異邦人とは?

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

神様は異邦人を「御自分のもの」となさいました

私たちが生活している現代の世界から聖書に記述されている当時の世界へと私たちの視線を向けてみることにしましょう。すると、大昔の人々が抱えていた多くの問題については現代人でもあまり困難なく理解できることに気づかされます。その一方では、一般の現代人にとってはまったく思いもよらないような当時特有の問題も存在しました。私たちが日常で経験することと聖書の時代に生きていた人々のそれとが大きくかけ離れているようなことがらもあったからです。このような問題の典型的な例として挙げられるのは、イエス様がこの世で生活しておられた時代においてユダヤ人と異邦人の間に厳然と横たわっていた相違です。しかも、この相違は当時の日常生活全般の深い部分までをも規定していました。そして、それは今の私たちの生活環境とはまったく異質なものでした。

律法の民と異邦人

旧約聖書をよく知っているユダヤ人にとっては、問題の所在は当時も今もきわめて明瞭です。神様は天地を創造なさり、人間もお造りになりました。ところが、人間は造り主に背を向け、罪の中に堕落してしまったのです。旧約聖書の冒頭の書である「創世記」は、神様が人類の歴史のはじめにアダムとエバに対してどのようなことをどのように話されたかを記しています。この語りかけはアダムとエバの子孫である全人類に対しても向けられているものです。ノアの時代に洪水の大惨事が起きたときに、神様の語りかけに忠実に従ったノアとその家族は箱舟の中に逃げ込むことで救われました。洪水が終わったときに神様は次に述べるような「契約」をノアと結んでくださいました。それとともに最初の局面は終了し、次の局面が始まったのです。

「二月二十七日になって、地は全くかわいた。この時、神はノアに言われた、「あなたは妻と、子らと、子らの妻たちと共に箱舟を出なさい。あなたは、共にいる肉なるすべての生き物、すなわち鳥と家畜と、地のすべての這うものとを連れて出て、これらのものが地に群がり、地の上にふえ広がるようにしなさい」。ノアは共にいた子らと、妻と、子らの妻たちとを連れて出た。またすべての獣、すべての這うもの、すべての鳥、すべて地の上に動くものは皆、種類にしたがって箱舟を出た。ノアは主に祭壇を築いて、すべての清い獣と、すべての清い鳥とのうちから取って、燔祭を祭壇の上にささげた。主はその香ばしいかおりをかいで、心に言われた、「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。地のある限り、種まきの時も、刈入れの時も、暑さ寒さも、夏冬も、昼も夜もやむことはないであろう」。」
(「創世記」8章14〜22節、口語訳)

ノアの時代の後で神様はアブラハムに語りかけるようになります。神様はアブラハムを御自分の新たな民となさり、彼に御心を告げ知らせるようになりました。このように神様はただ一つの民すなわちアブラハムの子孫イスラエルを選んで、この民にのみ語りかけるようになったのです。神様はイスラエルの民の代表者と契約を結ばれました。神様はまずアブラハムと、次にはモーセと契約なさり、イスラエルの民をあたかも御自分の瞳のように大切に扱ってくださいました。それとは対照的に、イスラエル以外の諸民族はすべて異邦人に分類されました。「異邦人」とは神様との契約に与っていない者のことです。例えばフィンランド人も日本人もこの異邦人のグループに含まれている点ではまったく同じ立場にあります。

こうして特定の唯一の民族だけが活ける神様にお仕えする御民とされるという状況が生じました。これは、この世において他の諸民族に属している人間は誰ひとり神様と交わした契約をもっていないということでもあります。異邦人は、たとえどれほど宗教的に熱心であろうとも、活ける神様御自身と関わり合いをもつことがまったくないのです。この真実はあまりにも単純明快であるがゆえに、人々はあまり関心を示したがりません。しかし、これは聖書に明確に記されている厳格な事実です。このことをしっかり踏まえたときに、私たちは神様の啓示を新たな視点からよりよく理解することができるようになります。

厳密な境界

モーセの律法はイスラエルの民が他の諸民族の中に混じり合うことを厳格に禁じています。旧約聖書の預言者たちの時代には非常に深い溝がイスラエルと異邦人との間にぽっかりと開いていました。例えば旧約の預言者たちの宣教の対象となったのが諸々の異民族ではなくまさに神様の御民のみであったという事実はその溝の深さを浮き彫りにしています。イエス様の時代にユダヤ人たちは世界のいろいろな場所に住んでいました。彼らは自民族だけによる濃密な社会を構成していました。

自らの宗教の信条に忠実であろうとするユダヤ人は異邦人とは結婚しませんでしたし、異邦人と同じ食卓にもつきませんでした。異邦人の家を訪れることもなく、異邦人と同じ祭りを祝うこともしませんでした。世界中いたるところでユダヤ人は周囲の民族からは奇異な目で見られ、しばしば憎まれもしました。そうなったのはユダヤ人が彼ら自身の習慣と祭りの暦と礼拝とをかたくなに守り通したからである、と主張されることが今までしばしば見られました。しかし、当時のユダヤ人の生活の実情がパレスティナでさえそれほど単純なものではなかったことが、とりわけ現代の研究においては強調されるようになってきました。それにはそれ相応の根拠があります。数百年の年月が経つうちにユダヤ人のうちで教養のある人々の大多数は、元来はギリシア人の慣習であった生活様式をかなり取り入れるようになっていました。当時のパレスティナには多数の異邦人が居住していましたし、ユダヤ人の多くはモーセの律法の諸規定に対して厳密とは程遠い態度をとるようになっていました。彼らはいわば世俗化したユダヤ人でした。これは、例えば現在のフィンランド人の多くが世俗化したルーテル教会員であることと似ています。もちろんそれとは対照的に、自らの宗教の信条に忠実であろうとするユダヤ人たちも中にはいました。例えばキリスト信仰者になる以前のパウロや、イエス様の間近にいた弟子たちがこのタイプのユダヤ人であったのはまちがいありません。彼らはイスラエルが神様にとって特別な地位を占める民であることや、ユダヤ人と異邦人との間には明確な境界が存在することをとても重視していました。

それでもすべての人に対して?

一方で、旧約聖書にはまったく別の視点も含まれています。たしかに神様は御心をただ一つの民族に対してのみ啓示なさったのですが、それは他の諸民族すべてが見捨てられるということではありません。それどころか逆に、まさにイスラエルの民を通じて神様は他の諸民族に対しても語りかけてくださったのです。イスラエルは諸民族の中でいわば「祭司」のような立場にありました。

「さて、モーセが神のもとに登ると、主は山から彼を呼んで言われた、「このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げなさい、『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」。」
(「出エジプト記」19章3〜6節、口語訳)。

「詩篇」はすべての諸民族に主の御名を賛美するように奨励しています。また、とりわけ「イザヤ書」と「ゼカリヤ書」はあらゆる異邦人の民がイスラエルの神様のほうへ向き直ってお仕えする時がいずれ到来すると予言しています。すなわち「イスラエル」という細い線と並行して「異邦人」という太い線も途切れずに伸びていくということです。神様はひとつの民を選ぶことで、御自分が創造された人類全体のほうへとふたたび振り向いてくださいました。「新約聖書」はこのことがイエス様を通して実現したことをはっきり告げており、イエス様の救いの御業について新鮮な視点を提供します。現代のキリスト信仰者のうちの大多数は日常生活において異邦人(すなわち非ユダヤ人)とユダヤ人との間のちがいについて実際に目にする機会がありません。それゆえに、この問題を適切に考察するためにはある程度の迂回を余儀なくされるかもしれません。しかし、これはそのような労力を惜しまないだけの価値が十分にある重要な問題なのです。

イエス様と異邦人

イエス様が異邦人と具体的に出会われたのはいつなのでしょうか。イエス様が彼らと言葉を交わす時をもたれたのはいつだったでしょうか。パレスティナで活動なさっていたイエス様が異邦人と遭遇する機会があったのはまちがいありません。しかし、新約聖書の四つの福音書は異邦人たちとイエス様との出会いについてはほんのいくつかのケースを記しているにすぎません。しかも、それらのケースではイエス様はすでに十字架にかけられているか、あるいは人間的に無力な状態にありました。また別のケースでは、イエス様はカペルナウムの百人隊長の家を実際に訪れることがありませんでした。なぜなら、ローマ人であったこの百人隊長は、癒しの奇跡を行うユダヤ人であるイエス様が異邦人である彼の家に入ることを宗教的にみて全く不可能であると考えていたからです。

「さて、イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。」
(「マタイによる福音書」8章5〜13節、口語訳)

また、イエス様はある異邦人の女性と対話なさったときに、自分の娘を助けてほしいという彼女の願いをそっけなくしかも傷つけるような言い方で退けられました。

「さて、イエスは、そこを立ち去って、ツロの地方に行かれた。そして、だれにも知れないように、家の中にはいられたが、隠れていることができなかった。そして、けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏した。この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生れであった。そして、娘から悪霊を追い出してくださいとお願いした。イエスは女に言われた、「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。すると、女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。そこでイエスは言われた、「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」。そこで、女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。」
(「マルコによる福音書」7章24〜30節、口語訳)

上に引用した二つのケースに登場する異邦人たちが両者ともに信仰者の模範として福音書で取り上げられているのは明らかです。しかし、聖書を注意深く読むと、この二人は神様が御自分の計画を実現なさる独特のやりかたを私たちに具体的に示してくれていることがわかります。上掲の二つのケースにおいてイエス様が彼らと出会われた時点では、福音が異邦人たちに宣べ伝えられる時機がまだ熟してはいなかったのです。しかし、それもまた神様の御計画によるものでした。

壁を取り壊して

「新約聖書」に収められている使徒たちの手紙の一群はイエス様の生き方の真の意味を明らかにしてくれます。異邦人をめぐる問題について重要な手紙としては使徒パウロの「エフェソの信徒への手紙」を挙げることができます。とりわけその最初の章は丁寧に読み込む必要があります。それによると、神様御自身がイエス・キリストのうちにおられ、十字架刑において偉大な贖いの御業を成し遂げてくださったことがわかります。ユダヤ人と異邦人をそれまで分け隔てていた壁を神様が取り壊してくださったおかげで、キリストにおける新たな結びつきが人類全体の間に創造されました。今や誰ひとり「傍観者」の立場におかれることがなくなったのです。

「そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。」
(「エフェソの信徒への手紙」2章19節、口語訳)

神様は御自分の独り子をこの世に遣わすことによって、旧約聖書全体を通っているふたつの大きな線をひとつに結び合わせてくださいました。神様は唯一の民を通して活動を展開なさったときに、実際には、罪に堕落した人類全体にも近づいてくださったのです。イエス・キリストが十字架の上で死なれて三日目によみがえられたとき、神様は全世界の罪を取り除いてくださいました。それによって、神様による罪の赦しの恵みは今やユダヤ民族だけに限定されるものではなくなったのです。この恵みは全人類に対して、また人間ひとりひとりに対して、今も差し伸べられています。

イエス様はこの地上を歩まれていたときには、弟子たちが異邦人のいるところに行くことを禁じられました(「マタイによる福音書」10章5節)。しかし、十字架にかかって死なれ三日目によみがえられたときに、イエス様は同じ弟子たちの前に立たれて次の「大宣教命令」をお与えになりました。

「イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。」
(「マタイによる福音書」28章18〜20節、口語訳)

ユダヤ人と異邦人の間には亀裂が厳然と存在していますが、その亀裂の上にはイエス・キリストによって橋がかけられたのです。この聖書的な真実は福音書を適正に理解するために必要な背景知識のひとつです。この視点は新約聖書の「ローマの信徒への手紙」や「ガラテアの信徒への手紙」や「エフェソの信徒への手紙」などについての理解を深めるためにいっそう役に立ちます。また、この視点は天地創造の初めから「ヨハネの黙示録」の終わりまで聖書をひとつのまとまりとして読むことの大切さを教えてくれます。

キリストが成し遂げてくださった十字架の死と復活の御業を聖書の主軸に据えるとき、聖書を構成している個々の部分はそのすべてが各々しかるべき場所に位置づけられます。また、聖書をこのようなひとつの統一体として読むときに、聖書が偉大な使命を私たち読者にも委ねていることにも気づかされます。この使命は今もなお続行されています。イエス・キリストの福音は神様が造られたすべての被造物をその対象としています。したがって、その中には私自身も入っていますし、ユダヤ人だけではなく世界中の他のすべての民族(すなわち異邦人たち)も含まれています。それゆえに、ユダヤ人にも異邦人にも世界中の人々全員を対象として福音を伝えていくという大切な使命が、今もなお私たちひとりひとりに委ねられていることになります。


  • 聖書の引用は口語訳によっています。
  • 日本語版では理解しやすさを考慮して内容や表現などに適宜修正を加えています。