員になります。この王国の基となっているのはキリストの贖いの御業です。この国で私たちは「際限なき罪の赦し」に出会うことになります。私たちは普通の意味での誕生を通してこの堕落した人間世界の成員になります。しかし、洗礼を通して神の御民なるキリスト教会の会員に加えられるのです。

7.15. 洗礼の賜物が受洗者に義務付けること

 洗礼の設定辞は「父と子と聖霊の御名によってすべての国民に洗礼を施し、主が命じられたいっさいのことを守るように教えることによって、彼らをキリストの弟子としなければならない」と命じています(「マタイによる福音書」28章18~20節)。

キリストと共に新しい命を活きるために私たちは受洗しました

 ルター派の理解によれば、私たちは洗礼を通して教会の一員になった時にキリストの弟子とされたのです。神様は私たちが賜った命の意味を理解できるようになさいました。また、神様は私たちが各自受けた召命を遂行するのに必要な力をくださいました。私たちはこの世での人生をキリストと共に活きるという可能性を与えられたのです。パウロの表現を借りるなら、私たちは「キリストの死の中へと洗礼を受けている」のです。キリストは私たちの負債を肩代わりし、私たちの罪の呵責を担ってくださいました。キリストを十字架送りにした一切の原因(つまり私たち自身の罪)は私たちの内においても裁かれて抹殺されるべきであることを私たちは認めて告白します。私たちが洗礼を受けたのは「新しい命の中を歩むため」言い換えれば「復活されたキリストと共に新しい命を活きるため」です。私たちの内には窒息させ抹殺しなければならない存在があります。それは自己中心な「古い人」です。しかしその一方で、私たちには日々新しい命の中へ起き上がる存在もあります。それは神様の御前に活きることを喜ぶ「新しい人」です(「ローマの信徒への手紙」6章1~11節)。

 このような生活は「洗礼に基づく人生」とか「洗礼における鍛錬」とでも呼べるでしょう。それは実は「日々の悔い改め」と同じことなのです。

7.16. 幼児洗礼について

幼児洗礼はいつごろから行われていたのでしょうか?

 教会ではその歴史の始まりから子どもに洗礼を受けていたことが知られています。185年頃生まれた神学者オリゲネスは「教会は子どもに洗礼を授ける習慣を使徒たちから受け継いだ」と言っています。

幼児洗礼が聖書的である理由

 新約聖書には幼児洗礼についての直接な言及はありません。実はそれは当然なことなのです。当時の状況は私たちの時代の「海外伝道」における状況に似ています。子どもに洗礼を授ける前にキリスト信仰者の親が必要とされるのが普通のケースでしょう。幼児洗礼の根拠として引用されるイエス様と子どもたちとの出会いを描いた聖書の箇所(「マルコによる福音書」10章13~16節)が教会において幼児洗礼の慣習の基として読まれ理解されてきたというのは歴史的な事実です。もちろん一方では、「洗礼で何が起きているか知らないままで受洗するのは何か益があるのか」という疑いの声が当時もありましたし、今も聞かれます。前記の聖書の箇所においてイエス様の弟子たちは「先生を子どもたちへの祝福などでわずらわせるにはおよばない」と考えていたのでしょう。しかし、神様を信じてその周りに集う人々には神様との交流の場が与えられます。そして、イエス様は小さい子どもも神様の御国を継いで、この交流の場の中に加わるという望みをはっきりとお示しになったのです。

 信仰とは本質的に「神様との交わり」です。先ほどの聖書の箇所にもあったように、イエス様は小さい子どもにも信仰を与えることができます。神様の御国は彼らにも関わりがあります。ただし、子どもはその自然な誕生を通してではなく、キリストの贈り物(洗礼)を通して御国にかかわるようになります。それゆえに、教会はそのはじめから小さい子どもたちにも洗礼を授けてきたのです。もしもかりに幼児洗礼が無効だったとしたら、聖書に従って教える教師は幼児洗礼を受けた者の中には一人として存在しなかっただろうし、ルターに始まる宗教改革も実現しなかったに違いありません。このことについてはルター派の信条書も語っている通りです。

洗礼は必要不可欠のものでしょうか?

 「洗礼を受けていない子どもや洗礼を受けることができなかった人が死後どうなってしまうのか」という問題に私たちは答えることができません。なぜなら、神様はこの問題について聖書でその答えを明示しておられないからです。もしも私たちが「子どもは洗礼を受けなくても救われる」と言うなら、聖書の教えを超えてしまいます。それゆえに「アウグスブルク信仰告白」はこの主張を斥けています。しかし一方で、私たちには「洗礼を受けていない人は地獄に落ちる」と言い放つ権利もありません。神様は私たちを恵みの手段に結び付けられました。しかし、神様御自身については必ずしもそうであるとは言えません。聖書を通して私たちが知っているのは、洗礼を受ける者はキリストに結び付けられる、ということです。それゆえ、キリスト信仰者の親にとって我が子を神様に抱っこしていただくようにするのは喜びなのです。いつもと同様に、ここでもまた私たちは神様に感謝し、神様の約束に信頼しつつ、神様が命じた通りに行います。そして、「神様の贈り物は洗礼以外の方法でもいただけるのではないか」などとつぶやいたりはしません。

洗礼を受けることは「養子になること」にたとえることができます

 洗礼を受けることは「養子になること」にたとえることができます。養子になった子どもは新しい父親を得ます。また、その結果として「遺産の相続権」を得ます。遺産の相続権は子ども自身がそれについて知るようになるずっと以前から有効です。そして、いつか遺産を実際に相続して守る責任を担うべき時がやってきます。もしもそうでないならば、たとえ遺産を相続する権利があったとしても、その遺産には何の益もありません。同じことが洗礼を通して私たちがいただいた「神様の子どもとしての地位」についても言えます。私たちはそれをはじめはまったくの贈り物として受けています。それから、徐々にそれを意識して受け取るようになりますし、またそれを正しく用いていくのが当然でもあります。しかし、受洗者たちの中にはこの贈り物を軽んじる者もいます。しかし、天の御父はそのような子どものことをも決してお忘れにはならず、変わることなく彼らの父でありつづけてくださいます。

7.17. 洗礼という契約

神様は人間と「洗礼という契約」を結ばれました

 神様が私たちに洗礼を通して授けられた「神様の子どもである権利」を「洗礼の契約」と呼びます。神様がイスラエルの民の神となり、イスラエルの民は神の民になる、という契約を神様がイスラエルの民と結んでくださったように、神様はキリスト信仰者ひとりひとりとも契約を結んでくださいました。この契約は、神様が私たちの父となり私たちを御自分の子にしようと望んでおられることを意味しています。この契約を信じ続けるかぎり、私たちはこの契約にとどまりつづけることができます。信仰を保ち続けるためには、信仰を生み出し保持してくれる恵みの手段(御言葉(の説教)と聖礼典)にあずかれる場に、とりわけ教会での礼拝に参加し続ける必要が有ります。

私たちの側でこの契約を破る場合も起こり得ます

 もしも私たちが御言葉や聖餐や祈りを拒むようなら、私たちはもはや「洗礼の中」に活きてはいません。私たち人間の本性にはいとも当前のごとく神様から遠ざかろうとする傾向が染み付いています。上述の場合にはこのような罪の傾向が力を得てしまいます。そして、そのような人からは神様の御心に聴き従おうとする姿勢がなくなっていきます。また、神様の御心に適うと以前ならわかっていたことにも故意に反抗するようになります。

 これは「洗礼の恵みを見失った状態」と呼ぶことができるでしょう。洗礼の恵みを見失った人間は乾き切って死んでしまうぶどうの木の折れた枝のような存在であり、命を与えるはずの血が行き渡らなくなった体の一部分のようなものです。聖書の他のイメージを用いるなら、その人はいわば「放蕩息子」なのです。その人は洗礼を受けているので、洗礼の恵みを見失った状態になっても依然として「キリスト教徒」と呼ばれてはいます。それはしかし、浮気をした夫ないし妻がそれでもまだ形式上は結婚しているために「夫」ないし「妻」と呼ばれているのと同じことです。神様はその人をキリスト信仰者として正式に召してくださいました。ですから、その人はキリスト信仰者であるべきなのです。その人はキリストを信仰する人間としての責任を委ねられており、キリストを信仰する者としていつかは必ず自分の人生を清算しなければならない時がきます。しかし、洗礼の恵みを見失った人間は「乾いた枝」であり「死んだ肢体」であり「家出した放蕩息子」になってしまっているのです。

そのような場合にも、神様は契約に対して忠実を貫かれます

 そのような場合にも、神様の側から見ると洗礼の契約はずっと有効なままなのです。それゆえ、この世で生きているかぎり、人には神様のもとに戻る機会がいつも残されています。こうして今や私たちは「方向転換」というテーマに導かれます。それについては次章で扱うことにしましょう。

7.18. 北欧のルター派の教会と幼児洗礼

 北欧のルター派の教会で一般的な幼児洗礼の慣習は、受洗する幼児の親が我が子のキリスト教教育に積極的に携わることを前提としています

 北欧におけるルター派の教会は通常「国民教会」というかたちをとっています。この国民教会には国民の大部分が属しており、教会は福音を全国民に伝えることをその使命としています。国民教会は幼児洗礼に基づいて成り立っています。子どもたちは「主が命じられたすべてのこと」を守るのを教会の中で学んでいくために、生まれて間もない頃に洗礼を受け、教会の一員になります。信仰教育は受洗した子どもの家庭の協力を前提としています。それゆえ、もしも親の大多数がキリスト教の教育を施さなかったり、教会の提供する信仰教育を自分の子どもに受けさせる意欲を失ったりする場合には、国民教会は危機的状態に陥ります。実際、北欧の国民教会制度はいまやそのような状態にあると言えます。たとえば、学校がルター派の教会の信条に基づくキリスト教の教育を子どもに提供する可能性はかなり減少しました。こうした状況の下で教会は洗礼の教えを自分で増やす必要が出てきています。キリスト教の教育は幼児洗礼に基づいてなされるべきです。もしも教会のほうで洗礼の教えを含むキリスト教の教育を子どもたちに適切に提供するつもりがないのなら、教会における幼児洗礼の慣習を正当化することは難しくなります。

北欧のルター派の教会については「本当に信じている人々の集まり」というよりも「イエス・キリストへの信仰へと招かれている人々の集まり」というほうが的確です

 国民教会が幼児洗礼に基づいて構成されている以上、「洗礼を受けた者全員が受洗の時の真のキリスト信仰者の状態を大人になってからも保ち続ける」とは事実上言えなくなります。福音ルーテル教会は、神様が弟子として召し出し教会の一員としてくださった人々すべての集まりです。「真のキリスト信仰者」とは、キリストへの信仰の中で活きている人のことです。国民教会に属する各個教会には信仰的には死んでいる教会員も活きている教会員も含まれています。国民教会が現在抱えている大問題は、教会員の大多数、さらには各個教会の責任者の大多数までが福音から離れてしまっていることです。国民教会は、もしも自らに委ねられた使命を厳粛に受け止める気があるならば、「福音」すなわち「悔い改め」を宣べ伝えることを決してあきらめるべきではありません。

1)キリスト教が他の一神教とはっきり異なる特徴とは何ですか?

2)「聖霊」という言葉は多くの人にとってとらえどころがないものです。 それはどうしてでしょうか?

3)新約聖書が「教会」というものを明示するために用いているイメージの中からいくつかを取り上げて説明してください。

4)「使徒信条」の中の「聖なる公同の教会」とはどういう意味でしょうか?

5)新約聖書によると使徒たちはどのような特別な立場にいるのでしょうか?

7)洗礼とは何でしょうか?

8)洗礼においてどんなことが起きるのでしょうか?

9)洗礼はどのようなことを私たちに義務付けていますか?

10)ルーテル教会は幼児洗礼をどのように根拠付けていますか?

11)「洗礼という契約」という言葉は何を意味していますか?

1)ギリシア語の「エックレーシア」という言葉はしばしば「教会」と翻訳されています。この「教会」は各個教会のことも、また各個教会がひとつに集まって構成している教会全体のことも指しています。
次にあげる聖書の箇所についてそれらの文脈を踏まえたうえで、それぞれの場合どのような意味でこの言葉が使われているかを考えてみてください。
「マタイによる福音書」16章18節
「使徒言行録」8章1節,9章31節、16章4節
「コリントの信徒への第一の手紙」1章1~2節
「ガラテアの信徒への手紙」1章1~2節
「エフェソの信徒への手紙」1章22~23節、5章25~27節
「テモテへの第一の手紙」3章15節

2)次の新約聖書の箇所から「教会」というものをはっきり際立たせる表現や言葉遣いを探してみてください。たとえば、教会が一体であること、聖なるものであること、公同なるものであること、キリストの体であること、聖徒の集まりであること、恵みの提供によって創り出されるキリストとの結び付きであることなどです。
「ヨハネによる福音書」15章17節
「ローマの信徒への手紙」11章17~20節、12章3~8節
「コリントの信徒への第一の手紙」10章16~17節、12章4~13節
「エフェソの信徒への手紙」4章3~6節

3)大祭司としてイエス様は「教会がひとつであるように」と祈られました(「ヨハネによる福音書」17章14~23節)。何が教会を本当にひとつにするのか、また教会がひとつであることがこの世にどのような意味をもっているかについてイエス様は語っておられます。次にあげる質問に答えてみてください。
A) どのようなことが弟子たちを互いにひとつにまとめていましたか?(14,16,17,19,22節)
B) 他の人たちも互いにひとつとなっている弟子たちの仲間に入れます。
その前提となるのは何ですか? (20節)
C) 弟子たちが互いにひとつとなっていることはどのような影響を周りの人々に与えるでしょうか?また逆に、弟子たちが互いにばらばらになっている場合にはどうでしょうか? (21,23節)
D) エキュメニカル的な視点からみたときに、この箇所からどのような大切なことを学ぶことができるでしょうか?
エキュメニカル運動とは、この世に存在する多くのキリスト教会(カトリックやプロテスタントなど)の一体化をめざす運動のことです。
E) 次にあげる「アウグスブルグ信仰告白」の第5,第7,第8信条を読んでください(できればグループで)。「アウグスブルグ信仰告白」とはルーテル教会にとって核心ともいえる信条です。


第5条 教会の職務について 
 私たちがこの信仰を得るために、福音を教えて聖礼典を分け与える職務が設定されました。というのは、あたかも手段を通すように御言葉と聖礼典を通して聖霊様が与えられるからです。聖霊様は、神様が適当であるとみなされた時と場所とにおいて、福音を聞く人々のうちに信仰を起こしてくださいます。すなわち、キリストのゆえに自らが恵みの中に受け入れられることを信じる人々を、神様が私たちの功績のゆえではなくキリストのゆえに義としてくださる、ということです。「ガラテアの信徒への手紙」3章(14節)には「私たちは御霊の約束を信仰によって受ける」とあります。
 外的な御言葉なしに自分たちの準備と活動によって聖霊様と関わり合うことができる、と考えている再洗礼派やその他の人々を、私たちは異端と宣告します。

第7条 教会(エックレーシア)について
 また私たちの諸教会はこう教えます。唯一の聖なる教会は永遠に存続していきます。教会は聖徒たちの集まりであり、その中では福音が純粋に教えられ、聖礼典が正しく執行されます。そして、教会の真の一致のためには、福音の教理と聖礼典の執行についての同意があれば十分です。人間的な伝承、あるいは人によって定められた儀式や典礼は、どこにおいても同じでなければならないという必要はありません。それはパウロが「ひとつの信仰、ひとつのバプテスマ(洗礼)、ひとりの神、またすべての者の父」云々(「エフェソの信徒への手紙」4章5〜6節)と言っている通りです。

第8条 教会とはなにか
 教会は、本来聖徒たちと真に信仰している者たちの集まりであるとはいえ、「律法学者たちとファリサイ人たちとがモーセの司教座にすわっている」(「マタイによる福音書」23章2節)云々というキリストの御発言にあるように、この世での生活では多くの偽善者たちや悪人たちが混じり込んでいるので、悪人たちによって執行される聖礼典を用いることは許されています。聖礼典も御言葉も、キリストの任職であり委託であるゆえに、たとえそれが悪人たちによって与えられても有効なのです。
 われわれの諸教会は、教会において悪人たちの教職を用いることが許されていることを否定し、悪人たちの教職は無益で効力がないという意見を持ったドナトゥス派およびその同類たちを異端と宣告します。


F) あなたが所属している教会や今通っている教会は、私たちが新約聖書から得る教会観とどのように対応しているでしょうか?

G) 「ローマの信徒への手紙」6章1~5節と「テトスへの手紙」3章4~7節とは、洗礼に関連する主要な箇所です。それらをルターの「小教理問答書」の第4章(洗礼についての教え)と較べてみてください。ルターがそれらの箇所をどのような文脈で引用し、どのような問題に答えを得るために適用しているか、注目してみてください。