「日常生活」という仕事 日々の礼拝

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

16年間

人生の問題に悩んでいたある若者が1505年7月2日に雷雨にあいました。彼はそこに神様の怒りをみて震え上がりました。そして、「もしもこの危険から命が救われるなら、修道僧になります」と神様に誓いました。あらしはやみました。ところが、また新しい「あらし」が起きました。神様に誓ったことを実行しようといた若きマルティン・ルターは、自分の非常に敬愛する父親と衝突することになったのです。父親からしてみれば、「息子が修道院に入る」ということは、今までに息子の教育のためにつぎこんだお金も無駄になり、自分の老後の世話をしてくれるはずだった息子から見捨てられてしまうことを意味していました。息子は父親の反対にもかかわらず、「もしも自分の人生を神様に仕えるためにささげることを誓ったのなら、神様に対して誓ったことはちゃんと守らなければならない」と意志を変えませんでした。しかもルターは自分を厳しく律しました。彼は、祈りや断食をし、自分に絶望するようにさえなるまで自分を吟味・批判することを続けて、「神様に仕えた」のです。ルターはキリストに従うために本当にすべてのものを捨て去ったのでした。富裕になること、この世での出世、結婚相手を得ることや家族を持つことなど、普通の人がいだく人生の夢は、もはや彼には関係のないことになりました。ルターは禁欲の道を選びました。「このようにしてのみ神様に仕えることができる」と思っていたからです。彼の父はあきらめるほかありませんでした。そうするしかなかったのです。

それから16年たってみると状況がまったく変わっていました。1521年11月21日に、すでに有名になっており、「荒野」すなわちヴァルトブルグ城に逃げ込んでいた息子は、父親に感動的な手紙を書きました。今や宗教改革者となった息子は、父親が昔まさしく適切な聖書の御言葉をもちだしたことを思い起こしました。父親はこう言ったのです。 「自分の両親に従わなければならない、ということをお前は聞いたことがないのか?」 父親のこの質問や「修道院に行ったことは人生の過ちだった」という真実に目を向ける勇気を得るまでに、息子は16年の歳月を要しました。ルターは心から神様に仕えたいと望みました。しかし、彼は、神様が命じられたことを行う代わりに、神様が命じられなかったことをしてしまいました。神様が与えなさいと頼みもしなかったささげものを神様にささげていたのでした。それと同時に、彼は神様が定められたあらゆることを無視してきたのです。例えば、「自分の両親を世話する」という仕事です。

世界を揺るがす発見

すべてを捨ててでもルターが入ろうとした「修道院」という制度は、ルターの時代よりも千年以上も前に始まりました。
西暦200年代にギリシア・ローマ文明の地域において新プラトン主義の哲学が影響力を持ち始めました。この哲学の基本的な考え方は、「あらゆる物質的なことは悪く軽蔑すべきことであり、非物質的なことは正しくよいことである」というものです。時とともにこうした考えは、キリスト教会の中でも強い影響を与えるようになりました。そして、馥郁とした日常の喜びに満ちたユダヤ的な考え方(旧約聖書はそのよい証拠です)にかわって、禁欲主義が尊重されるようになりました。自分を厳しく律してこの世的なことを拒絶することが、偉大な美徳であるとみなされるようになったのです。性差や結婚はこの世的なものにすぎず、あまり価値のないことであるとみなされました。荒野にたてられた修道院は、「神様に仕えるために完全に身をささげたい」という人々の間で人気を得るようになりました。このような傾向に拍車をかけたのは、まぎれもなく、「教会の職にある者たちがこの世的なものを愛して福音を忘れ去っていた」という悲しい事実でしょう。

何百年もの間、修道院は、多くのよいことも行いましたし、「自分を神様にささげたい」という若い女性や男性に場所を提供しました。修道院のこのような発展と、それに関係してでてきた性差を軽蔑する考え方は、地方の各個教会の働きに悪い影響を与えました。例えば、かつて非常に盛んだった女性たちによる教会での働きは、ほとんど消えうせてしまいました。さらに、「キリスト教的な生き方には二つのレヴェルがある」という考え方が形成されました。「普通のクリスチャン」は日常生活を営んでもよいが、「特別な聖人」になれるのは、神様の御国のためにすべてを捨てて、神様に仕えるために孤独の道を選んだ者だけである、という考え方です。

ルターの単純な発見は世界を混乱に陥れました。その背景には、次のような福音のすばらしい宝がありました。
「神様とは取引をする必要はなく、またできもしない。神様はキリストのゆえに、ただで、罪の赦しを与えてくださる。私が自分の命を神様にささげるのは、「私が救われるため」ではなく、「私は救われているから」だ。それゆえ、神様の召しに従うことは、隣人から離れ去ることではなく、逆に彼らに仕えることなのだ。」
ドイツ語の書き言葉の発展に大きく貢献したルターは、多くの言葉を創出しました。例えば、「職業」を意味するBerufという言葉もそのひとつです。ドイツでは今日でもホテルの客は宿泊カードを埋めるときにBeruf(「召命」)という箇所に自分の職業を記します。神様はあなたを、教師や農夫や高校生や工場労働者や調理人や主婦などとして「召して」くださいました。そして、それぞれ自分に与えられた場所で、あなたは神様に仕えているのです。このことについて、聖書はどう言っているでしょうか。

聖書は?

「マリアの賛歌」というすばらしい本の中で、ルターは偉大なる模範、イエス様の母親マリアについて語っています。私たちが知っている限りでは、神様の御子を産み育てるという仕事が与えられることを知ったあとも、マリアは修道院のようなところに入ったりはしませんでした。彼女は普通の生活を続け、家族の母親になり、こうした生活の中で神様に仕えました。

マリアは、「修道院」すなわち「孤独で静かな生活」の中に逃げ込んだりはしなかったことを、聖書は示しています。聖書には、「修道院制度が聖書的ではない」ことをよりはっきり示す根拠が他にもあります。新約聖書の手紙には、家族の中の成員(例えば、父親、母親、子供、主人や奴隷など)に対して、どのように生活するべきかという指示が与えられています(例えば、エフェソの信徒への手紙4~6章、ペテロの第1の手紙など)。神様に仕えることは、他の人たちから離れ去ることではありません。それは、隣人のもとへと向かい、彼らに仕えることです。殉教したウガンダのビショップ、フェスト・キヴェンゲレは、よく的を得た次のような逸話を残しました。彼は、妻と喧嘩した後で書斎に入って祈ろうとしました。すると聖霊様が彼に「キリストはあなたの妻と共に台所にいるのだから、あなたは今書斎でむだなことをしているよ」と告げてくださいました。彼は部屋をでて、まず妻と仲直りするほかありませんでした。

新約聖書はまた、「仕事をすること」についても教えています。本来、日常の仕事は、隣人に仕えることを通じて神様に仕えるための「手段」なのです。使徒パウロは、自分の仕事によって生活をまかない、また貧しい人たちを助けたいと思いました(使徒の働き20章33~35節)。彼はまた、「盗んだ者は、もはや決して盗んではなりません。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の両手で正当な働きをしつつ労苦しなさい」と教えています(エフェソの信徒への手紙4章28節)。クリスチャンの光栄は、人々に対してではなく、神様に対して仕事をきちんと行うことです。

「あなたがたに命じておいたように、落ち着いた生活を愛して大切にし、自分の仕事に身を入れ、自分の両手で働きなさい」(テサロニケの信徒への第1の手紙4章11節)。 キリスト教の教えを間違って理解して他の人の稼いだ収入に頼って生活している者に対しては、「自分で仕事をするように」という厳しい勧告が与えられます(テサロニケの信徒への第2の手紙3章8~14節)。しかし、これらの御言葉によって、不本意ながら無職の状態を余儀なくされている人を責め立てるようなことがあってはなりません。こうした人たちの置かれている状況は、この自己中心的な社会の残酷さを反映しているのです。そうではなく、これらの御言葉の箇所は、「自分で仕事をするなど思いもよらない」ような顔をしている「聖人」の生活や、「二つのレヴェル」のキリスト教的な生活などというたわいごとには、何の根拠もないことを示しています。

私たちは?

私たちの生きている時代では、修道院は問題ではありません。一方で、私たちは、「日常生活が聖い営みである」ということを、まだよくは理解していないのです。

今の世界の中で、私たちの多くは、給料つきかどうかには関係なく、自分の日常の「仕事」をして生活しています。それらの仕事を通して、あなたは「自分が神様に仕えている」ということがわかっていますか。もしもあなたが教師なら、あなたは子供たちが自分自身の世話をし、他の人たちを助けることができるようになるように用意を整えてあげているのです。もしもあなたが何かを勉強しているなら、あなたはこの社会を築き上げるための準備をしていることになります。もしもあなたが家事を行い自分の子供たちの世話をするなら、あなたは、子供たちが本当に必要としていることを彼らに提供することになります。日常の中のいろいろ小さな事柄がバランスよく整っていることが、実は、私たちの健やかな生活を支えているのです。毎日自分たちの皿に食事が用意されることを、私たちは些細なことだとは思いません。こうした食事の背後にも、私たちは神様の善性を見ます。本当なら私たちは、これほど「よい神様」に今以上に感謝すべきところなのです。この社会の中でまっとうに仕事をしている人は皆、それによって神様に仕えているのです。こうした大切な視点は、しばしば忘れられています。

もうひとつ、同じように忘れ去れている事柄は、「家庭でクリスチャンとして生活すること」です。私たちがいくら心で信じているといっても、家庭や親戚の中にいるときにクリスチャンにはふさわしくない振る舞いをするならば、それは非常に残念なことです。聖書を読みながら国中をたくさん旅行する若者がいるかもしれません。しかし、その若者は家ではすっかり疲れ果てドアを乱暴に閉めることでしょう。主はお祈りやクリスチャンの若者の集いのときにだけ、共にいてくださるわけではないのです。それらの機会は、私たちがクリスチャンとして日常生活を送っていくための力を与えてくれるためのものです。
これはなにも若者だけの問題ではありません。さまざまな体験を追い求めて駆けずり回っている信仰者は、ともすると、信仰をもっていない隣人や親戚に対して冷たく振舞うかもしれません。私たちは聖書の教えに従って、夫や妻や子供として生活していくべきでしょう。

修道院時代にルターは、神様が命じられたことを無視し、神様が命じられなかったことを守るべく全力を尽くしました。しかし、キリストの福音を見い出した後で、彼は信仰にかかわる他の事柄も、それぞれしかるべきところに位置づけることができました(「神様を頂点にして、下の二つの角に人間と隣人が位置する「三角形」のように」)。人間の意見などではなく、神様が御言葉の中で何を言われているか、ちゃんと聴くべきです。このようにしてこそ、教会は新たにされていくのです。


(聖書の引用は口語訳からのものです)