第2章 聖書を通して神様が啓示なさっていること

 聖書って何?
 「神の言葉」だって言う人がいるけど、本当かな?
 聖書に書いてある物語は全部本当なのだろうか、それとも作り話なのだろうか?
 私がキリスト教徒となるためには、たとえば旧約聖書の「ヨナ書」に書いてある鯨がヨナを飲み 込んだ出来事を本気で信じなければならないのかな?
 それとも、それはただのおとぎ話なのだろうか?
 神様は子どもに教育的な意味をもった作り話をする場合もあるのでは?
 たとえすべてが作り話ではないにしても、聖書のどの部分を信頼したらよいのかわからないよ。
 誰かこのことをはっきり教えてくれないかな?

2.1. キリスト教の信仰にとって聖書はどのような意味をもっていますか?

神様は御自身を啓示なさいました

 神様について何かを知ることができるのでしょうか?この疑問に対してキリスト教の信仰は「神様は自然や人間の良心だけではなく、特別な仕方で世界の歴史の歩みに関与することを通しても、御自身について知らせてくださった」と答えます。「もしも本当に神が存在していて私たちの存在に何らかの大切な意味を付与しているのなら、神は何らかの方法で人間と連絡を取るだろう」と考えるのは自然ではないでしょうか。キリスト教によれば、まさしくこの通りのことが起こったのです。神様は様々な出来事を通してこの世界の歴史に働きかけてこられました。私たちはこれらの出来事のことを「救いの歴史」と名づけています。この救いの歴史において神様はイスラエルを選んで御自分の預言者たちによって訓育し、御自分の律法と約束にあずかるものとなさいました。こうしてすっかり用意が整えられた時に、神様はその御子をこの世に遣わされました。そして、御子は私たちのために死なれ、それから復活なさいました。さらに、御子は父なる神様と一緒に聖霊様を遣わして御自分の教会を創設なさいました。

 今述べた事柄について聖書は語っています。それゆえに、聖書の御言葉はキリスト教の信仰の土台としての意味をもっているのです。「神様は聖書を通して御自分について語り、あらゆる時代のすべての民のために用意なさった救いについて教えるために私たちに聖書を賜った」というのがキリスト教に基づく確信です。神様は聖書の中に、他からは決して得られない私たち人間と神様との関係を正常化するために必要な知識を盛り込みました。

 キリスト信仰者の経験と確信によれば、神様は御言葉(すなわち聖書とそれを解き明かす説教)を通して、他のどのような方法でも不可能である特別なやりかたによって私たちと出会われます。御言葉を通して私たちは神様の本質と計画、神様から人間へと開かれた道、また人間から神様へと開かれた道について知ることができます。自然や人間の良心が伝える啓示(一般的啓示)は神様とその御計画についてこれほど深く私たちに教えてはくれません。神様は御自分について知らせるために自然や良心における一般的啓示で十分だとは思われなかったのです。人がいわば自然の中で礼拝する時に、神様の力と偉大さを何らかの形で体験することはたしかにありえます。神様が聖なるお方であることを自己の良心を通して強く実感する場合もあるでしょう。しかし、それによっては神様の真の本質を知るようにはなれません。その本質とは「神様の愛」です。この愛こそが私たち罪人のすべての罪を赦して私たちが神様と共に活きられるようにしたのです。      

2.2. 聖書は神様の御言葉です

神様は私たちに聖書の御言葉を通して語られます

 キリスト教会はいつの時代でも、聖書が特別な書物であるという確信を「聖書は神様の御言葉である」という教えによって表現してきました。聖書は私たち人間に与えられた神様の御言葉です。聖書には神様についての信仰者の思いや考えを表現している箇所もあります。しかし、聖書はその全体が神様からのメッセージなのです。そして、このメッセージは神様が望まれる通りの形で聖書に書き記されています。

 聖書が神様の御言葉であることを私たちはどのようにして知ることができるのでしょうか。前章では、人は信仰に結びつく経験を通して活ける神様の実在に確信を抱く場合があることを学びました。それと同様に、御言葉の中で神様が語っていることは客観的に証明できることではなく、人が信仰に結びつく経験を通して確信するべき事柄なのです。人は御言葉を聴いて心から受け入れる時、自分が神様と接していることに気がつきます。そして、聖書の中で語りかけているのは神様であることを確信するにいたるのです。「神様は私たちにまぎれもなく御言葉を通して語りかけてくる。神様と接したいなら、私たちは神様を御言葉から探さなければならない」と宗教改革者マルティン・ルターは特に力を込めて強調しました。

 しかし、誰もがこのような体験をするわけではありません。私たちがもつ神様とのかかわりはいつも個人的なものであり、私たちがそれに対してどのような態度を取るかによっても変化します。人は様々な理由から御言葉の中にある神様の力を拒絶してしまう場合があります。神様に関わる問題を知的な証明によって斥ける人もいますし、神様の御言葉の正しさを認めてしまうときに帰結する考えかたや生きかたが気にいらないと感じる人もいます。このことに関連してイエス様は新約聖書で次のように言っておられます。「この方の(すなわち私を遣わした方の)御心を行おうとする人は誰でも、この教えが神様からのものか、それとも私は自分のことを話しているのか、そのどちらであるかがわかるでしょう」(「ヨハネによる福音書」7章17節)。私たちは神様の御言葉に心を開いてその働きかけを受け入れる時に、御言葉が神様から発していることを確信させる力に出会います。また、私たちが御言葉に心を閉ざす場合にもその力の発現を見ることができます。その場合にそれは、御言葉を拒む者がいっそう頑迷になって御言葉を受け入れるのがさらに難しくなっていくという形で現れます。旧約聖書で言われているように、人々に宣べ伝えられた御言葉はその目的を果たさずにむなしく神様の御許に戻っていくことがないのです(「イザヤ書」55章11節)。信仰か反抗か、救いか拒絶か、恵みか裁きか、そのどちらかの結果を御言葉はもたらします。そして、私たちが神様の御言葉に接している時には、いつもこれらのことが起きているのです。  

聖書のもっている意味は次の3つの内容に集約できます。

1)御言葉は神様が何をなさったか語ります

 神様の救いの御計画がどのような段階を経て実現してきたのか、聖書は語っています。私たちは神様がイスラエルに行われた御業について聴くことができるし、主イエス様について学び知ることができます。また、新約聖書の「使徒言行録」や数々の手紙などに収められた使徒たち(すなわちイエス様が選んだ特別な弟子たち)の証言を通して、イエス様の御業はどのような意味をもっているか、という解き明かしを聴くこともできます。

2)御言葉は私たちに語りかけています

 聖書にはたとえば歴史的な出来事、中近東の詩、ユダヤの古い箴言、また苦しむ人間の抱く悲嘆や疑念などが綴られていますが、それがすべてではありません。たしかに聖書は過去に起きた大切な出来事や思想について語っています。しかし、それと同時に神様は聖書を通して私たちに何かを告げたいのです。聖書は私たち自身について語っている書物でもあるからです。

3)御言葉は私たちの心の中で働きかけています

 神様自身の口から発せられた御言葉である聖書には私たちに信仰を与える力があります。また、聖書は私たちの罪を自覚させ悔い改めさせる心を私たちにうちに起こすことができます。私たち自身や神様について今まで知らなかったかあるいは知っていてもただ空ろに響いていた言葉の真実を私たちがしっかり見つめて理解できるようにする力を聖書はもっています。  

2.3. 恵みの手段

「恵みの手段」とは?

 キリスト教の理解によれば、聖書の御言葉とは、それを通して神様が私たちの時代にもやって来て私たちの間や内で働かれる際に用いられる「手段」です。聖書はサクラメント(すなわち洗礼と聖餐という「聖礼典」のこと)と並んで「恵みの手段」(ラテン語でmedia gratiae(複数形)と呼びます)を構成しています。聖書はこの世界にある目に見える物ですが、それはまた神様の力と神様御自身を内包しています。この特性のゆえに、聖書は私たちに神様の恵みを具体的に伝達できるのです。

 恵みの手段にはふたつの面があります。ひとつは誰もが見たり聞いたりできるもの(聖餐のパンとぶどう酒、洗礼の水、聖書の文字、福音を読む声など)であり、もうひとつは信仰を通してのみ見出されるものです。私たちは恵みの手段を通して、この世では他に類を見ないやりかたで神様と接することになります。この意味で、恵みの手段はイエス様に比べることもできます。当時イエス様の周囲にいた人は誰でもイエス様を直接見ることができました。イエス様には他の人間と等しい体があったからです。にもかかわらず、イエス様を目にした誰もが皆イエス様を信じたのではありません。イエス様のメッセージに心を開きそれを受け入れた人だけがイエス様が神様の御子であるという真理を見出したのです。

2.4. 聖書は神様の御霊によって書かれています

 いつの時代もキリスト教会は聖書の奥義を「聖書は御霊によって書かれた」と表現してきました。この言葉は使徒パウロの「テモテへの第二の手紙」(3章16節)に基づいています。それによれば、聖書(当時それは旧約聖書を意味していました)とは「神様が息を吹きかけたもの」すなわち神様の御霊が満たしているものなのです。しかし、これはどういう意味なのでしょうか?   

教義を純正に保とうとした、宗教改革のすぐ後の時代の理解

 ルター派の教義を純正に保とうとした時代には「聖霊様が聖書の内容を聖書記者に口述なさった」と理解されました。そして、それに基づいて「聖書は正確で誤りのない知識の源泉であり、聖書に描かれている出来事の年代、動物や自然の記述などについてもそれは同じである」という結論が導き出されました。神様からの語りかけには関心を示さず自らの罪や神様の恵みの問題と真剣に取り組まない人々は聖書をたんなる「索引事典」として利用しました。そして、東方の諸民族の王たちや出自など自分に興味のある事柄を調べたり、世界が誕生してからどのくらい時間が経過しているか具体的な計算を試みたり、未来を予言しようとしました。そうして得られた結果は疑いなく正しいものとみなされ、その当時の世界観の一部に加えられました。   

聖書を歴史に基づいて理解しようとする現代の知的傾向

 時が経ち、あらゆる点で聖書に権威を求めることで作り上げられた世界観に対して、科学は次々と疑問を投げかけるようになりました。これは前述した世界観をもつ人々を大きく動揺させました。自然科学者や歴史学者が一般の人々をそれなりに説得できる理論によって旧来の世界観を覆し始めたのです。科学と聖書の間の緊張関係は科学的な聖書批判となって具体化し、聖書についての理解を改めて考え直す機会を人間に与えました。それらの考え方はおおよそ次の4つに大別できます。

聖書についての4つの理解の仕方

  ① 聖書は他の書物と同様に生み出された

 この考えかたによれば、聖書は神様に関する人間による物の見方を含んでおり、聖書記者たちもまた「時代の子」であったので聖書が書かれた時代の影響の下にあった、とされます。彼らは彼らの生きていた時代に書かれていたように書き、話されていたように話した、というのです。信仰をもたない人にとってこうした理解の仕方は自明だと思われるでしょう。また、神を信じ自らをキリスト教徒と自認する人の中にも同じような考えかたをする人がいます。彼らは神の存在を信じています。しかし、「聖書記者たちは自分流に神との出会いを解釈しようとした。だから、信心深い人々の話に耳を傾けるようにして彼らの話にも耳を傾けることはできる。しかし、彼らの考えを丸ごと受け入れる必要など毛頭ない」などと言います。「イエスはたしかに他の人間よりも優れていた。しかし、彼のメッセージは当時の間違った世界観を鵜呑みにしていた単純な人々を通して現代まで伝えられた。だから、聖書を歴史に照らし合せて読む時には聖書に対して批判的な態度をとるのは当然である。また、今私たちが生活している現代社会では通用しないと感じられる聖書の箇所は容赦なく切り捨ててよい」と彼らは考えます。

 このような考えかたは宗教間の対話においてしばしば見受けられますし、人々が様々なメディアで自分の意見を述べる際の自明の大前提になっている場合も多いです。そして、深く考えることもなく、使徒パウロが新約聖書の手紙の中で書いていることをたんなる人間の言葉であるとみなしたり、「イエスもいろいろな面でその時代の子であった」と結論してみたり、あるいはそれとは逆に「イエスは私たちの時代とそぐわないようなことを言ったはずがない。だから、たとえば結婚についての教えや人が地獄に落ちる可能性などについての彼の言及は彼自身の教えを正しく伝えるものではない」などと主張したりします。    この考え方によれば、聖書は何ら特別な権威をもつ書物ではなく、他の宗教的な書物群と均質に比較できるものである、ということになります。

  ② 神様は御自身を歴史の中で啓示なさった

 「活ける神様は歴史の中で働きかけて御自身を啓示なさる」という考えかたがあります。それによれば、神様が長期にわたる様々な戦いを通じて真理と救いの御業を成就なさった劇的な歴史が聖書の中には記されていることになります。この一連の出来事は口伝され、書写され、神学的な意味づけがなされ、聖書としてまとめられて現代の私たちにまで伝えられてきました。そして、この過程は誤りや思い違いがつきものの人間の歴史の一部であるがゆえに、聖書を歴史的に研究し評価することは可能である、というのです。

 こうした視点から聖書を読む人たちは「聖書の中にある伝承には誤りが含まれていて、その本来のメッセージが変化してしまっている」などと主張します。キリスト教の信仰にとって核心的な事柄についてさえ疑いを差し挟むリベラルな学者もいるものの、一般的に見ると、歴史的な視点に立つ批判的な聖書学においても「聖書の伝承とりわけ福音書は歴史的に見ても基本的に信頼できる」という学問的な結論を下してきたと言えます。    「神様がその御言葉を伝える人々を通して、具体的な歴史的状況の中で人間に語りかけてこられたことは信じるが、そのメッセージは間違いやすい人間の活動を通して伝えられたものなので、聖書に含まれるそのような誤りは修正されなければならない」と主張する人たちがいます。彼らは御霊によって動かされる人々が存在することや、神様が御霊を通して歴史の中で働きかけてこられたことは信じています。しかし彼らは一方で、御言葉が書かれた時に(すなわち私たちに伝えられている今の形の聖書の言葉が記された時に)御霊の働きがあったことは受け入れようとしません。この点で、彼らの考えかたは伝統的なルター派の信仰とは異なっています。

 ③ 聖書は神様の誤謬のない御言葉である

 ①や②と正反対のこの考え方は「聖書の中にあるすべての言葉は神様の御霊の働き(ラテン語でinspiratioといいます)によって生まれた」とするもので、約二百年間ルター派の教会の中で当然のこととされてきました。混同を避けるために、「言語霊感説」とも呼ばれるこの考え方がいわゆる「根本主義」(英語でFundamentalism)とは本質的に異なるものであることをここで指摘しておきます。「根本主義」は聖書の権威を否定するリベラルな神学に対抗するためにキリスト教の「根本」(ラテン語でfundamentum)に対する過度のこだわりを示します。そして、聖書は歴史的にも自然科学的にも些細な点にいたるまで誤謬を含まないことを強調します。

 ④ 聖書は神様が望まれた通りに形作られた

 この考えかたによれば、聖書の御言葉は御霊によって生み出されたものです。しかし、それは聖書が書かれた時に起きた「御霊による働き」(ラテン語でinspiratio)のみを指しているわけではありません。換言すれば、そのような御霊の働きによって神様が用意なさった救いと神様には直接関係のない細部の描写に至るまで誤りを含まない聖書を私たち人間は所有している、とは必ずしも考えないのです。もちろん一方では、この立場は、細部において聖書は誤りを含んでいる、と積極的に主張したりもしません。

 この考えによると、御霊の働き(inspiratio)は神様がすべての民族とあらゆる時代のために救いのメッセージをお与えになっている事実に具現化しています。そして、このメッセージが現代の私たちにまで歪曲されることなく伝えられてきているのはたしかです。これが実現したのは、聖書が形成されていく全過程(御言葉の口承、文書化、編集、どの文書が聖書として認められるかを制定する正典化)を神様が終始導いてくださったからです。この過程の各段階において、神様は御霊を通して様々な方法で決定的な影響を及ぼされました。こうして聖書は「なるべきかたち」となりました。聖書全体を適切なやりかたで読む人々に対して、神様が用意なさった救いと神様御自身とについて正しい解き明かしを提供できるような書物として、聖書は今のかたちとなったのです。神様の語りかけを聴き取るためには、聖書を正しい姿勢で読む必要があります。神様は私たちに聖書を歴史学や生物学の教科書としてお与えになったのではありません。また、聖書は未来を予言する託宣の書として与えられているのでもありません。もしも聖書をそのような目的のために使うなら、たとえば歴史的あるいは生物学的な問題について神様から明瞭な答えをいただけるかどうか、私たちはいつまでたっても確信を持つことができないでしょう。聖書のもつ特別な使命は、神様が用意してくださった救いを私たち人間に伝えること、神様の御業を私たちが歴史を通して知り学ぶこと、私たちが各人またグループで神様の御業を実行していくことです。聖書が伝える神様の救いのメッセージは、歴史、物語、詩、歌、箴言などに分類される枠組みの中でそれぞれのジャンルに合うようにして埋め込まれています。これらの枠組みの中には昔の世界観に関係する記述が含まれています。聖書において歴史は略述を取り入れた文体で描かれたり、あるいは主要な一連の出来事の羅列として記述されたりすることがよく見受けられます。そして、それらの出来事の時代的な前後関係にはさほど考慮が払われていない場合もあります。ですから、そうした記述を専門的な学術論文と同じように読むことはできません。もちろん、ある種の文体をまとった描写が言葉の最も深い意味で真実をついており正しいこともありえますし、真理についてのイメージを生き生きと伝えることもできます。そのような意味で聖書の歴史記述は真実なのであり、それを現代的な意味での学術文献のように利用するのは適切ではありません。ですから、聖書の記述の些細な一部を拡大することで得られるイメージが学術的により正確なものであるとは短絡的に結論できないのです。

 ③と④の聖書理解に共通しているのは、聖書の形成過程全体をこの世における神様の御業として把握している点です。この観点のおかげで「聖書は神様が用意された救いと神様とについて正しいイメージを提供している」と私たちは確信できるのです。 聖書を細かく分割し全体から切り離して読むのではなく、まさにその全体を通じて聖書のメッセージを学ぶ時、神様の子らであるキリスト信仰者は心安らかに信頼しつつ「聖書を通して語られる神様は常に正しいお方である」と宣言することができるのです。

2.5. 聖書自体は聖書についてどのように理解していますか?

イエス様は「聖書には何と書いてありますか」と聞き手の注意を促すのが常でした。

「あなたがたは読んだことがないのですか」
(「マタイによる福音書」22章31節)

 イエス様や使徒たちが聖書(旧約聖書)をどうとらえていたかは新約聖書から知ることができます。彼らにとって聖書は絶対的な権威でした。イエス様は常に聖書を引用して語られました。たとえば、イエス様は「出エジプト記」(3章15節)を引用して、「神様が死者の復活について「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神です」と言われたのをあなたがたは読んだことがないのですか?」と言われ、それから「神様は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのです」と説明なさいました(「マタイによる福音書」22章31節)。また、「 ダヴィデは「主は私の主に言われました。私があなたの敵たちをあなたの足下に置く時まで、私の右に座していなさい」と聖霊のうちにあって言いました」ともおっしゃられました(「マルコによる福音書」12章36節)。ダヴィデの箇所は「詩篇」110篇からの引用です。

旧約聖書はキリストについて証しています

 聖書(すなわち旧約聖書)はキリストについて語っている、という視点に私たちは新約聖書全体を通じて繰り返し出会います。たとえば、二人の弟子たちはエマオへの旅の途中でイエス様に出会いました。イエス様は律法や預言書を通して彼らを教え、御自分について聖書全体には何と書いてあるかを説明なさいました(「ルカによる福音書」24章27節)。イエス様は復活なさった後で使徒たちに自らの姿をあらわされた際に「私についてモーセの律法や預言書や詩篇に書いてあることは必ずすべて実現する」ことを彼らが理解できるようにしてくださいました(「ルカによる福音書」24章44~45節)。「モーセの律法」とは旧約聖書の中のはじめの5つの書物、すなわち「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」をさしています。「預言書」とは旧約聖書の中の預言者たちの活動を記した書物をさします。それは「士師記」にはじまり「サムエル記」や「列王記」などユダとイスラエルの王国の歴史に関する書物群および「イザヤ書」などの預言書をすべて含んでいます。要するに、旧約聖書に含まれる各書物にはそこに書いてある通りに実現することになっている一連の事柄が記されているのです。そして、それはイエス・キリストにおいて実現しました。このことのゆえに、旧約聖書は「イエス様の光」を通して読まなければその真の意味が理解できないように構成されているのです。「神様の約束はすべてこの方(すなわちイエス・キリスト)において「その通り」になりました。それゆえ、この方を通して神様への「アーメン」が私たちを通して(神様に)栄光を帰するのです」とパウロは書いています(「コリントの信徒への第二の手紙」1章20節)。「モーセの書」を読む人の心には覆いがかかっていますが、人がキリストのほうへ心を向け、聖書が書かれた本当の目的を理解するようになった時に、その覆いはキリストにあってはじめて消え去る、ともパウロは言っています(「コリントの信徒への第二の手紙」3章14~16節)。同じことを「ヘブライの信徒への手紙」も次のように教えています。律法は来るべき善きことの影をたずさえてはいるものの、その真のかたちを備えているものではありません(10章1節)。それに対して、この世に来られたキリストは旧約聖書に書いてある事柄たとえば犠牲を捧げることや大いなる贖罪の日やメルキゼデクの意味などを私たちに示してくれました。

聖書は私たちのために生まれました

 旧約聖書に書いてあることは「私たちへの訓戒として書かれています」(「コリントの信徒への第一の手紙」10章11節、「ローマの信徒への手紙」15章4節)。新約聖書はこのことを何度も繰り返し強調しています。預言者たちの言葉がはじめて人の口や書物を通して伝えられた時、それを聞いた人々がすぐにその本来の意味を完全には理解できなかったことには、それなりの目的があったのです。

そのゆえ、御言葉の「言葉遣い」が決定的に大切な意味をもっている場合があります

 今まで述べてきたようなやりかたに従って聖書を読む者にとって、聖書の「言葉遣い」は決定的に重要な意味をもっています。なぜなら、かつて御言葉として発せられた時点では本来の意味が十分に伝わらなかった事柄を明確に教えるためにこそ神様は聖書(すなわち旧約聖書)を今の形で人間にお与えになった、という確信がイエス様と使徒たちが旧約聖書を読んで引用する姿勢から伝わって来るからです。この考えかたは、先ほど私たちが取り上げた「今私たちに語りかけている聖書がその形を取るに至った全過程を神様は導いてくださった」という考えかたと同じものです。

2.6. 聖書は一貫した書物でしょうか?

聖書の中心はキリストです

 私たちは使徒たちや伝統的なルター派の教えから受け継いだ聖書理解に基づいて、ふたつの大切なことを結論できます。聖書は神様が望まれた通りに今ある形になったのだから、たしかに内容的には多様でそれぞれ異なる時代に生み出され異なる事柄を扱っている書物を内包しているが、全体的には一貫した書物である、というのが一番目の結論です。すべては唯一の中心であるイエス・キリストの周りに集中します。キリストが中心に位置するので、聖書には中心から見て近いところと遠いところがあります。肖像画と比較して考えてみましょう。肖像画では描かれている人物、なかでもその顔立ちが最も重要な中心をなしていますが、人物の背景も全体の雰囲気に影響を与えるように描かれています。そして、肖像画を正しく鑑賞するためには絵のすべての要素を大きな全体に結び付けて把握することが大切になります。

 このたとえをもとに第二の結論を導くことができるでしょう。様々な突飛な思いつきを無理に正当化するために聖書の箇所を本来の文脈から切り離して引用することは許されることではなく、むしろ、すべては全体と照合して理解しなければならない、ということです。いわゆる「根本主義」(Fundamentalism)は聖書のすべての箇所を一律に扱い、聖書の中心的内容への理解を欠いたまま、全体から切り離された特定の聖書の箇所に依拠して議論を進める、と非難されることがあります。この批判があてはまるキリスト教の教派が存在しているのはたしかです。しかし、伝統的なルター派の考えかたはそれとはまったく異なります。なぜなら、聖書のすべての部分はキリストと結びついており、それゆえキリストに基づいて理解されるべきである、という基本的な視点がルター派の教義では常に明瞭に意識されてきたからです。それゆえ、ルター派は、たとえば旧約聖書のモーセの律法の第二戒に記された、刻んだ像をつくることを禁じる箇所を教理問答書に取り入れませんでした。それに対して、改革派はこの戒めの部分をあたかもそれがキリスト以後の時代にも有効であるかのように、自らの教理問答書に保存しています。

 歴史的な聖書理解を擁護する人々は、キリストについてのメッセージが聖書の中心であり正しい解釈の基準であることをしばしば強調してきました。この点で、こうした考えかたは「聖書は神様が望まれた通りに今の形になった」という聖書理解にかなり近づいています。しかしその一方では、そうした歴史的な聖書理解に依拠しつつ「聖書には一貫したメッセージなどなく、救い自体に関しても矛盾に満ちた雑多な視点が混在している」などと主張される場合もあります。このような面をみると、歴史的な聖書理解と、使徒たちの教えや正統的なルター派の教えから受け継がれてきた聖書理解との間には、やはり決定的な差異があることがわかります。

2.7. 神様の御言葉は私に語りかけています

聖書の御言葉を信じることに関して経験にはどのような意味がありますか?

 人の聖書に対する態度を決定づける主な要因はその人自身の「経験」であることが多いでしょう。人が聖書の権威を信じるのはそれを実際に体験したからです。その人は神様の律法に出会い、たとえそれがその人自身を裁くようなものであったとしても、それを避けて通ることができないことがわかったのです。律法の要求内容がたとえどれほど実行不可能なものに思えたとしても、彼らはその正しさを認めて受け入れました。もしもそうしなかったのであれば、自分たちが律法の示している正しい行いを真理として受け入れることができなかったであろうことを、彼らは知っています。敵をも愛さなければならないことを彼らは認めます。以前には気にも留めていなかった周囲の隣人たちについても自分にはある種の責任をとらなければならない、と彼らは感じています。実際に行動して助けをさしのべなければならないときに退いて事態を平穏にやり過ごそうとするのは間違った態度であることを彼らはわかっています。このように考えるようになった彼らは福音を新しいやりかたで聴くことを学んだのだといえます。その一方で、人は、すべてにまして神様を愛したり隣人を自分自身のように愛したりすることが自分でどんなに努力してもできないと経験からわかったものの、そのような至らない自分の罪が赦されていることを信じたくてもなかなかそうできないでいることがしばしばあります。しかしこのような場合でも、キリスト信仰者は御言葉の権能の前に平伏して、キリストのゆえにいただける罪の赦しの約束を信じます。そして、たとえ良心の呵責に悩まされていようとも、また罪の赦しを実感できなかろうとも、この約束の有効性はまったく揺るぐことがありません。

 これらのことを人は聖書を学ぶときや日常の中で心に響いてくる聖書の箇所に出会ったときに経験するものです。私たちの経験によれば、神様はこうした目的のために聖書のあらゆる箇所をそれぞれの人のために活用なさるし、その人の抱えている問題とは関係なさそうに見える意外な御言葉に深い意味を与えてその人のこれからの人生に影響を及ぼすことができるのです。

2.8. 律法と福音

 聖書の御言葉は内容的に律法と福音に分かれます。御言葉は人に語りかける神様のメッセージなので、皆がそれに真剣に聴き入るべきです。御言葉は自分とは関わりのない他の人に起きた瑣末な出来事の説明ではないからです。

律法とは何でしょうか?

 神様は私たちに聖なる御意思を律法の中に啓示してくださいました。神様の律法は真理、義、思いや言葉や行いにおける清さを私たち人間から要求しています。律法は、神様が人から何を期待しているか、また私たちはどうあるべきか、を教えています。

福音とは何でしょうか?

 律法に対して福音は、神様は私たちに何を贈ってくださったか、また私たちが救われるために何をしてくださったか、を語っています。

 律法と福音とは常に私たちに個人的に関わってくる事柄です。ですから、それらを自分には関係のないものとみなして客観的に研究しても意味がありません。

 ですから、聖書の啓示を中世の歴史や蝶の研究書などを読むのと同じようなやりかたで受け入れたりその叙述内容を把握したりすることはできません。たしかに聖書とそのメッセージに関する適切な説明や用語を読んだり用いたりすることで形式的には聖書をめぐる正しい知識を得ることができるでしょう。しかしそうしてみたところで、人はまだ聖書の啓示に個人的に出会うことにはならないし、神様を正しく知るようにもなりません。これらのことが実現するためには「たんなる知識以上のもの」すなわち聖霊様が私たちの心に灯される照明が必要だからです。律法と福音を通して私たちの内や間で働いて私たちを裁き憐れみ聖となさる神様と私たちが出会うことができるのはこの照明のおかげなのです。そのときになってようやく人は「聖書の啓示」の意味がわかるようになります。

1)「救いの歴史」とはどういう意味ですか?

2)キリスト教的な信仰にとって聖書がもっている意味を短く3つ説明してください。

3)「恵みを提供するもの」とはどういう意味ですか?

4)ルター派の教義を宗教改革以後の時代にも純正に保とうとする立場から考える場合に、聖書が御霊によって満たされていることはどのように理解できるでしょうか?

5)「歴史的な聖書理解」という用語はどのような意味で使われているでしょうか? 複数の意味を挙げてください。

6)律法と福音にはどのような違いがありますか?

7)イエス様や使徒たちが旧約聖書を読んで理解していくやりかたの特徴を幾つか挙げてください。

1)「聖書についての4つの理解の仕方」であげた聖書理解が互いにどう異なっているか、その違いを特徴付けてみてください。
  A) 1番目と2~4番目の間の違い
  B) 2番目と3~4番目の間の違い
  C) 3番目と4番目の違い

2)次に挙げる聖書の箇所から「律法と福音」について例を挙げてください。
  「ローマの信徒への手紙」8章31~34節
  「ローマの信徒への手紙」12章9~12節
  「マタイによる福音書」5章1~16節
  「ヨハネによる福音書」15章1~10節

3)「ルカによる福音書」24章25~32、44~48節および「ヨハネによる福音書」5章37~47節を読んでください。その際、イエス様は旧約聖書が御自身について証していることについてどのように言っておられるか、注目してください。
旧約聖書の諸書はイエス様について何を証し何を語っているのでしょうか?
また、どのようなことがイエス様の上に起きることになっていると書かれていますか?

4)聖書を普通の百科事典のように読むことはできません。それがはっきりわかるのはたとえば詩で書かれている聖書の箇所です。そういった箇所はおそらく文字通りに読まれることを意図して書かれてはいません。たとえば次の箇所を読んでみてください。
  「ヨブ記」26章6~14節、38章4~13節
  「詩篇」114篇。
詩的な表現についてメモを取ってみてください。
詩的な表現を含んだ聖書の箇所はどのような信仰のメッセージを含んでいますか?

5)イエス様が旧約聖書を引用なさっている新約聖書の箇所を探してください。
それから「マタイによる福音書」21章42節を文脈に沿って読んでください。
イエス様が引用しておられる箇所を旧約聖書から探して、その箇所も文脈に沿って読んでみてください。
「ルカによる福音書」4章21節を読み、マタイの箇所と同じことを試みてください。
これらの旧約聖書の箇所について次に列挙する主張の中で正しいと思われるものはどれでしょうか?
  A)文脈から判断してイエス様が引用されている箇所はメシアについて語っている。
  B) 旧約聖書の元々の文脈はメシアについて語っているものではないが、そこで使われている言葉はイエス様に当てはまっている。
それでは質問に答えてみてください。
次の二つのうちどちらがイエス様にとってより大切だったのでしょうか?
  1)元々の意味内容
  2)イエス様と結びついて読まれるときに御言葉がもつ意味内容
また、イエス様が聖書を読まれるやりかたについて皆で話し合ってみてください。