聖書の中心

2.6. 聖書は一貫した書物でしょうか?

聖書の中心はキリストです

 私たちは使徒たちや伝統的なルター派の教えから受け継いだ聖書理解に基づいて、ふたつの大切なことを結論できます。聖書は神様が望まれた通りに今ある形になったのだから、たしかに内容的には多様でそれぞれ異なる時代に生み出され異なる事柄を扱っている書物を内包しているが、全体的には一貫した書物である、というのが一番目の結論です。すべては唯一の中心であるイエス・キリストの周りに集中します。キリストが中心に位置するので、聖書には中心から見て近いところと遠いところがあります。肖像画と比較して考えてみましょう。肖像画では描かれている人物、なかでもその顔立ちが最も重要な中心をなしていますが、人物の背景も全体の雰囲気に影響を与えるように描かれています。そして、肖像画を正しく鑑賞するためには絵のすべての要素を大きな全体に結び付けて把握することが大切になります。

 このたとえをもとに第二の結論を導くことができるでしょう。様々な突飛な思いつきを無理に正当化するために聖書の箇所を本来の文脈から切り離して引用することは許されることではなく、むしろ、すべては全体と照合して理解しなければならない、ということです。いわゆる「根本主義」(Fundamentalism)は聖書のすべての箇所を一律に扱い、聖書の中心的内容への理解を欠いたまま、全体から切り離された特定の聖書の箇所に依拠して議論を進める、と非難されることがあります。この批判があてはまるキリスト教の教派が存在しているのはたしかです。しかし、伝統的なルター派の考えかたはそれとはまったく異なります。なぜなら、聖書のすべての部分はキリストと結びついており、それゆえキリストに基づいて理解されるべきである、という基本的な視点がルター派の教義では常に明瞭に意識されてきたからです。それゆえ、ルター派は、たとえば旧約聖書のモーセの律法の第二戒に記された、刻んだ像をつくることを禁じる箇所を教理問答書に取り入れませんでした。それに対して、改革派はこの戒めの部分をあたかもそれがキリスト以後の時代にも有効であるかのように、自らの教理問答書に保存しています。

 歴史的な聖書理解を擁護する人々は、キリストについてのメッセージが聖書の中心であり正しい解釈の基準であることをしばしば強調してきました。この点で、こうした考えかたは「聖書は神様が望まれた通りに今の形になった」という聖書理解にかなり近づいています。しかしその一方では、そうした歴史的な聖書理解に依拠しつつ「聖書には一貫したメッセージなどなく、救い自体に関しても矛盾に満ちた雑多な視点が混在している」などと主張される場合もあります。このような面をみると、歴史的な聖書理解と、使徒たちの教えや正統的なルター派の教えから受け継がれてきた聖書理解との間には、やはり決定的な差異があることがわかります。

2.7. 神様の御言葉は私に語りかけています

聖書の御言葉を信じることに関して経験にはどのような意味がありますか?

 人の聖書に対する態度を決定づける主な要因はその人自身の「経験」であることが多いでしょう。人が聖書の権威を信じるのはそれを実際に体験したからです。その人は神様の律法に出会い、たとえそれがその人自身を裁くようなものであったとしても、それを避けて通ることができないことがわかったのです。律法の要求内容がたとえどれほど実行不可能なものに思えたとしても、彼らはその正しさを認めて受け入れました。もしもそうしなかったのであれば、自分たちが律法の示している正しい行いを真理として受け入れることができなかったであろうことを、彼らは知っています。敵をも愛さなければならないことを彼らは認めます。以前には気にも留めていなかった周囲の隣人たちについても自分にはある種の責任をとらなければならない、と彼らは感じています。実際に行動して助けをさしのべなければならないときに退いて事態を平穏にやり過ごそうとするのは間違った態度であることを彼らはわかっています。このように考えるようになった彼らは福音を新しいやりかたで聴くことを学んだのだといえます。その一方で、人は、すべてにまして神様を愛したり隣人を自分自身のように愛したりすることが自分でどんなに努力してもできないと経験からわかったものの、そのような至らない自分の罪が赦されていることを信じたくてもなかなかそうできないでいることがしばしばあります。しかしこのような場合でも、キリスト信仰者は御言葉の権能の前に平伏して、キリストのゆえにいただける罪の赦しの約束を信じます。そして、たとえ良心の呵責に悩まされていようとも、また罪の赦しを実感できなかろうとも、この約束の有効性はまったく揺るぐことがありません。

 これらのことを人は聖書を学ぶときや日常の中で心に響いてくる聖書の箇所に出会ったときに経験するものです。私たちの経験によれば、神様はこうした目的のために聖書のあらゆる箇所をそれぞれの人のために活用なさるし、その人の抱えている問題とは関係なさそうに見える意外な御言葉に深い意味を与えてその人のこれからの人生に影響を及ぼすことができるのです。

2.8. 律法と福音

 聖書の御言葉は内容的に律法と福音に分かれます。御言葉は人に語りかける神様のメッセージなので、皆がそれに真剣に聴き入るべきです。御言葉は自分とは関わりのない他の人に起きた瑣末な出来事の説明ではないからです。

律法とは何でしょうか?

 神様は私たちに聖なる御意思を律法の中に啓示してくださいました。神様の律法は真理、義、思いや言葉や行いにおける清さを私たち人間から要求しています。律法は、神様が人から何を期待しているか、また私たちはどうあるべきか、を教えています。

福音とは何でしょうか?

 律法に対して福音は、神様は私たちに何を贈ってくださったか、また私たちが救われるために何をしてくださったか、を語っています。

 律法と福音とは常に私たちに個人的に関わってくる事柄です。ですから、それらを自分には関係のないものとみなして客観的に研究しても意味がありません。

 ですから、聖書の啓示を中世の歴史や蝶の研究書などを読むのと同じようなやりかたで受け入れたりその叙述内容を把握したりすることはできません。たしかに聖書とそのメッセージに関する適切な説明や用語を読んだり用いたりすることで形式的には聖書をめぐる正しい知識を得ることができるでしょう。しかしそうしてみたところで、人はまだ聖書の啓示に個人的に出会うことにはならないし、神様を正しく知るようにもなりません。これらのことが実現するためには「たんなる知識以上のもの」すなわち聖霊様が私たちの心に灯される照明が必要だからです。律法と福音を通して私たちの内や間で働いて私たちを裁き憐れみ聖となさる神様と私たちが出会うことができるのはこの照明のおかげなのです。そのときになってようやく人は「聖書の啓示」の意味がわかるようになります。