イエス様は、賜物であり模範です。

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

イエス様について語る人は多くいます。しかし、彼らはとくに「信仰者」になりたいと思っているわけではありません。彼らはあるいは信仰の道を捜し求めている人たちなのかも知れません。彼らは、イエス様の教えが知恵に満ち正しいことや、皆がイエス様の生き方や教えのとおりに教え生きるのが望ましいことを、よく知っています。しかし、彼らは、イエス様が私たちにとって、「賜物と模範」という二つの意味をもった存在であることを理解していません。そして、このことにまだ気が付いていない人は迷子になっています。

「イエス様が私たちにとって賜物である」というとき、次のことを意味しています。イエス様は私の罪を取り去って、私を神様の子供にしてくださいました。私はそのようなことをしていただくには値しない者なのに、イエス様がゴルゴタの十字架で私の悪い思いや言葉や行いを取り去ってくださったおかげで、私は罪のないきれいな存在でいられるのです。さらにイエス様は、私の人生の日々の生活の中で私の傍らを共に歩んでくださいます。イエス様は私の世話をすることや、つまずいた私を立ち直らせることや、私に罪の赦しを与えることに疲れてしまうようなことはありません。洗礼盤のほとりで、主の聖餐の台で、ざんげの執行に際し、神様の御言葉をひもとくとき、私はこの賜物をあがめます。私からは何も要求されていません。私は神様からたくさんのものをいただこうとしているのです。

「イエス様が私たちにとって模範である」というとき、次のことを意味しています。私たちのために御自分の命を差し出すために、神様の栄光から汚れに満ちたこの世に来られたとき、イエス様は御自分に従う者たちひとりひとりに模範を示してくださいました。私を救ってくださるときに、イエス様は御自分の命をまったく惜しまれませんでした。それゆえ、私は「自分の使命は自分だけを大切にすることではなくて隣人を愛することにある」、と理解するのです。この愛はたんなる思想ではなく、十字架のイエス様をたえず模範とするものです。十字架でイエス様は罪人のためにすべてを犠牲にし、しかも御自分を虐待する者たちのために祈られたのでした。私は本当にたくさんの罪を赦していただいたので、私には誰かと憎しみ合ったり、誰かを見下したりする権利はないのです。

「私たちは愛し合います。なぜなら、イエス様がまずはじめに私たちを愛してくださったからです。」(ヨハネの第1の手紙4章)。

このようにイエス様は賜物でもあり模範でもあります。多くの人はイエス様を模範とみなそうとしています。しかし、イエス様が私たちにとってまずなによりも賜物であることを理解しない限りは、イエス様を模範とみなしても何の益もありません。仏教徒もイエス様の模範を褒め称えています。にもかかわらず彼らは真のイエス様を見出せないままでいるのです。イエス様のペルソナは人間の私たちにとって謎です。聖霊様がイエス様を私たちにとっての賜物であることをはっきり示してくださるときにはじめて、この謎が解けます。そして、そのあとでイエス様御自身が私たちにとって模範にもなるのです。

イエス様は私たちにとってまず第一に賜物であり、そしてその次に模範なのです。もしも人がイエス様をたんなる模範とみなすなら、その人は真のイエス様を理解してはいませんし、クリスチャンでさえありません。私は「クリスチャン」です。「キリストと共に十字架につけられた者」です。なぜなら、キリストが私をクリスチャン、「神様のもの」にしてくださったからです。そして、私の残された全人生は、私の偉大な模範(師匠)に学び従っていくという、心躍るチャレンジにほかなりません。


(聖書の引用は口語訳からのものです)