聖書とは

2.1. キリスト教の信仰にとって聖書はどのような意味をもっていますか?

神様は御自身を啓示なさいました

 神様について何かを知ることができるのでしょうか?この疑問に対してキリスト教の信仰は「神様は自然や人間の良心だけではなく、特別な仕方で世界の歴史の歩みに関与することを通しても、御自身について知らせてくださった」と答えます。「もしも本当に神が存在していて私たちの存在に何らかの大切な意味を付与しているのなら、神は何らかの方法で人間と連絡を取るだろう」と考えるのは自然ではないでしょうか。キリスト教によれば、まさしくこの通りのことが起こったのです。神様は様々な出来事を通してこの世界の歴史に働きかけてこられました。私たちはこれらの出来事のことを「救いの歴史」と名づけています。この救いの歴史において神様はイスラエルを選んで御自分の預言者たちによって訓育し、御自分の律法と約束にあずかるものとなさいました。こうしてすっかり用意が整えられた時に、神様はその御子をこの世に遣わされました。そして、御子は私たちのために死なれ、それから復活なさいました。さらに、御子は父なる神様と一緒に聖霊様を遣わして御自分の教会を創設なさいました。

 今述べた事柄について聖書は語っています。それゆえに、聖書の御言葉はキリスト教の信仰の土台としての意味をもっているのです。「神様は聖書を通して御自分について語り、あらゆる時代のすべての民のために用意なさった救いについて教えるために私たちに聖書を賜った」というのがキリスト教に基づく確信です。神様は聖書の中に、他からは決して得られない私たち人間と神様との関係を正常化するために必要な知識を盛り込みました。

 キリスト信仰者の経験と確信によれば、神様は御言葉(すなわち聖書とそれを解き明かす説教)を通して、他のどのような方法でも不可能である特別なやりかたによって私たちと出会われます。御言葉を通して私たちは神様の本質と計画、神様から人間へと開かれた道、また人間から神様へと開かれた道について知ることができます。自然や人間の良心が伝える啓示(一般的啓示)は神様とその御計画についてこれほど深く私たちに教えてはくれません。神様は御自分について知らせるために自然や良心における一般的啓示で十分だとは思われなかったのです。人がいわば自然の中で礼拝する時に、神様の力と偉大さを何らかの形で体験することはたしかにありえます。神様が聖なるお方であることを自己の良心を通して強く実感する場合もあるでしょう。しかし、それによっては神様の真の本質を知るようにはなれません。その本質とは「神様の愛」です。この愛こそが私たち罪人のすべての罪を赦して私たちが神様と共に活きられるようにしたのです。      

2.2. 聖書は神様の御言葉です

神様は私たちに聖書の御言葉を通して語られます

 キリスト教会はいつの時代でも、聖書が特別な書物であるという確信を「聖書は神様の御言葉である」という教えによって表現してきました。聖書は私たち人間に与えられた神様の御言葉です。聖書には神様についての信仰者の思いや考えを表現している箇所もあります。しかし、聖書はその全体が神様からのメッセージなのです。そして、このメッセージは神様が望まれる通りの形で聖書に書き記されています。

 聖書が神様の御言葉であることを私たちはどのようにして知ることができるのでしょうか。前章では、人は信仰に結びつく経験を通して活ける神様の実在に確信を抱く場合があることを学びました。それと同様に、御言葉の中で神様が語っていることは客観的に証明できることではなく、人が信仰に結びつく経験を通して確信するべき事柄なのです。人は御言葉を聴いて心から受け入れる時、自分が神様と接していることに気がつきます。そして、聖書の中で語りかけているのは神様であることを確信するにいたるのです。「神様は私たちにまぎれもなく御言葉を通して語りかけてくる。神様と接したいなら、私たちは神様を御言葉から探さなければならない」と宗教改革者マルティン・ルターは特に力を込めて強調しました。

 しかし、誰もがこのような体験をするわけではありません。私たちがもつ神様とのかかわりはいつも個人的なものであり、私たちがそれに対してどのような態度を取るかによっても変化します。人は様々な理由から御言葉の中にある神様の力を拒絶してしまう場合があります。神様に関わる問題を知的な証明によって斥ける人もいますし、神様の御言葉の正しさを認めてしまうときに帰結する考えかたや生きかたが気にいらないと感じる人もいます。このことに関連してイエス様は新約聖書で次のように言っておられます。「この方の(すなわち私を遣わした方の)御心を行おうとする人は誰でも、この教えが神様からのものか、それとも私は自分のことを話しているのか、そのどちらであるかがわかるでしょう」(「ヨハネによる福音書」7章17節)。私たちは神様の御言葉に心を開いてその働きかけを受け入れる時に、御言葉が神様から発していることを確信させる力に出会います。また、私たちが御言葉に心を閉ざす場合にもその力の発現を見ることができます。その場合にそれは、御言葉を拒む者がいっそう頑迷になって御言葉を受け入れるのがさらに難しくなっていくという形で現れます。旧約聖書で言われているように、人々に宣べ伝えられた御言葉はその目的を果たさずにむなしく神様の御許に戻っていくことがないのです(「イザヤ書」55章11節)。信仰か反抗か、救いか拒絶か、恵みか裁きか、そのどちらかの結果を御言葉はもたらします。そして、私たちが神様の御言葉に接している時には、いつもこれらのことが起きているのです。  

聖書のもっている意味は次の3つの内容に集約できます。

1)御言葉は神様が何をなさったか語ります

 神様の救いの御計画がどのような段階を経て実現してきたのか、聖書は語っています。私たちは神様がイスラエルに行われた御業について聴くことができるし、主イエス様について学び知ることができます。また、新約聖書の「使徒言行録」や数々の手紙などに収められた使徒たち(すなわちイエス様が選んだ特別な弟子たち)の証言を通して、イエス様の御業はどのような意味をもっているか、という解き明かしを聴くこともできます。

2)御言葉は私たちに語りかけています

 聖書にはたとえば歴史的な出来事、中近東の詩、ユダヤの古い箴言、また苦しむ人間の抱く悲嘆や疑念などが綴られていますが、それがすべてではありません。たしかに聖書は過去に起きた大切な出来事や思想について語っています。しかし、それと同時に神様は聖書を通して私たちに何かを告げたいのです。聖書は私たち自身について語っている書物でもあるからです。

3)御言葉は私たちの心の中で働きかけています

 神様自身の口から発せられた御言葉である聖書には私たちに信仰を与える力があります。また、聖書は私たちの罪を自覚させ悔い改めさせる心を私たちにうちに起こすことができます。私たち自身や神様について今まで知らなかったかあるいは知っていてもただ空ろに響いていた言葉の真実を私たちがしっかり見つめて理解できるようにする力を聖書はもっています。  

2.3. 恵みの手段

「恵みの手段」とは?

 キリスト教の理解によれば、聖書の御言葉とは、それを通して神様が私たちの時代にもやって来て私たちの間や内で働かれる際に用いられる「手段」です。聖書はサクラメント(すなわち洗礼と聖餐という「聖礼典」のこと)と並んで「恵みの手段」(ラテン語でmedia gratiae(複数形)と呼びます)を構成しています。聖書はこの世界にある目に見える物ですが、それはまた神様の力と神様御自身を内包しています。この特性のゆえに、聖書は私たちに神様の恵みを具体的に伝達できるのです。

 恵みの手段にはふたつの面があります。ひとつは誰もが見たり聞いたりできるもの(聖餐のパンとぶどう酒、洗礼の水、聖書の文字、福音を読む声など)であり、もうひとつは信仰を通してのみ見出されるものです。私たちは恵みの手段を通して、この世では他に類を見ないやりかたで神様と接することになります。この意味で、恵みの手段はイエス様に比べることもできます。当時イエス様の周囲にいた人は誰でもイエス様を直接見ることができました。イエス様には他の人間と等しい体があったからです。にもかかわらず、イエス様を目にした誰もが皆イエス様を信じたのではありません。イエス様のメッセージに心を開きそれを受け入れた人だけがイエス様が神様の御子であるという真理を見出したのです。