「新しい人」と「古い人」 〜キリスト信仰者の絶えざる戦い〜

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

パウロの手紙には、聖書をそのまま一回読むだけでは容易に理解できないような大切な教えがたくさん含まれています。それらを理解するためには、パウロの書いた一連の箇所を読み比べて、彼が伝えようとした考えの中に深く分け入って行く必要があります。すると聖書を読むのが俄然面白くなります。しかもこの宝探しの冒険は、すぐには終わりません!

 この小文では、パウロが「古い人」と「新しい人」という言葉でどのようなことを伝えようとしているかを取り上げます。これら用語は二つで一つのペアをなしており、他の幾つかの用語のペアとも深い関わりがあります。たとえば、「古いアダム」「新しいアダム」、あるいは「肉」「霊」という用語のペアなどが、新約聖書にはでてきます。これらの用語の意味は内容的にまったく同一ではありませんが、多くの点では同じことを表しているとも言えます。それは、実生活に関わるいたって単純な問題、すなわち、キリスト信仰者としてどのように信仰を守っていくべきか、という問題です。

キリスト信仰者の二つの側面

 パウロが最も頻繁に用いる言葉のペアは「肉」と「霊」です。ここで誤解をしないように気をつけていただきたいのですが、「肉」は人間のうちの肉体的で邪悪な部分を、また「霊」は人間のうちの清らかで非物質的な 部分を指しているのではない、ということです。肉体と魂を分離する考え方は、多くの場合ギリシア的な思想であり、また東洋的な思想にもみられるものです。ところがヘブライ的な考え方によれば、人間は部分に分けることができない統一体です。パウロがこのペアの言葉に込めた意味は、それらとは異なりますが、内容的には非常に単純なものです。すなわち、「肉」とは、キリストの贖いの御業を信じずに自分の力に頼っている「私」という存在のことです。すなわち、ありのままの人間存在のことです。一方で「霊」という言葉もまた、人間存在を指しています。ただしそれは、キリストによって贖われ「神様のもの」とみなされた人間のことです。

 それではこれから、この問題を掘り下げていくことにしましょう。キリスト信仰者は二つの側面をもっています。しかし、キリストを信じない者は一つの側面しかもっていません。キリスト信仰者には「肉」と「霊」、「古い人」と「新しい人」、「古いアダム」と「新しいアダム」、「古く造られたもの」と「新しく造られたもの」が共在しています。パウロはこれらの表現をすべて用いています。キリストを信じない者はただ一つの側面だけを、すなわち「肉」、「古い人」、「古いアダム」、「古い被造物」と呼ばれる面だけを有しています。それに対して、キリスト信仰者には先に述べた二つの面があり、それゆえその心の中には両者の間で戦いが生じるのです。しかしそのことを考える前にまず、これら二つの面がいったいどのようなものであるかを見てみる必要があります。

古くて、すでに裁きを受けているもの

 「ローマの信徒への手紙」1章には、自分の力に頼る人間がどのような存在であるかを明示する、パウロの一連の手紙の中でもおそらく最も絶望的な描写があります。そこには「肉」という言葉そのものは出てきませんが、しかし内容的には明らかにそのことについて語っています。それによれば、人類全体が神様に背中を向けてしまい、神様の栄光を偶像礼拝と引き換えにしてしまいました。それゆえ神様は人類に背中を向けられ、人類が罪にまみれて生活するままに放置なさいました。この結果この世の人間は、あたかも一筋の光さえ差し込まない完全な暗闇の中のような状態に閉じ込められてしまったのです。この世では罪と死とが猛威を振るっています。この世では人々が神様を無視して生活しているため、神様の怒りがいつか必ずそれに下ることになっています。このことが当てはまるのは、なにも個人の個別の行いについてのみではありません。このことは、世界全体による完全な背反と、その結果下された容赦なき有罪判決に関わる問題なのです。

 「ローマの信徒への手紙」7章には、「古い人」としての人間に関する非常に厳しい描写があります。

「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。」
(ローマの信徒への手紙7章18節より、口語訳)

 この箇所全体は、「古い人」としての人間が神様に対しては何一つ善き業を行えないことを明確に告げています。「肉」はすっかり腐敗しており、完全に神様に背を向けているので、いつか必ず厳しい最後の裁きを受けることになるのです。

 「ローマの信徒への手紙」5章には、「二人のアダム」についての具体的で冷徹な描写があります。最初の人間である「第一のアダム」は罪の中に堕落して原罪の染み付いた存在になりました。その結果として、彼の子孫である全人類もまた「原罪、死、地獄」という負の遺産を親子代々引き継ぐことになってしまいました。私自身もこの遺産を自分の両親から受け継いで、自分の子どもたちに与えたのです。生まれたばかりの赤ちゃんが寝ているゆりかごのかたわらで、「この子もまたいつか死ぬ」ということを周りにいる人々に思い起こさせるのは、まったくもって場違いな発言ではあるでしょう。しかしこれは事実なのです。さらにまた、その子がすでに罪にまみれており、永遠の滅びの裁きを受けるのが当然の存在であることや、「古いアダム」、「古い人」、「肉」がすでに赤ちゃんのうちにも入っていることも事実なのです。私たちは皆一様に、年齢や性別によらず、この世に生まれた人間としての不幸な境遇に束縛されているのです。

新しくて、素晴らしいもの

 パウロの記した一連の手紙の最も大切なメッセージは、神様が御子イエス様をこの世に送られたのは、私たちにまったく新しい何かをプレゼントしてくださるためだった、ということです。父なる神様の心のうちでは、ゴルゴタにて成し遂げられた救いの御業が、天地創造のはるか以前からすでに計画されていたということです。これに関しては、次に引用する「コリントの信徒への第二の手紙」がはっきりと語っています。

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。」
(コリントの信徒への第二の手紙 5章17節〜6章1節、口語訳)

 そもそも人間は、自分で自分を助けることができないようにできています。人間には不可能なこと(自分を救うこと)を、神様ご自身が私たちの代わりにゴルゴタで成し遂げてくださったのです。キリストの救いの御業を説明するために、新約聖書は多様なイメージを駆使していますが、その中でも最も具体的なものは、キリストの御業を「新しい創造」として捉えるイメージでしょう。この「第二の創造」においては、「第一の創造」(天地創造)の後にアダムとエバの罪の堕落によって破壊された、神様と人との間の関係が修復されます。「新しい創造」では「古いアダム」が取り去られ「新しいアダム」が与えられます。また、神様のほうに向き直って神様のために活きる「霊」が贈られます。

脱ぎ捨てなさい!身にまといなさい!

 自らの力に頼っている人間は罪にまみれた「肉」の状態にあります。一方、キリスト信仰者は「霊」という神様の賜物をいただいています。信仰者には「肉」と「霊」とが共在しており、その人のうちで両者は容赦のない戦いを続けています。新約聖書は「肉」と「霊」との戦争状態を様々な用語やイメージによって表現していますが、それらは内容的には同じものです。

 「ガラテアの信徒への手紙」5章は、「霊」が御霊の業を行い「肉」が肉の業を行う様子を次のように描いています。

「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。」
(ガラテアの信徒への手紙 5章16〜17節、口語訳)

 この箇所の後には、「霊の実」と「肉の実」についての長い一覧表と、それに関連する厳しい警告の言葉が続いています。

 「ローマの信徒への手紙」6章でパウロは、「キリスト信仰者は、どうせすべての罪が赦されるのだから、自由に罪を行ってもかまわないのではないか?」という疑問に対して、「いや、それはいけない」、と厳しく否定します。私たちは洗礼を受けています。洗礼は「古い人」が死んで「新しい人」が生まれるという意味です。そしてキリスト信仰者は、自分が受けた洗礼の意味を絶えず思い起こして生活していくのですから、恣意的に罪を行ってはいけないのです。

「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。」 (ローマの信徒への手紙 6章3〜6節、口語訳)

 「コロサイの信徒への手紙」3章からは、「古い自分を脱ぎ捨てて、新しい自分を身にまとう」という、とても具体的なイメージが浮かび上がってきます。

「しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。」
(コロサイの信徒への手紙 3章8〜10節、口語訳)

 まさしくこのようにキリスト信仰者の人生とは、「肉」を脱ぎ捨て「霊」を身にまとうことにほかなりません。しかもこれは一度限りの出来事ではなく、この地上で生きている限りずっと繰り返されていくものです。キリスト信仰者の場合には、この世を去る時になってようやく、「肉」、「古い人」、「古いアダム」(どの用語を使ってもよいですが)がその人から最終的に取り除かれてこの世に残され、キリストのゆえに聖なる者とされた「新しい人」だけが、天の御国の故郷へと帰り着くことができるのです。