キリストの再臨

10.4. 世の新生

時は短いです

 聖書によれば、世界はいつか「新生」を経験することになります(「マタイによる福音書」19章28節)。キリストが人を立ち上がらせて新しいかたちをお与えになったときにその人が新しい命をもってよみがえるのと同じく、全世界もまたいつかは変化の時を迎えます。イエス様のメッセージには本質的にすでにこうした考えがはっきり表現されています。天の御国は近づきました。「かの日」が近づいてきているのです(「マルコによる福音書」1章15節、「ヘブライの信徒への手紙」10章25節)。

 現代のこの世的な考えかたに慣れた人々にとって、イエス様の福音の中でこの箇所ほど奇妙で驚くべきものは他に見当たらないほどです。私たちはこの世界の「年齢」を億単位で計算したり「宇宙はこれからも限りなく続く」と考えたりするのに慣れています。「命が終わりなく続く」という考えは「私たちが存在しているのにはそれなりの意味がある」という感慨をいだかせます。しかしその一方で、核戦争によって人間の世界が自滅してしまう可能性がありうることを思うと、すべてが一挙に無意味なものとなってしまう最悪の破滅がいつか来るかもしれないという嫌な予感が私たちを襲うこともあります。

時の短さは命に目的を与えます

 新約聖書の考えかたはこれとは逆です。「時は短く、キリストはこの世を終わらせるために来られる」というこの考えかたこそが、この世に四散しているキリスト信仰者の現実に対して深い意味を与えます。苦しみと不正はいつか終わり、本来の意味で唯一「命」の名に値する真の命がようやく勝利を収める時がいつか必ず来ます。この世界の最終局面を迎えた時に、ようやくこの世界もあるべきはずの「本来のかたち」に変わるのです。

創造主は被造物世界を支配なさっている唯一のお方です

 しかし、これは一体可能なことなのでしょうか?この壮大な宇宙がいつか胡散霧消してしまうようなことがありえるのでしょうか?

 信仰と不信仰が互いにまったく異なるやりかたで同一の真実と向き合う場所に、私たちはここでふたたび出会います。キリスト信仰者と不信仰者とは、たとえば物質の構成や、物質自体に大爆発を引き起こすほどの巨大なエネルギーが蓄えられているという(常人の理解をはるかに超える)物理的事実について、ほぼ同様の知識を習得しています。神様を信じる人は「神様は物質の内蔵するエネルギーを物質内部に押さえ込んでおく力も、それを物質から解放する力もおもちである」と考えます。原子核物理学の時代に生きる私たちにとって、これに関する聖書の御言葉は物理的に観察可能な対象になってきているともいえ、それゆえ数世代前の時代とはまったく違う現実味を帯びるものとなっています。一例として「ペテロの第二の手紙」3章8~13節をあげることができるでしょう。かつて「存在せよ!」という言葉を発して全世界を創造なさった神様は、その一方では世界の存在そのものに対して限界を設け、それを滅ぼしたり他のものに代替したりすることもできます。キリスト信仰者はこのようなものとして神様の本質や全能性を理解し、それについても信仰告白します。

この世の進展に伴い、悪も展開していきます

 聖書に記されている未来の展望には驚くべき点がもうひとつあります。時代が進むにつれてこの世で人間がより善い存在になっていくと聖書は教えていない、というのがそれです。人間が大規模な事業さえも成し遂げることができるようになるという歴史的発展のことを、聖書は知っています。しかしその一方で、神様と悪との間の争いが次第に激しさを増しながら絶えず展開されていく様子もまた人間の歴史には刻まれてきたし、これからもそうであることを、聖書は私たちに語っています。時が経つにつれて、悪は神様との戦いに対していっそう多大の戦力を投入するようになります。あたかもそれを反映するかのように、戦争はより残酷なものになり、破滅的状況は悲惨を極め、国家権力は自己の絶対化と神様への反抗的な態度とを鮮明にしていきます。人類の歴史の最終的な局面では、キリスト教会は迫害の下でカタコンベに潜って集会を開くほかない小さな群れとなっていくのかもしれません。

大災害の只中にあっても決して消えることのない希望

 しかし、上述のことさえも命を無意味なものにはできません。逆です。実はそれらの出来事はまもなく春が訪れることを示すしるしなのです。朝は近づいています。「かの日の」朝です。その日には、私たちの存在の真の目的があきらかにされるのです。「これらのことが起こり始めたなら、身を起こし、頭をもたげなさい。あなたがたの贖いが近づいているのですから」とイエス様は言われました(「ルカによる福音書」21章28節)。

 これはしかし、いつ世界の終末が訪れるのかをあらかじめ計算して予測できるという意味ではありません(「マルコによる福音書」13章32節以降)。その日は思いがけない時に来ることを新約聖書は強調しています。人々が恐怖心にとらわれて力を失ったり、生き残りをかけた戦いの中で憎しみの思いにとらわれたりして心をかたくなにしていく中で、イエス様の弟子であるキリスト信仰者は心安らかに生活を続けることができます。イエス様が来られようとしているのだから、すべてのことには意味があるし、結局はすべてがよい結果をもたらすことを彼らは知っているからです。このことは非常事態や突発事故が起きたときに幾度となく再確認されてきた歴史的な体験でもあります。

この世に対する私たちの責任が減ることはありません

 いくら来るべき時への希望があるからといって、今直面している日常の義務をないがしろにしてよいことにはなりません。一切を破壊し尽くさんとする諸力に対する神様の戦いは、この世の終わりの時までずっと続いていきます。この戦いの中でなすべき自らの義務をキリスト信仰者は自覚しています。それは、大きな試練に耐え抜くために、小さな事柄についても誠実に対応していくことです。すべてがだめになっていくように見える時でも、自分に委ねられた召しに従って活動し続けるべきなのです。キリストが今まさにこの世に戻って来られようとしているのかどうか、私たちは知りません。信仰に導かれたキリスト信仰者が、国際的な司法組織での仕事、国々の兵器の保有量を制限する事業、核兵器の拡散を防止する任務、その他、世界を脅かすカタストロフィーを阻止するための職務に就いていくのは自然な成り行きです。この世の終わりがいつ来るのかを決めるのは、神様であって私たちではありません。「キリスト信仰者は、明日がこの世の終わりの日だと信じている場合にも、今日はりんごの木を植える」という、ルターのものとして伝えられている言葉があります。

10.5. キリストの再臨(パルーシア)

キリストは栄光につつまれて再臨なさいます

 福音によると、キリストは「終わりの日」に一切の支配権を手中に収められます。しかしこの度は誰にもはっきりとわかる形で、キリストはこの世に戻って来られます。キリストがこの世に来られる理由は、初回の時がそうであったように御自分が私たち人間の一員となるためではなくて、私たちを神なる御自分と似た者にするためです。キリストが栄光に包まれてこの世に帰って来られることを、新約聖書はキリストの「パルーシア」と名づけています。このギリシア語の言葉は福音全体の基調をなす概念です。このことは教会の暦や礼拝式文にも明瞭に示されています。

 パルーシアにおいて、神様の御国は「力の中で」設立されます。「古い世」の時期はついに過ぎ去り、神様はすべてを新しくなさいます。そして、古い世とはまったく異質な「新しい世」が誕生します。神様がこの新しい世をいかなるものとして創造なさるのか、私たちは知りません。しかし、新しい世には「義が住む」ことがわかっています(「ペテロの第二の手紙」3章13節)。そこにはもはや悲しみも叫びも痛みもありません(「ヨハネの黙示録」21章1~4節)。イエス様の御言葉によれば、天と地は消え去ります(「マルコによる福音書」13章31節)。しかしその一方で、「新しい天と新しい地」、すなわち新しい宇宙に関する約束が私たちには与えられています。

10.6. 復活

肉体をもった人間が具体的なかたちをとって新しいからだをともなう命へと復活します

 「キリストのもの」すなわちキリストの命にすでにこの世で与っている人たちは、キリストが戻って来られる時に「キリストと似たかたち」となり、来るべき世における命に与ることになる、と福音は私たちに教えます。すなわち、この世での命と来るべき世で生きられるべき命の間にはある種の相関関係が存在しているのです。かつて生きていた人たちも、キリストが戻って来られる際に地上でまだ生きている人たちも、皆が一様にこの新しい命に与ることになります。死んでいる人たちにとって、これは復活を意味します。かつて死んだその同じ人が新しい命の中へ起き上がるからです。この地上で生きていた「私」という性格をもった一個人は、新しい世で生きる「私」と同一のものです。新約聖書はまた、完全な変化が起こることを強調しています。「死ぬべき者が不死を身にまとう」のです。まったく新しい存在様式が古い存在様式にとってかわります。それと同時に、まさしくこの死ぬべき人間が新しいかたちを得るのです(「コリントの信徒への第一の手紙」15章51節以降)。「使徒信条」など、キリスト教会の信仰告白を原語で読むと、そこには「肉のよみがえり」(ラテン語でcarnis resurrectio)という表現がでてきます。この言葉を誤解してはいけません。ここでいう「肉」とは「原罪」のことではないのです。実に、この原罪にかかわる部分こそが復活において最終的に滅ぼされるものです。同様に「からだのよみがえり」という表現も誤解を招きやすいものだといえます。

 ここでいう「よみがえり」とは、私たち人間を構成している物質のことについてではありません。私のからだは「朽ちないものの中でよみがえる」新しいからだへと場所を譲らなければならないのです。

「肉のからだが蒔かれ、霊のからだがよみがえるのです」
(「コリントの信徒への第一の手紙」15章42、44節)。

「まったく新しくされた世において、人間は具体的な個人として新しい生へとよみがえる」という信仰を、私たちはキリスト教の信仰としてしっかり守っていきます。