最後の審判

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

このテキストで私たちは「神様が人々の前で裁きを行われること」について語っている聖書の箇所を調べることにしましょう。テーマは、罪人はどうすれば救われるか?

1.さっさと私を裁きなさい!

多くの人は神様の裁きを避けようとしています。しかし、少なくとも聖書の中の登場人物の一人は自分自身に関して神様の裁きがなされることを祈り求めています。ヨブは神様が裁きの座に出てくるように要求しました(とりわけヨブ記23章1~12節)。もしも公平な裁判ならば、ヨブは神様が彼に対して行ったわざに関して神様を有罪とし、「ヨブが正しく、神様が間違っている」ということがあきらかにされたことでしょう。ヨブの友人たちは本当のことや正しいことを話しているし、ヨブと共に部分的には調子をそろえています。しかし、ヨブの友人たちはヨブの考え方や態度を変えさせることはできませんでした。最後にようやく主がヨブにあらわれて、ヨブは「よりよい神学」を学びました。つまり、ヨブは神様の裁きの座の前で黙ることを学んだのです。しかし、神様の御言葉がこれと同じ奇跡を今でも私たちの只中で行えるように私たちは御言葉を学んでいるでしょうか。

2.旧約聖書から

ゼカリヤ書3章1~7節は、神様の民が自分たちの罪に対して裁きと懲罰を受けた時期について語っています。エルサレムは破壊され、神殿はもはやなく、民は捕囚となりました。神様が御自分の民を彼らに与えた土地に連れ戻されたとき、主は預言者ゼカリヤが大祭司ヨシュアが神様の御前で民全体の代表として立っているのを「見る」機会をお与えになりました。裁きの座でヨシュアは憐れみを受けて釈放されました。なぜなら、この男は「火の中から取り出された燃えさし」(ゼカリヤ書3章2節)だったからです。こうしてヨシュアは憐れみを受けた者として生きていくことを許されました。「天国の広場」での裁決は悪魔を沈黙させました。

詩篇143篇は「人が自分の罪を悔いる」というテーマを扱っています。敵のゆえに命が危うくなっているダヴィデが地面に伏して全能の主の助けを求めて叫びます。それと同時にダヴィデは自分の罪のせいで助けをいただけないのではないかと恐れます、「主よ、あなたの僕を裁きの座に引き出さないでください。あなたの御前では誰ひとりとして義とされないからです」(2節)。天国の広場では罪人に対して罪の重荷から解放する裁定が待っています。あるいは、「天国の広場では裁判そのものがまったく始まらない」と言ってもよいでしょう。

3.大いなる裁き

新約聖書は世界史全体のしめくくりとして次のような状況を提示しています、「生きている者も死んだ者も、大きい者も小さい者も、大いなる白い裁きの座の前に立ち、書物が開かれます。その「命の書物」の中に名前がある者は命の世界に入ることができ、命の書物に名が記されていない者は死の王国に落ちていくほかないのです」(ヨハネの黙示録20章11~15節)。 天国の広場が人で一杯になる時が来ます。すべての人がそこにいるのです。

罪人に残された唯一の可能性は、パウロがテサロニケやアテナイで教えた基本的なことをきちんと復習することです。神様の怒りが世界を覆う時が来ます。「神様が死人の中からよみがえらせた神様の御子、すなわち、私たちを来るべき怒りから救い出してくださるイエス様が、天から下って来られるのを」私たちは待つようになりました(テサロニケの信徒への第1の手紙1章10節)。同じ教えはパウロのアレオパゴスでのスピーチの中にも見えます(使徒の働き17章)。

「義認」(義と認められること)、すなわち、人が大いなる裁き主の御前で罪を赦され認めていただけることは「人がよりよい存在になる」という意味ではありません。義認とは、「人には心にやましい罪がない」という意味ではありません。義認は、「罪が罪とはみなされない」ということです。パウロは、ふたつの異なる義について語っています。ひとつは人間自身の「行いによる義」で、人はそれを捜し求めますが決して見つからないものです(ローマの信徒への手紙9章30~33節)。もうひとつの義はキリストのゆえに賜物としていただける義です。これに関して最も大切な聖書の箇所はとりわけローマの信徒への手紙4章3節、22~25節、および、ガラテアの信徒への手紙3章6節です。真っ白な裁きの座の御前で私たちの「避けどころ」となるのは、自分自身の義ではなく、私たちの罪を帳消しにしてくれる「キリストの義」です。

4.いくつかの選択肢

いままで述べてきたことは、「どのように人が救われるか」についていくつかのはっきりとした「境界線」を引かなければならないことを私たちに教えます。

神様の怒りと永遠の裁きについての教えをまったく受け入れない人たちがいます。彼らは、「イエスは神が怒ってはおらず今まで怒ったこともないことを教えにきたのだ」と主張します。これは誤りです。

「天国の広場」ではいつか必ず大規模な集会が開かれます。もしもそのときにキリストから賜物としていただいた義が「避けどころ」となってくれなければ、人は永遠の命の中へ入ることができません。

「義認とは人がこの世での人生の間に義なる存在に変化することだ」と主張する人もいます。「神が人の中にその力を注ぎ込み、その結果として人は次第によりよい存在に変わっていく」と言うのです。これも間違いです。 なぜなら、「私がクリスチャンである」ことは私によって決まることではなく。どこか天の岸辺の向こうでいつか将来に実現することでもないからです。キリストはゴルガタの十字架で罪人である人間と聖なる神様の間に平和をもたらしてくださいました。キリストは聖なる洗礼において、私に御自分の義を着せてくださいました。キリストは聖霊様によって、すべての人に贈ってくださっている救いを私が自分のものとして受け取るようにしてくださいました。信仰は確かに人の人生を変えます。 しかし、それはここで扱っていること(人はどのようにして神様に義と認められ、救われるか)とはまったく別のテーマです。信仰により人の人生が変わるのはキリストの愛の力によってであり、人自身の業績(よいほめられるべき行い)とは関係がありません。

救われるという確信を自分自身の心から探しまわって、種々の精神的な鍛錬によって自分を高めようとする人たちもいます。しかし、どれほど熱心に信仰にかかわることがらに集中してみたところで、土曜日の夜には真実味を帯びていたことも次の月曜日の朝にはそれが本当だとは感じられなくなってしまったりするものです。心がキリストに対して熱く燃え続けることもありません。 それに対して、私の「救われるという確信」は次の二つのことに基づいています。 まず、神様のすばらしい救いのみわざは、私がまだ生れる前にすでに成就していました。次に、私は義とされています。なぜなら、神様はキリストの救いのみわざによる報酬を私にも分け、私の名前を命の書に書き込み、私を裁きにかけるようなことはなさらないからです。

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(聖書の引用は口語訳からのものです)