キリスト教の復活信仰と日本的霊性の違いについて

この項目は、SLEY宣教師・吉村博明(神学博士)が2018年11月2日に日本福音ルーテル名古屋希望教会にて行った講演「復活信仰と日本的霊性の挑戦」を掲載したものです。

1.本講演の目的

本講演では、復活を眠りからの目覚めと捉えたルターの教えに焦点をあてて、復活をそのように捉えた場合、どのような死生観が生じるかを考える。従って本講演は、復活信仰を歴史学的聖書研究(釈義学)の観点で扱うものではない(注)。

(注)ここで、歴史学的聖書研究の観点で「復活」を扱うとどういうことになるかということについて一言述べておく。歴史学的聖書研究では復活信仰がはっきり現れるのはダニエル書12章1-3節と見なされる。もしそうだとすると、復活信仰は終末論的アポカリュプティズム(啓示思想/黙示思想)の思潮と関連づけられることになり、それは第二神殿期のユダヤ教社会の対内的・対外的危機に対する危機打開の思想として考えることができる。新約聖書から明らかなように、復活信仰はキリスト教に受け継がれた。それは、イエス・キリストの死からの復活という事件があったからである。キリスト教に受け継がれることで復活信仰は、第二神殿期ユダヤ教社会の文脈を超えた普遍的な意味を持つことになる。
 そのように見ると、歴史学的聖書研究の課題として復活信仰を論じようとすると、まずプロローグとして、第二神殿期以前のユダヤ教の伝統の中で復活信仰の萌芽や形成をみること、次に第二神殿期でそれがどのように成立し展開したかを見ること、そして、キリスト教がそれをどのように受け継いだか、その際イエス・キリストの出来事はどのような役割を果たしているかを見ること、以上が考えられる。最後にエピローグとして、キリスト教の復活信仰はどのような展開を遂げたか、特に西方・東方、カトリック・プロテスタントと分裂していくなかでどのような展開を遂げていくかを見ることも考えられる。ただし、これは歴史学的聖書研究の分野ではなく教義学の分野になろう。

なぜルターの教えに着目して復活信仰を論じるのかと言うと、それが死者の霊を崇拝対象とする日本的霊性と際立つコントラストを示すからである。ルターの復活観が日本的霊性を明るみに出すと言える。同時に、明らかにされた日本的霊性が復活信仰にどんな挑戦を突き付けているかも見えてこよう。挑戦を突き付けられたキリスト信仰者は自分の死生観を明確にすることを迫られる。

 従って本講演は、ルターの復活観に立つ場合、日本にいるキリスト信仰者はどのような死生観を持つのが妥当なのかを探る試みになる。そのような観点で復活信仰を扱うので、歴史学的聖書研究の観点では重要となる事柄、例えば第一コリント15章の分析、「霊」とか「魂」と言った言葉の明確化は特になくても問題ないと思われる。もちろん、復活信仰についての議論は歴史学的聖書研究、教義学、宗教倫理の見識が求められる、とても広い大きいテーマである。一回きりの講演で取り扱い切れるものではない。そのため本講演は全く序論的な議論の域を脱しないものである。

2. 復活を眠りからの目覚めと捉えたルターの教え

(1)マタイ9章24節のイエス様の言葉(「娘は死んではいない。寝ているだけだ。」)についてのルターの解き明し(教会標準説教集III三位一体主日後第24主日の福音書による説教から、フィンランド語訳からの和訳)

「我々は、我々の死というものを正しく理解しなければならない。不信心者が恐れるように、それを恐れてはならない。キリストとしっかり結びついている者にとっては、死とは、全てを滅ぼしつくすような死ではなく、素晴らしくて優しい、そして短い睡眠なのである。その時、我々は休憩用の寝台に横たわって一時休むだけで、別れを告げた世にあったあらゆる苦しみや罪からも、また全てを滅ぼしつくす死からも完全に解放されているのである。そして、神が我々を目覚めさせる時が来る。その時、神は、我々を愛する子として永遠の栄光と喜びの中に招き入れて下さるのである。

 死が一時の睡眠である以上、我々は、そのまま眠りっぱなしでは終わらないと知っている。我々は、もう一度眠りから目覚めて生き始めるのである。眠っていた時間というものも、我々からみて、あれ、ちょっと前に眠りこけてしまったな、としか思えない位に短くしか感じられないであろう。この世から死ぬという時に、なぜこんなに素晴らしいひと眠りを怯えて怖がっていたのかと、きっと恥じ入るであろう。我々は、瞬きした一瞬に、完全に健康な者として、元気に溢れた者として、そして清められて栄光に輝く体をもって、墓から飛び出し、天上の雲にいます我々の主、救い主に迎えられるのである。

我々は、喜んで、そして安心して、我々の救い主、贖い主に我々の魂、体、命の全てを委ねよう。主は御自分の言葉に忠実な方なのだ。我々は、この世で夜、床に入って眠りにつく時、命を主に委ねるではないか。我々は、主に委ねた命は失われることがなく、眠っていた間、主のもとで安全なところでよく守られ、朝に再び主の手から返していただいていたことを知っている。この世から死ぬ時も全く同じである。」

(2)ルターの教えから、日本的霊性とのコントラストを明らかにするような以下の3つのテーゼが抽出できる。

・人間は死んだら、即天国に上げられない/昇らない。天国に行くか地獄に行くかは、復活の日/最後の審判の日に決せられる。その日までは、神のみぞ知る場所にいて安らかに眠るのみ。

・この安らかな眠りは、死んだ者の観点では一瞬のことにしかすぎない。この世に残された者にとっては100年、1000年経とうが、死んだ者本人にとっては一瞬の眠りにしかすぎない。

・死んだ者は安らかに眠るだけなので、移動もせず、飲み食いの必要もなく、我々の報告も祈りも聞いていない。またあの世から我々を見守ったり面倒もみないでただ安らかに眠っているだけである。

(3)三テーゼが日本的霊性とどんなコントラストを示すかを見る前に、そもそもこの三テーゼは聖書全体からみて容認できるものか?以下の個所は反証となるか?それを見てみる。

― 死んでも眠っていない事例があるのでは?
• サウルが口寄せの女(女性降霊術師)の力を借りて死んだサムエルと対話した(サムエル記上28章4-20節)。
 → しかし、ヘブライ語原文を見ると、サムエルの霊は眠りの状態から起こされたと考えられる。「なぜお前は、私を起こそうとして(להעלות)揺さぶったのか(הרגזתני)?」(15節、新共同訳では「なぜわたしを呼び起こし、わたしを煩わすのか。」)

― 復活や最後の審判を待たずして、今の天と地がまだある段階で天の国に迎え入れられたと考えられる事例があるのでは?
• エノクは神と共に歩み、生きたまま神に取られてこの地上からいなくなった(創世記5章24節)。
 → 第二神殿期の啓示思想/黙示思想の時代の中でユダヤ人はエノクが神のもとから神の啓示を人間に伝える天使的役割を果たす者と見なした。この見方はエノク書に見られる。

• エリアはエリシャの目の前で天に上げられた(列王記下2章11節、1節)
 → イエス様と三人の弟子が「高い山」にいた時、エリアとモーセが現れた(マルコ9章2-10節等)。この二人は天のみ神のもとから山に送られたのであろうか?そうすると、モーセもエリアのように神のもとに上げられたということなのか?モーセはモアブの地で死んだので、エノクやエリアのように生きたまま神のもとに上げられていない。しかし、モーセは神に葬られ、その場所は明らかにされていない(申命記34章5-6節)。この特殊な葬られ方と高い山でエリアと共に現れたことは、モーセも神のもとに上げられた可能性があるのでは?

• イエス様が十字架の上で息を引き取った時、神殿の垂れ幕が裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、多くの聖なる者の体が復活した。そしてイエス様の復活後に墓から出て、エルサレムの町に入って多くの人の前に現われた(マタイ27章51-53節)。
 → まだ最後の審判が来る前に体の復活が起きた事例である。ラザロやヤイロの娘の生き返らせと異なり、完全に腐敗して骨だけになった者たちが新しい体を受けたからである。彼らは、人々の前に現われた後、天のみ神のもとに上げられたと考えられる。

• 貧しいラザロは死んで天使たちによってアブラハムの胸元に連れていかれ、金持ちは死んで火で焼かれる毎日を送っている(ルカ16章19-31節)。金持ちの兄弟たちはまだ地上で生活している。それゆえ、ラザロと金持ちが別々の世界に送られたことはまだ最後の審判が起きる前の出来事である。
 → この出来事は最後の審判が起きる前のこととして語られているが、この話は実は、イエス様が人々に教訓を教えるために作った創作話であることに注意すべき。歴史的に現実に起きる出来事ではない。キリスト信仰にあっては復活や最後の審判は歴史の終わる時に現実に起きることである。創作話では教訓を教えることが第一の目的となるので、歴史的か現実的かは二の次になると考えられる。

(4)以上から、聖書には、復活や最後の審判が起きる前に生きたまま天のみ神のもとに上げられる事例(エノク、エリア)や体の復活が起きる事例(マタイ福音書の「聖なる者たち」、モーセ?)がある。それゆえ、天のみ神のもとには復活の日を待たずして一足先に上げられた「聖人」がいると考えることが出来る。ルターは聖人の存在を認めたが、ただしカトリックとは異なりそれらは祈りや崇拝の対象ではない。

 いずれにしても、復活の日を待たずして、天のみ神の御許に迎え入れらた者がいることは聖書から認めることが出来る。しかし、復活信仰がある限り、復活の日に目覚めさせられるまで眠りにつくことが原則で、聖人というのは神に特別に認められた者が一足早く御許に迎えられた例外的ケースと考えるべきであろう。

 イエス様がヤイロの娘とラザロに生き返りの奇跡を行った時(マタイ9章18-26節等、ヨハネ11章)、それらの者は「眠っているだけだ」と言って生き返らせた。この言葉からイエス様がこの奇跡を行ったのは、(ア)死は復活までの眠りにすぎないということと、(イ)死の眠りから目覚めさせる力はまさに自分が持っていることをわからせるためだったということが明らかである。イエス様自らが、復活は眠りからの目覚めである、と奇跡の業を持って教えているのである。その意味でも、原則は復活の日の目覚めで、聖人は神に特別に認められた例外と言うことが出来る。

3.死者の霊を崇拝する日本的霊性について

(1)それでは、ルターの教えからコントラストが明らかになる日本的霊性とは何か?

 キリスト信仰では、人間の五感や理性で認識・把握できるこの現実世界とは別の世界(天)にいる主なる神が、この現実世界とその中にあるものを造られた。そして造られた後は、自分の世界に引き籠ることなく、この世界にいろいろ介入し、働きかけてきた。その中で最も重要なものは、御子イエス・キリストを御許からこの現実世界に送り、十字架の上で死なせ、三日後に死から復活させたことである。

 キリスト信仰者は、この神に対して祈り、感謝や賛美を捧げ、打ち明けたり助けを求める。また、聖書を通してその声を聞こうとする。このように信仰者と主なる神との間にはコミュニケーションの関係がある。

(2)日本的霊性では、この現実世界とは別の世界に存在するものとコミュニケーションする筆頭のものは、死者の霊であることは間違いないであろう。死者の霊とのコミュニケーションの例は、個人や家族の日常生活や広く社会の領域でもみられる。以下はその具体例である。

― 日本では家族の中で嬉しいことがあると、仏壇の前や墓の前で報告するということがよくある。例えば、若いカップルが婚約すると、二人でお墓の前で報告するとか、受験生が合格すると仏壇の前で報告するとか、さもそこには喜んで聞いてくれる者がいるかのようにそうするのである。このような「報告」は、報告する相手が近い肉親であればあるほど(例えば、亡くなったのが父親とか母親の場合)、起こる可能性が高くなる。また、本人が行わない場合は、親ないし祖父母がかわりに行う可能性が高くなる。やらなかった本人も親や祖父母になればやる可能性が高くなる。

― 安倍首相は、2013年12月の靖国神社参拝の後の記者会見、英霊に自分の政権が1年間に達成したことを報告した、と述べた。さもそこに報告を聞いてくれる者たちがいるかのように。

― あるキリスト信仰者は、亡くなった仏教徒の父親の葬儀の際、焼香や仏壇の供養を辞退したところ、激怒した肉親から仏壇を指さされて、「お前は父さんが悲しんでいるのがわからないのか!」と言われた。さも、そこで亡くなった父親が悲しんでたたずんでいるかのように。

― 殺人事件の裁判で、死刑判決がでないと犠牲者の遺族は「こんな判決はお墓に/仏壇に報告できない!」と言うことは、ニュースで見られることである。

― 政治学者・京極純一が「日本の政治」(1983)の中で指摘していることで、日中戦争が泥沼化した時、アメリカは日本に中国からの撤兵を要求、日本政府内で要求に従うべきかどうかが議論された。その時、軍部は「撤兵などしては英霊に申し訳が立たない!」と言って、誰も反論できないようにした。もし撤兵を拒否したことで日米開戦に至ってしまったとしたら、戦死者の霊を満足させるための代価はとても高くついてしまったことになる。

― お寺の住職が葬儀や法事の説法でよく言うこととして、「仏様が私たちを見守っていて下さるのです。」「今こうして健康でいられるのも、仏様/ご先祖様の霊のおかげなのです。」

― 「させていただきます」という言い方がある。「させていただく」症候群があると言われるくらい、よく耳にする言い方である。一体だれに許可を求める言い方なのか?丸谷才一は、それが阿弥陀如来のおかげでこの世での営みができることを確認するという、他力本願の信仰に由来する言い方であることを指摘している(「桜もさよならも日本語」1986年)。上記のお寺の住職のロジックだと死んだ者の霊も「させていただく」際の「おかげ」の元になる資格があることになる。

― ”Ghosts of the Tsunami” (2017)の中でR.L.Parryは、日本人に宗教を持っているかと聞くと大抵は否定的な答えが返ってくる、しかしそれは、組織化された宗教との関係で言っているだけであって、実際には普通の日本人は死者の霊とのコミュニケーションを持って生きていると指摘している。京極純一も、日本の私的・公的生活で鎮魂慰撫の影響がみられ、日本人の行動様式の無視できない要因となっていることを観察している。

(3)日本的霊性では、死者の霊とのコミュニケーションは身近なものであり、死者の霊がこの現実世界にいる者たちを見守り面倒を見るという見方になる。キリスト信仰においては、現実の世界とは別の世界にいてコミュニケーションができ、我々を見守り面倒をみるものは、天の主なる神、父・御子・御霊の神、聖書が証する神以外にはありえない。(ただし、聖人も崇拝対象となるカトリックは違うかもしれない。)加えて、眠りから目覚めるという復活信仰があるので、死者は眠りにつくだけとなり、その霊が見守ったり面倒を見てくれるということも、コミュニケーションの相手になるということもなくなる。なぜ神は、死者の霊や霊媒と関りを持つことを禁じているかが理解できよう(レビ記19章31節、申命記18章11節、サムエル記上28章、列王記上21章6節、イザヤ8章19節)。それは、神が霊的なコミュニケーションは自分の他にあってはならないという立場だからだ。眠っている者を起こして、神を差し置いて、本当は神に聞くべきことお願いすべきことを聞いたりお願いしてはいけないということである(注)。

(注)コミュニケーションを取ってはいけない相手は、新共同訳では「霊媒」「口寄せ」となっている。ヘブライ語の単語は אוב と ידעני で、それぞれの意味は「死者の預言をする霊」、「死者の霊/その霊に取りつかれる者(つまり霊媒)」で、そうするとコミュニケーションを取ってはいけない相手は霊媒だけでなく死者の霊も視野に入ってくる。新共同訳の「霊媒」、「口寄せ」は同じものである。新共同訳は、死者の霊をコミュニケーション禁止の対象から除外しているというのは勘繰りすぎだろうか?

 もう一つ、イザヤ書8章19節の日本語訳は意味が通じる訳かどうか見てみよう。ヘブライ語原文は少々やっかいである。

 新共同訳「人々は必ずあなたたちに言う。『ささやきつぶやく口寄せや、霊媒に伺いを立てよ。民は、命ある者のために、死者によって、自分の神に伺いを立てるべきではないか』と。」

 英語(NIV)、スウェーデン語、フィンランド語の訳では、人々が「あなたたち」に言うことは「霊媒に伺いを立てよ」で終わっている。つまり、「民は、命ある者のために」で始まる文は話す主体が「人々」でなくなって、神が民に向ける言葉になっている。私もその分け方が正しいと思う。なぜなら、「霊媒に伺いを立てよ」という文は、人々が民に「お前たちはそうせよ」と命令しているのであるが、次の「民は、命ある者のために」で始まる文は主語が二人称「お前たち」ではなくなって三人称「民」になっているからだ。

 そこで、この「民は、命ある者のために」で始まる文が問題である。新共同訳では一つの文として訳されているが、はっきり言って受験の英文解釈のような訳である。英語、スウェーデン語、フィンランド語訳では二つの文に分けられている。スウェーデン語訳は、民族というものは自分の「神々」(複数形)や死者にお伺いを立ててしまうものだ、と神が突き放して言う意味で訳している。英語とフィンランド語は逆で、民は自分の神(単数形)に伺いを立てるべきではないか?命あるもののために死者に伺いを立てるべきではないのではないか?、と民を叱咤する意味に訳している。

 さらにドイツ語訳(ルター訳1912年版)を見ると、人々が民に言うことは新共同訳と同じく「ささやきつぶや口寄せ」の文と「民は、命ある者のために」の文の両方である。しかし、後半の文は英語、フィンランド語と同じく民を叱咤する意味で訳していて、それを言うのが口寄せと霊媒になっている!聖書の訳にはこういうことが起こるのである。

一体どう訳したらいいのだろう?私としては、前述したようにまず英語、フィンランド語、スウェーデン語訳のように前半と後半を分ける。そして、後半部分のヘブライ語原文は素直に訳そうとすれば、「民は神(単数形で訳す)の方を向いて助言を求めないのか(הלוא-עם אל-אלהיו ידרש)?生きている者のことでは死者の方を向いてしまうのか(בעד החיים אל-המתים)?」になるのではないかと思う。つまり、だらしないぞ、しっかりしろ、と叱咤になり、英語とフィンランド語の訳のようになるわけである。

天地創造の神を知らないところでは、祈りの対象、コミュニケーションの相手は死者の霊が身近なものとなり、日本ではそれが顕著に現れていると言うことが出来る。神の果たすべき機能を死者の霊が担っているのである。

4.復活信仰に対する日本的霊性の挑戦

(1)復活信仰では死者との向き合い方は、死者は眠っていてコミュニケーションの相手ではなくなるため、死者の今の状態は関心事でなくなる。何が関心事になるかと言うと、思い出の尊重という過去に関わることと、復活の希望という未来に関わることが関心事となるのでないか?

― 安倍首相は2015年4月30日アメリカ議会において「希望の同盟へ」という演説を行った。その中で第二次大戦中のアメリカの戦争犠牲者を覚える下りで「先の戦争に斃れた米国の人々の魂に、深い一礼を捧げます。とこしえの、哀悼を捧げます」(I offer with porfound respect my eternal condolences to the souls of all American people that were lost during World War II、日本語訳は日本政府のもの)。同じ演説の中で、硫黄島の戦いに従軍した元米軍将校が日米合同の記念式典に参加した時の発言が引用されている。「(記念式典に参加した目的は)双方の戦死者を追悼し、栄誉をたたえることだ」(to pay tribute to and honor those who lost their lives on both sides)。安倍首相が敬意を表するのは「魂」という死者の現在の有り様であり、元米国将校は「命を落とした人々」という過去の有り様である。それから記念式典も日本語訳では「慰霊祭」と言うが、英語ではmemorial servicesという過去の追憶に関わることである。日本側の観点は、死んだ者は今、魂とか霊とか呼ばれる存在としてあり、それに対して慰める(慰霊)とか鎮める(鎮魂)するという、今存在するものと関わるということである。

復活信仰にあっては、死んだ者は眠っていてコミュニケーションが取れない状態にある。それで、祈りや感謝を捧げたり、思いを打ち明けたり、人生の出来事を報告する相手は天の父なるみ神しかいなくなる。そのように神とのコミュニケーションを取る復活信仰者が死んだ者に対して取り得る態度、取るべき態度としてどのようなものが考えられるであろうか?まず、亡くなった方と共に過ごせた日々を忘れず、その思い出をかけがえのないものとして大切にして、そのような方とそのような日々を与えて下さったことを神に感謝すること。この感謝する態度は過去に結び付くものである。加えて、その方と復活の日に再会できるという希望を持ち、神がその希望をかなえてくれるように祈ること。これは未来に結び付く態度である。そこで現在に関してはどんな態度になるかというと、それは、過去に結び付く感謝と未来に結び付く希望を携えて今を生きるということに向かっていくのではないかと思われる。

このような死んだ者とのコミュニケーションがない復活信仰を、日本的霊性を持つ者はどう思うだろうか?復活信仰は死者に対する愛や敬意がないとか、ひどい場合には死者を冒涜すると思うかもしれない。しかし、復活信仰者は、亡くなった方が大切だったから思い出を大切にするのであり、復活の再会の希望を持つのである。ここには死者に対する不敬や冒涜などはない。逆に、死んだ者の霊を慰めるとか魂を鎮めるというのは、京極純一も指摘したように、もし怠れば霊の機嫌を損ねて祟られるという恐れと一体になっている。キリスト信仰にあっては、祟りとか恐れなどは全く無縁なことになるので、死者の霊を引き合いに出して言うことを聞かせようとか、信じさせようとするやり方は意味を持たない。亡くなった方はルターが言うように、痛みや苦しみから解放されて安らかに眠っているのでそっとしてあげてよいのである(注)。

(注)もし死んだ者がコミュニケーションを求めてきたらどうするか?いわゆる幽霊現象ということであるが、コミュニケーションを求めてくるものが本当にその者なのかどうかアイデンティティーの確認は困難である。キリスト信仰者がそのようなものに遭遇したら、すぐルターの教えと聖書にある神の意志を思い出して、そのような求めには応じずに一心に「主の祈り」を祈るべきである。

(2) このように復活信仰にあっては、死者への向き合い方は、過去の思い出の尊重と感謝、将来の復活の再会の希望、それらを携えて今を生きることになる。ここで日本のキリスト信仰者にとって一つ気がかりになってくるのは、もし再会を希望する相手がキリスト信仰者でなかった場合は希望はかなえられるのか、ということだ。イエス様はヨハネ3章18節で「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」と言い、マルコ16章16節で「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」と言われいる。キリスト信仰者にならなかったあの方は、復活の日に神の御許に迎え入れられず、再会は望めないのか?

 この問題については次のように考えたらどうだろう?あなたがキリスト信仰者で復活の再会を希望する相手がそうでなかった場合、あなたはその方にイエス様のことを言葉をもってか行いを通してか伝えたはずである。伝えたにもかかわらず、洗礼に至らなかったわけだが、それでも、その方がこの世を去る時、未知の大いなるものに自分を委ねるという時、イエス様こんな私を受け取って下さい、とイエス様に委ねることをすれば、それは彼を唯一の救い主と信じる信仰を言い表すことになる。洗礼には間に合わなかったが、それはルカ23章43節の事例と同じと考えてよいのではないか?そこでは、イエス様が十字架につけられた時、隣の十字架で犯罪人が彼を救い主と告白し、天の御国に入れると約束された。

 そこで、その方がこの世を去る直前にそのような告白をしたかどうか、それはもう父なるみ神しか知らない。私たちはそのようにあってほしいと願うのみである。ひょっとしたら、私たちがあずかり知らない、そのような告白があったかもしれない。あるいは、その方は残念なことにイエス様という自分を委ねてよい方がいることを知らずに逝ってしまったのかもしれない。もしその方がそれを知らずに逝ってしまったのなら、もう再会は望めないのか?

(3)この問題は、もし人がイエス様の十字架や復活のことを何も知らされないで死んでしまったら、その人の救いはどうなるのか、という問題に結びつく。そのような人たちは歴史上無数にいたし、今も世界中に沢山いる。そのような人たちは信じるも何も、ただ単にイエス様のことを宣べ伝えられなかっただけだ。伝えられなかったのに、お前はキリストを信じなかったから裁かれる、などと言われては、キリスト教はなんと血も涙もない宗教だと言われてしまうだろう。この問題を考える時、死者にも福音が宣べ伝えられたという第一ペトロ3章18-22節と4章5-6節を考えてみるとよい。

3章18-22節では、十字架の死を遂げたイエス様が囚われた状態にある霊のところに行って、福音を宣べ伝えたことが言われている。福音が伝えられたというのは、イエス様の十字架の贖いの業のおかげで全ての人間の罪は償われたということが伝えられたということである。ここで、囚われた状態にある霊とは、ノアの時代に神に逆らって箱舟に入れず、大洪水にあって滅びてしまった者たちと言われている。そうなると、イエス様が福音を宣べ伝えた霊たちというのは、ノアの時代の人たちになってしまうが、実はそうではない。箱舟に乗って助かった人たちは、洗礼を受けて救われた者に例えられている。つまり、箱舟に乗らずに滅びてしまった者たちは洗礼を受けないで救われなかった者たちに例えられているのである。

 次に4章5-6節をみてみる。
 新共同訳「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」
ギリシャ語原文からの逐語訳「彼らは、生きている者たちと死んだ者たちを裁く用意ができている方に申し開きをしなければなりません。そのために死んだ者にも福音が告げ知らされたのですが、それは、彼らが肉体を有する人間と同じように裁きを受けるためであり(κριθωσι μεν κατα ανθρωπους σαρκι)、また神と同じように霊的な者として生きるためである(ζωσι δε κατα θεον πνευματι)。」(注)

(注)参考までに英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語では次のように訳されている。前述のイザヤ8章19節ほどひどくないが、訳の違いが見られる。

  英語(NIV)「しかし、彼らは生きている者たちと死んだ者たちを裁く用意ができている方に申し開きをしなければならないでしょう。というのは、そのことが現在死んでいる者たちにさえ福音が宣べ伝えられた理由だからです。それは、彼らが人間に準じて体に対して裁きを受けるためであり、しかしながら、神に準じて霊的に生きるためなのです。」

 ドイツ語(ルター訳1984年版)「しかし、彼らは生きている者たちと死んだ者たちを裁く用意ができている方に申し開きをしなければならなくなります。というのは、死んだ者たちにも福音が宣べ伝えられたのは、彼らが確かに人間と同じように体に対して裁きを受けるためであり、しかしながら、神と同じように霊的に命を持つようになるためなのです。」

 スウェーデン語「しかし、彼らは生きている者たちと死んだ者たちを裁く用意ができている方の前で申し開きをしなければならなくなります。というのは、それゆえ、現在死んでいる者たちにも福音が宣べ伝えられたのです。彼らは、たとえ人間のように体に対して裁きを受けたのであって、神のように霊的に生きるようになるためです。」

 フィンランド語訳 「しかし彼らは、生きている者と死んだ者を裁く用意ができている方に対して申し開きをしなければならなくなります。そのために死んでいる者にも福音が宣べ伝えられたのですが、それは彼らが体の有様では全ての人間と同じように裁きを受けたにもかかわらず、霊の有様では神と同じように生きるためだったのです。」

 スウェーデン語とフィンランド語訳では、死者は既に裁きを受けてしまっている。英語とドイツ語訳では、死者の裁きはまだ将来のことである。こちらがギリシャ語の原文に沿った訳であるし、死んだ者の裁きというものは使徒信条にもあるように最後の審判の日に起きるのだから、教義的にもこちらが正しいと言える。新共同訳はスウェーデン語とフィンランド語訳に近いと言える。

新共同訳だと、福音を告げ知らされずに死んだ者も皆、永遠の命に与るという誤解を招きかねない。ギリシャ語原文を見ると、死者にも福音が告げ知らされたのは二つの目的のためだとはっきり書いてある。一つは、「肉体を有する人間と同じように裁きを受けるため」(κριθωσι μεν κατα ανθρωπους σαρκι)という目的、もう一つは、「神と同じように霊的な者として生きるため」(ζωσι δε κατα θεον πνευματι)という目的だ。新共同訳では最初の目的が抜け落ちてしまっている。次に、「裁きを受ける」の意味をどう捉えるかが重要だ。「(有罪無罪を決める)審判を受ける」と解すれば、死者に福音が告げ知らされたのは「人間と同じように審判を受け、(無罪とされた者が)神と同じように生きるため」ということになる。また、「有罪判決を受ける」と解すれば、「死者のある者は人間と同じように有罪判決を受け、別の者は神と同じように生きるため」ということになる。この二つの意味を合わせてみれば、死者にも福音が告げ知らされたのは、「人間と同じように審判を受け、その結果、ある者は有罪判決を受け、別の者は霊的な者として生きるため」ということになる。

イエス様は十字架の死から復活までの間、死者が安置されている陰府に下ってそこで福音を告げ知らせた。その結果、そこでも死と罪に対する勝利が響き渡り真理として打ち立てられることとなった。死者も審判の結果次第で永遠の命に与れるようになるために福音が告げ知らされた。これは、生きている者の場合と全く同じである。つまり、福音の告げ知らせについても審判や判決についても、死んだ者は生きている者と同じ立場に置かれることになったのだ。従って、「この世で福音を告げ知らされずに死んだ者は全員、炎の海に投げ込まれる」と言うのも、「全員が天国に行ける」と言うのも同じくらい真理に反する。

ここで大きな問題が立ちはだかる。死んだ人というのはルターの言うように復活の日・最後の審判の日まで安らかな眠りについている者である。その眠っている人がどうやって福音を告げ知らされてイエス様を救い主として受け入れるか否かの態度決定ができるかということだ。福音を告げ知らせたというのは、告げ知らせる側が相手に態度決定を期待するからそうするわけだ。態度決定が生じないとわかっていれば、告げ知らせなどしないだろう。しかし、眠っている者がどうやって態度決定できるのか?ここから先は、全知全能の神の判断に委ねるしかない。生きている者が行う態度決定に相当する何かを神は眠っている者の中に見抜かれるのであろう。それは人間の理解を超えることなので我々は手を口に当てるしかない。神は最後の審判の日に生きている者と死んだ者全てについて記された書物を開き、イエス様との関係がどのようなものであるか一人一人について見ていかれる。

キリスト信仰者も信仰者でなかった者もこの世を去ると、福音が響き渡って真理として打ち立てられたところに行って眠りにつくのであり、全てを見抜かれる神は最後の審判で最終判断を下す。それ以上でもそれ以下でもない。これに対して他の宗教は言うかもしれない、自分たちは死後のことはそのようには考えない、それはキリスト教が勝手に考えていることだ、と。宗教によっては、人は死んだら至福の場に到達するまで33年間、この世にいる人たちを見守り助けながら修業の旅をすると言うかもしれない。あるいは、この世での素行が悪くて罰として動物や虫けらに輪廻転生するというものもあるかもしれない。宗教それぞれが違う考えだから、各自は自分の宗教の考えに従って、眠ったり、修行の旅をしたり、別の生き物になっているだけだ、と言う人もいるかもしれない。しかしながら、キリスト信仰は傲慢と見られるかもしれないが、修行の旅も輪廻転生もなく、どの宗教の人も死んだら皆、福音が響き渡って真理として打ち立てられたところに行って最終判断まで眠りにつく、と勝手に考えるのである。

それでは、この世を去る前にイエス様を救い主と告白しなかった方との復活の再会の可能性はどうなるだろうか?もし、私の知らないところで告白していればいいのだが、それをしていなかったのなら?今あの方は、罪と死に対する勝利が響き渡ったところで眠っている。神はあの方にどのような態度決定を認めるのだろうか?第一ペトロ4章で言われるように、再会の可能性は皆無ではない(注)。

(注)ここで第一コリント15章29節を見てみる。そこでは第一ペトロ3-4章と同じくらいに驚くべきことが言われている。それは、洗礼を受ける者が既に死んだ者も復活に与れるようにしようとして受けていたということである。

 その個所の新共同訳「そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。」

「死者のために」の「ために」と訳されてるυπερは、「誰それの利益のために」とか「誰それの代理に」という意味である。つまり、自分が洗礼を受ければ、亡くなった方も共に復活に与れるという考え方があったのである。死者の救いの可能性を含めて洗礼を受けたということである。不思議なことに使徒パウロはそれを間違っているとか、態度を明確にしていない。その理由として、パウロがこのことを言及したのは、復活を否定する者たちへの反論の材料として使ったことが考えられる。復活などないと言うのなら、あなたたちの間で死者のために洗礼を受けている人たちがいるのは何なのですか、それを否定していないあなたたちは復活があることを認めているではありませんか、と言うのである。

 パウロはこのような洗礼をどう思っていたであろうか?死者のための洗礼など全くのナンセンスと考えていたのであれば、反論材料としては相応しくないと思い控えたのではないだろうか?そうだとすれば、全くナンセンスではないという何かがあったのかもしれない。その何かとは何か、それはもうテキストの中からは見えてこないであろう。それを第二マカバイ記12章(ユダ・マカバイが死者の罪の贖いのために儀式を行っている記述)と関係があるかどうかという視点で考えるのは完全に歴史学的聖書研究の範囲になる。

 冒頭で述べたように、本講演は聖書を歴史学的聖書研究の観点で扱うものではなく、聖書を全体的にみて扱うものである。歴史学的聖書研究とは、聖書を一枚岩に見ず、内部のいろんな緊張関係にあるものを取り上げて、それぞれが異なる伝承や共同体に由来すると想定して、伝承が生まれた歴史的社会的状況を組み立てていこうとする。その際、聖書外部の文献も資料として用いる。そうして得られた結論はあくまで学術的な理論であり、いつも新説に取って代わられるべく開かれている。歴史学的聖書研究はまさに古代史の再構築という学術的営みであり、それはそれで価値のあるものである。ただし、それにはそもそも信仰を育てるとか強めるということは一義的にはなく、そのため歴史学的聖書研究と信仰は別物であることに注意しなければならない。信仰を育て強めるものは、使徒的伝統に立って聖書を出来るだけ一枚岩に見て聖書内部の観点を持とうとすることにあるだろう。

 そこで聖書内部の観点から、死者のための洗礼というコリントの慣行に対して注釈しようとすると次のようになるだろう。第一ペトロ4章の聖句から見れば、洗礼を受けずに死んだ者も(全員ではないが)復活に与れる可能性はあるので、死者の復活を願う心自体はナンセンスではない。しかしながら洗礼というものは、生きている者がする信仰告白と結びついているので、洗礼に死者の復活を結びつけるのはナンセンスの領域になるであろう。もし両方ともナンセンスであれば、パウロはコリントの慣行を反論材料にしなかったということではないだろうか?

信仰告白がなかった人との再会の可能性は皆無ではない。しかし、その可能性が実現するかどうかは完全に神の手に握られている。人間は神に指図することは出来ない。全ては神が決められ、人間は神が決めたことが自分が決めたことより良いのだとするのがキリスト信仰なのである。もう、ここから先には進めない。どうしたらよいのか?もちろん、神に希望を打ち明けることは許されている。そもそも神が唯一のコミュニケーションの相手であると言っている以上、祈ったり願い求めたり希望を打ち明ける相手は神しかいない。ここはもう、私たちの信仰が本当に神のみをコミュニケーションの相手にして他のものを断ち切ること以外にはないのではないだろうか?文字通り全てを神のみに委ねるのだ。神のみに全てを委ね神のみを相手にすることで、私たちの神への祈りが研ぎ澄まされていく。その時、実現しなかったらどうしようと不安になって神への信頼が揺らぐということはなくなるのではないだろうか?これ以上のことは言えないのではないだろうか?キリスト信仰にあってはもうそれで十分なのではないだろうか?(了)