イエス様の復活

フィンランド語原版執筆者: 
アリ・ルッカリネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

イースター深夜礼拝説教
フィンランドのヘルシンキのPyhän Sydämen kappeli(聖心チャペル)にて
2019年4月20日


死に勝利なさったキリスト

「さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。そして、彼らは「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。墓の中にはいると、右手に真白な長い衣を着た若者がすわっているのを見て、非常に驚いた。するとこの若者は言った、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と」。女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
(「マルコによる福音書」16章1〜8節、口語訳)

父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
祈りましょう。聖なる神様、真理によって私たちを聖別してください。あなたの御言は全き真理であります。アーメン。  
(「ヨハネによる福音書」17章17節に基づく祈り。)

愛するキリスト信仰者の皆さん。

私たちは棕櫚の日曜日の後の一週間、この受難週を通じて、キリストの受難の道を辿ってきました。フィンランドのある讃美歌には「イエス様は死ぬためにこの世にお生まれになった」と歌われています。

イエス様はいつか十字架で死ぬためにクリスマスにお生まれになりました。教会暦で言えば、それは受難週の聖金曜日に起きました。イエス様は死ぬためにこの世にお生まれになり、また、死者の中からよみがえるために死なれたのです。イエス様のこの世の公生涯における全ての活動は十字架の死とそれに続く復活とを目標に据えたものでした。

どうしてこのようにひどく苦しい死が必要とされたのでしょうか。実はそれは私たちの死に深く関わる出来事だったのです。はじめの人間アダムが罪へと堕落した結果、自然によって生まれる人は、ことごとく、罪が染み付いた状態で生まれ、神様とは分け隔たれています。 (ルター派の基本信条「アウグスブルク信仰告白」の「第二条 原罪について」 を参照のこと。)

人間には自分自身を救う力がありません。それゆえ、神様御自身が人とならなければならなかったのです。キリストは「第二のアダム」として死ぬためにこの世に来なければなりませんでした。(「ローマの信徒への手紙」5章12〜21節を参照のこと。)

この世でキリストは罪の全くない生活を送られました。「第一のアダム」もあなたも私も他の誰一人としてそのような生活は送ることができません。誰しもが陥った誘惑や試練に、イエス様は打ち勝たなければなりませんでした。キリストは天の父なる神様に忠実な聖なる生活をこの地上で送られた後に、私たち人間には決してなし得ない「重大な意味を持つ死」を遂げられました。キリストは父なる神様と全ての人間との関係を修復するために私たちの身代わりとして死なれたのです。そもそも死とは、生まれながらの罪(すなわち原罪)が染み付いている全人類が、罪に堕落しているこの世において甘受すべきものです。それとは対照的に、死はキリストには全く関わりのないもののはずでした。なぜなら、キリストは罪のないお方だからです。使徒パウロは「コリントの信徒への第二の手紙」に次のように書いています。

「神はわたしたちの罪のために、
罪を知らないかたを罪とされた。
それは、わたしたちが、彼にあって 神の義となるためなのである。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」5章21節、口語訳)

キリストは私たち全員のすべての罪を御自分で引き受けてそれを十字架へと運んでくださったのです。それとの交換として、キリストは御自分の聖さと義とをあなたに贈り与えてくださったのです。

ゴルゴタの十字架ではこの世のすべての人を神様の御前で義とする出来事が起きました。フィンランドのある賛美歌はこの特別な出来事を次のように美しく歌い上げています。

「十字架においてこの世は義なるものとして創造された。
この方(すなわちイエス・キリスト)はすべての人のために死なれた。
その時すでに、私たちにも幸いなる救いはもたらされた。
ゴルゴタの犠牲には限界がない。
本来なら死に値する私たちの罪の負債はすべて帳消しにされている。
十字架がすでに負債をすっかり支払ってくれたから。
裁き主が自ら死を苦しんでくださったのだ。
それゆえ、本来なら裁きを受けるはずの人々はすでに神様と仲直りさせていただいた。」

イエス様が十字架にかかられた聖金曜日に、この世全体の、そしてあなたのすべての罪の負債はすっかり支払われたのです。

生前からキリストは御自分が三日目に死者の中からよみがえることを何度も繰り返し語られました。この三日目がイースターの日曜日に当たります。安息日が過ぎ、週の初めの日すなわち日曜日の早朝に三人の女たちは墓へと出かけました。彼らはマグダラのマリヤ、ヤコブの母マリヤとサロメでした。イエス様の周囲にいた弟子たちの間には聖金曜日以来、陰鬱な葬送の雰囲気がたちこめていました。あの三人の女たちは主イエス様の身体への最後の奉仕を施すつもりで墓へと赴いたのです。彼らは死んだ主の身体に油を塗るつもりでした。墓へと急ぐ一行は「イエス様が復活された」という喜ばしい知らせををまだ受けていなかったのです。

墓に着いた彼らは驚きました。墓の入り口を塞いでいた大きな石が取り除けられ、墓の中は空になっていたのです。キリストは死者の中からよみがえられました。かつて「第一のアダム」は自らの罪のゆえに死ななければなりませんでした。「第二のアダム」すなわちキリストは自らの死によって死に勝たねばなりませんでした。イエス様の復活はこのことの証でした。主イエス様は以前からすでに様々なしるしによって、なかでもラザロを死者の中から復活させることによって、御自分には死をも支配する権能があることをあらかじめ教えてくださっていました。イエス様は御自分の復活について、例えば「ヨハネによる福音書」10章で次のように教えておられます。

「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである。」
(「ヨハネによる福音書」10章17〜18節、口語訳)

空になった墓で天使は「驚くことはない。」と話しかけ、女たちを励ましました(「マルコによる福音書」16章6節)。クリスマスの福音書として読まれる「ルカによる福音書」2章でも天使は「恐れるな。」と宣言し、怯える羊飼いたちを励ましました(「ルカによる福音書」2章10節)。

天使たちは羊飼いたちに「イエス様がベツレヘムでお生まれになったこと」を喜ばしい知らせとして告げました。空の墓の箇所で天使は女たちに恐れないようにと言ってから、大いに喜ばしい知らせを告げています。天使は女たちに「イエス様がよみがえられたこと」を信じるように励ましたのです。イエス様に従ってきた者たちにはこのようにして「空になった墓」というしるしが与えられました。後にイエス様は彼らの前にも現れてくださり、天に上げられるまでの間、弟子たちと共に過ごされました。

それに対して、今に生きる私たちは天使の出現などを待つべきではありません。私たちには信頼できる「しるし」がすでに与えられているからです。それは「恵みの手段」すなわち、福音の御言葉と聖礼典(洗礼と聖餐)です。私たちは死に勝利なさった主イエス・キリストと恵みの手段を通してお会いすることができるのです。今も活きておられるキリストは礼拝で福音の御言葉と聖餐の聖礼典を通して私たちに出会われ、私たちの罪を赦し、私たちが救いにあずかれるように運んでくださいます。キリストの復活は、父なる神様が「御子イエス様が十字架の死によって全人類のすべての罪を帳消しになさったこと」を承認してくださった証しなのです。はじめの人間アダムが罪に堕落した結果として、アダムの子孫である全人類もまたアダムと同様に「死すべき存在」となりました。しかし、キリストは復活することでこの死というものに勝利してくださったのです。

洗礼の聖礼典においてあなたの「古い人」すなわち原罪の染み付いたあなたの性質は墓に葬られました。その代わりに、キリストに属する「新しい人」が洗礼において誕生したのです。あなたの受けた洗礼を通してあなたは本当に「キリストの死と復活にあずかる者」となったのです。洗礼の聖礼典においてあなたにはすでに「第一の復活」が起きています。この世で生活している私たちにとって、死んでこの世を去った後の「第二の復活」はこれからいつか起こることです。

この世の人生においては、洗礼を受けているキリスト信仰者は「罪深い者」であると同時に「義とされた者」でもあります。洗礼において私たちは「キリストの死と復活」にあずかるようにキリストと結び付けられています。洗礼においてあなたもまた「天の御国の臣民」となっています。あなたには天の御国の我が故郷へと旅することが許されています。とはいえ、キリスト信仰者もいつか死ぬ存在である点では他の人たちと変わりません。しかし神様は、キリスト信仰者がこの世を去った後の永遠の命の世界においてイエス様の御許にずっといられるようにするために、死をも活用なさっています。結局のところ、キリスト信仰者にとって「この世における死」とは、それを通って父なる神様の家に帰るための扉にすぎません。

ところで、冒頭の福音書の箇所にはイエス様の十二弟子のうちの一人の名前が出てきます。それはペテロです。彼はひどい罪の状態に陥りました。「私はイエスを知らない」と三度も否定したのです。キリストの復活という喜ばしい知らせはすべての弟子たちに伝えられていくべき大ニュースです。その弟子たちの中にはもちろんペテロも含まれていました。おそらくペテロの名前がこの箇所でわざわざ記されているのは、とりわけ彼がこの復活の喜びを必要としていたからではないでしょうか。ペテロのように、あなたも自分の罪深さを嘆いて自分に対して希望をなくしてもよいのです。この福音、キリストの死と復活という喜ばしい知らせはあなたに向けられたものでもあるからです。ペテロはすべての罪を赦していただけました。同じようにあなたもすべての罪を赦していただけます。神様はキリスト信仰者であるあなたのことも洗礼を受けるときに名前で呼んでくださり、すでに洗礼においてあなたの罪を赦してくださったのです。イエス様はペテロを追い払うどころか、逆に御自分に従うように召してくださいました。あなたもイエス様から追い払われることはありません。逆にイエス様に従うように召しを受けているのです。自らの罪を告白するすべての人を主イエス様は憐れんでくださいます。これは全く確実です。あなたの罪の負債はすでに支払われています。ですから、あなたはイースターにイエス様の復活を心から喜び祝うことができるのです。死に対するキリストの勝利が確定していることを、イースターは私たちに改めて教えてくれます。人なら皆いつかは必ず死ぬことになるこの世において、すでに私たちは不死と永遠の命とにあずかる者とされています。「ヨハネによる福音書」11章でイエス様は次のように教えておられます。

「イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。」
(「ヨハネによる福音書」11章25〜26節、口語訳)

洗礼の聖礼典を通してあなたは永遠の命にあずかっています。また、聖餐の聖礼典を通してキリストの血は「不死の薬」として私たちを癒してくれますし、私たちを破滅させようとする悪の諸力からも守ってくれるのです。

冒頭の福音書の箇所は恐ろしげな雰囲気で終わります。しかし最終的には、イエス様の復活という福音の喜びが、ペテロも含めてイエス様に従う者全員の心をすっかり満たしてくれたことを私たちは知っています。

アーメン。


日本語版では内容を一部補足しています。また注釈は翻訳者によるものです。