最後の審判

10.7. 裁き

裁きはギリシア語で「クリーシス」といい「選り分けること」を意味します

 この世の時と来るベき世の時の間の境界には「大いなる裁き」が位置しています。新約聖書において、裁きは「選り分けること」を意味します。「人の子はすべての国民を選り分けるでしょう」(「マタイによる福音書」25章32節)とイエス様は最後の裁きについて言っておられます。この裁きは、明確に二分されるグループのどちらか一方に人がひとりひとり振り分けられるような選別とは異なるものです。裁きを決める基準点は、いささかの曖昧さも残さないで単純に表現することができます。すなわち、人がキリストとの交わりの中にいるかどうか、キリストの命に与っているかどうか、という基準点です。キリストと共に生きる命は、この地上では目に見えるようなものではありません。なぜなら、それはしばしば私たちの弱いところに隠れているものだからです。人は、信仰者の真似をしてあたかも自分がキリストと共に生きているかのように見せかけてみたり、外面を取り繕ったりすることはできます。しかし、裁きの時には、その人とキリストとの本当の関係が疑問の余地なく目に見える形で明らかにされます。キリストのからだの一員、まことのぶどうの木の枝である人たちもいますし、そうではない人たちもいます。手元のランプに油がちゃんと入っている人たちもいますし、入っていない人たちもいます(「マタイによる福音書」25章1〜13節)。

この世で福音に触れる機会のなかった人たちが死んだ後に救われる可能性について

 この世で生きている間に福音と出会う機会のなかった人たちにどのような救いの可能性が残されているのか、私たちは知りません。イエス様が陰府で死者たちに福音を宣教されたであろうことを新約聖書は示唆しています(「ペテロの第一の手紙」3章19節、4章6節)。このことについて様々な推測をしたり、希望を抱いたりすることはできます。しかし、神様がこのことについて私たちに知らせてくださらなかったのにはそれなりの意図があったことを私たちは心に留めておかなければなりません。国内および国外で福音を宣べ伝えるために、神様は私たちを召してくださったのです。福音のメッセージが人々の心の中に入るようにするために、私たちは自分にできることを行わなければなりません。そして、他のことはすべて神様にお任せすればよいのです。

すでにこの世にいる間になされる選択

 この世においてキリストを拒絶した者が永遠の世において悪い結果を伴う道を選択してしまっていることを新約聖書は明瞭に告げています。「来るべき世に移った後でおもむろに態度を改めればよいのだし、そのような機会も与えられるだろう」などとうそぶいてはなりません。この点に関して、人間には自らの選択によって来るべき世での己の身の振りかたに決定的かつ最終的に働きかけるチャンスが与えられているのです。神様と共に永遠に生きることを耐え難いものと感じて拒む人も中にはいるかもしれません。人々が天国や神様のことを汚す不適切な言葉遣いをする場合にも、神様への彼らの反抗心があらわれています。

10.8. ふたつの可能性

神様と一緒の生活と、神様なしの生活

 永遠の世で私たちの前に開かれる二つの可能性は、この世の時におけるものと同じです。すなわち、神様と共に生きるか、それとも神様なしで生きるか、ということです。ただし、永遠の世においては、これら二つの選択肢の間には決定的な相違が生じます。この世の時においては、誰であれ神様なしでは一瞬たりとも生きることができません。この世では、人は皆、創造主が善き賜物を豊かに与えて休みなく働きかけてくださる世界の中で生きています。「大いなる選別」がなされた後には、それとは逆に「神様のいない世界」が「神様のおられる世界」と並存するようになります。「神様のいない世界」とは、神様の善き御業が完全に締め出されている世界のことです。このことに関連してイエス様は幾度も様々なイメージを多用なさいました。それらのイメージが共通して語っているのは、神様のいない「悪の世界」の実在についてです。

神様と共に生きることは霊的な永遠の命です

 神様と共に生きることは「永遠の命」と呼ばれます。それに対して、神様なしで生きることは「永遠の死」と呼ぶことができるでしょう。神様と共にいる永遠の命がすでにこの世で始まった「キリストへの信仰に基づく命」の延長線上にあるのと同様に、永遠の死は、人の心が神様から離れ去り神様なしで生きようとする、いわゆる「霊的な死」の延長線上にあるとみなすことができます。この霊的な死からは人生の方向転換(悔い改め)によって救われることができます。人生の方向転換はこの世にいるかぎりは可能だからです。このことを表しているのが「恵みの時」という言葉です。この言葉は、人がまだ神様の恵みの影響下にある時のことをさしています。しかし、永遠の死、すなわち神様と人間との最終的な離別は、死んでしまった後から事後的に取り消すことができません。イエス様の御言葉の啓示によれば、人が永遠の死の状態から救われることはもはやありません。

死者たちについて心を騒がせる必要はありません

 それでは、どれだけ多くの人が救われるのでしょうか?イエス様にもこの質問が向けられたことがありました。イエス様はこの問いに対して「狭い戸口から入るように努めなさい」という率直な励ましによって答えられました(「ルカによる福音書」13章23節以降)。死者たちをめぐる問題は神様にお委ねしましょう。彼らの救いについて神様ほど心を砕いてくださっているお方が他にいないのは確かなのですから。神様が行われたよりも多くのことをできるような人は誰もいません。生きている人々のことを配慮し愛し祈ることのほうが、私たちにとってはいっそう大切なことなのです。

10.9. 永遠の命

永遠の命とは、神様の御許で神様の子らに与えられている、言葉では表現できない救いの幸いと栄光の輝きのことです。そこで神様の子らは神様を面と向かって見つめ、永遠の賛美を神様に捧げます

 神様の御国において、人が生きている本来の目的、すなわち、中断もなく破綻もない神様との交わりが実現します。このような生活がはたしてどのようなものなのか、私たちは「人生の最良の瞬間」にそれとなく推し量ることができるだけです。それは仏教的な極楽などとは違うし、無への消滅や受け身の平安とも異なります。神様の御国は半ば理想化された抽象的な世界などではありません。それは具体的に存在するものなのです。そこではいろいろなことが起こり、いろいろな生き物がおり、歌があり動きがあり命に満ちています。それは、私たちがこの世の人生で想像しうる最大の富、幸福、美、変化などをはるかに超えた実在なのです。この新しい生活環境を描写する際に、まず聖書は二つの異なる分野からのイメージを援用しています。そのひとつは「礼拝」であり、もうひとつは最高の美を湛える「自然」です。このことは決して偶然ではないでしょう。神様の御国はこの地上では「礼拝において、ある特定の瞬間に」私たちに近づいてきます。その時には、神様がすべてを満たし、私たちは神様の中で活かされます。また神様の御国は繊細極まりない構成美を有する被造物の中にも反映しています。「そこには諸国民の光栄と数々の貴重品とが携えられてくる」と聖書は言っています(「ヨハネの黙示録」21章26節)。これらの御言葉に基づいて私たちは、「習慣、音楽、詩、リズム、景色、建築など私たちがこの地上で出会ってきた最上のものはすべて、実のところ、神様の御国の中で私たちが出会うことになるもの(天国で出会うときにはさらに素晴らしくしかも不思議な親しみを覚えるもの)を内に含んでいたことが後になって判明する」という想像をめぐらしてみることもできるでしょう。さらに、私たちがこの世で信仰生活を送っていた時には「まだ十分に納得のいく説明を受けていない」と感じていたいくつもの事柄が、天国ではすっかり明らかにされます。そこでは、すべてについて説明がなされ、すべてがはっきりし、すべてが自明なものとして理解できるものに変わり、探求しえない深遠さがまったく残らないほど完全にわかるものになります。

「神様は人類の歴史においてなさったようにする他なかったのだ」ということを、そのとき私は理解するようになります
(「コリントの信徒への第一の手紙」13章12節)。

そして、神様が行われたことが、本来なら私たちがそのような報いをいただくには値しないはずの「憐れみ深く測り知れない愛の奇跡」であったことが、その時には理解されることでしょう(「ヨハネの第一の手紙」3章2節)。「ヨハネの黙示録」は永遠の命におけるこのあふれるほどの幸いを、すなわち、神様は「在る」というお方であることから来る幸いを多くの賛美に満ちたある箇所で「賛美、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが世々限りなく、私たちの神様にありますように、アーメン」と表現しています(「ヨハネの黙示録」7章12節)。