ローマの信徒への手紙7章 罪の圧制の下で

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

「ローマの信徒への手紙」全体を通じて、この第7章こそが最も力強い章であると言えるでしょう。まさにこの章に基づいて、「キリスト信仰者は同時に罪深い存在でもあり聖なる存在でもある」、と私たちは教えることができます。ですから、 この章の与えてくれる大きな慰めを自分にあてはめて受け入れることができるように、今とりわけ心を引き締めて聖書を読むべきなのです。というのは、神様の御言葉の伝えるこの真理を否定したり忘れたりする教えが今の時代にも流布しているからです。しかし、そのような教えによるかぎり、キリスト信仰者は己の行いの奴隷となりはて、希望のない生活を際限なく送ることになってしまいます。

律法から離れなさい 7章1〜6節

人は、神様のお定めになった戒めに完全に束縛されています。かりに人が戒めに反して自分勝手に行動したとしても、例えば第7戒(「盗んではならない」)などの戒めが有効であることは変わりません。たとえ教会の指導者や大学の教授たちが一群となって押し寄せ、「現代ではこのような戒めにもはや従う必要がない」、と教えたとしても、まったく無駄なことです。主の御前では、 十戒の刻まれた板の下からは砂のかけらさえ移動されてはいないからです。神様がお定めになったことがらは永遠に有効であり続けます。パウロはここで実に的確なたとえを用いています。「私たちは神様の律法と結婚している」、と言うのです!それは、「私たちは十戒から別れることができない」、という意味です。「神様の戒めなど気にしない」、といくら言い張ったとしても、それらの戒めは私たちを私たちが生きている間ずっと束縛しており、そして最後には神様の御座の前で責め裁きます。人は誰も自分の罪深さを告発するこの起訴状から逃れることができません。

このテーマを展開する傍らで、ひとつ注目すべき点があります。それは、結婚が生涯にわたって続くものであることを定めた神様の規定をパウロが絶対的なものとみなしている、ということです。このことについて、パウロは「コリントの信徒への第一の手紙」7章でも述べていますし、また、イエス様は「マルコによる福音書」10章で教えておられます。結婚は聖なるものなのです。結婚が現代でどれほど軽く扱われていようとも、それは変わりません。

人間は、神様の妥協なき御旨と責める律法という「結婚相手」から決して別れることができません。このような存在である人間にどのような助言を与えることができるでしょうか。結婚を終わらせる方法をパウロは一つだけ知っています。それは死です。それと全く同様に、私たちを律法から引き離す方法を、パウロは一つだけ知っています。やはりそれも私たち自身の死です。これは、「人間は皆いつか必ず死ぬ」、という意味ではなく、「ゴルゴタの十字架に磔にされた主イエス様と生死を共にする」、という意味です。

ここで、「ガラテアの信徒への手紙」2章の終わりの箇所を取り上げることにしましょう。パウロは同じテーマについてそこでより詳しく述べているからです。それによれば、私たちはキリストと共にゴルゴタの十字架に磔にされています。キリストが死者の中からよみがえらされた時、私たちもまたよみがえらされたのです。パウロは前回扱った「ローマの信徒への手紙」6章で、私たちは洗礼を通してキリストと生死を共にするようになる、と語りました。洗礼の恵みは私たちに全く新しい生き方を伝えてくれました。それはキリストと結びついて生きることです。新しい生き方には全く新しい律法が適用されます。神様の御旨にどれほどよく従ったか、私たちが尋問を受けることはもうありません。「神様の子ども」という資格を自分のよい行いによって獲得するための努力ももういりません。私たちは賜物としてそれをいただいているからです。

すると、次のように誤解する人もいるかもしれません、「これは好都合だ。私は律法に対して死んでおり自由になっているのだから、自分のやりたいようにやればよいことになる。何をやろうがもう罪ではないのだから」。しかし、新しい生き方をする人は決してこのようには考えません。パウロが念を押しているのはまさにこの点です。律法との不幸な結婚生活の中で人間は罪を行い、死に至る実を結びました。しかし、今や私たちは自由の身にされて、以前とは全く異なる生き方をするようになり、「御霊による新しい状態の中で」(6節)神様に仕えているのです。

それでは、律法は悪いものなのでしょうか 7章7〜13節

ここでパウロは、彼の話を聞く人がしがちであろうと思われる反論をあらかじめ取り上げています。パウロが言うように人は律法から離れるべきであるのなら、律法は悪いものだということになるのでしょうか。もしも律法が悪いものだとすれば、それならどうして神様はそもそも人間に苦しみをもたらす律法などをお与えになったのか、という問題です。モーセの律法も神様からいただいたものだったからです。

パウロはこの反論を厳然と否定します。彼は「断じてそうではない」という強い表現によって、神様を侮蔑するこの反論の姿勢をはっきり拒みました。律法は素晴らしいものであり善いものです。もしも律法に従うなら、すべてはうまく行きます。律法自体には何の落ち度もありません。神様が人間に律法をお与えになったことも、決して間違いではありません。律法は善いもので、神様も善い方です。しかし、人間は善い者ではありません。落ち度は、律法に従うことができない人間の側にあるのです。

人間は神様の定めてくださったあらゆる善い正しい規則に目を向けるとき、自分自身の罪深さも見ざるをえなくなります。神様のすべての戒めを守ることは、人間にはどうやっても不可能です。聖なる者たらんと努力を重ねれば重ねるほど、それに応じて、律法は努力を続けるその人の罪深さをより明瞭に示してきます。いつまで経っても人間は、神様が意図された「本来の人間の姿」とはかけ離れた状態のままなのです。律法が私たちに示してくれることは、「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている」(「ローマの信徒への手紙」3章23節)、という御言葉に集約できるでしょう。

律法は悪いものではなく、善いものなのです。問題はそれを守ることができない私たち人間の側にあります。こうして、それ自体は善いものである律法が私たち人間に死をもたらすことになってしまったのです。ところが、それと同時に神様の御旨も実現することになりました。それは、律法のおかげで私たちは自分が罪深い存在であることがようやくわかるようになった、ということです。

この罪深く、また聖なる者! 7章14〜25節

この箇所が第7章の核心です。パウロがここで誰について話しているのかをめぐって多くの議論が戦わされてきました。それらは大きく二つに分けられます。パウロがここで意味しているのは「まだ神様の方に向き直る以前の段階にいる非キリスト信仰者のことだ」という考え方と「キリスト信仰者のことだ」という考え方です。パウロは、「キリスト信仰者は罪深い者であると同時に聖なる者でもある」、と言いたいのでしょうか、それとも、「キリスト信仰者は罪のない状態でよい生活を送ることができる」、と言いたいのでしょうか。この問題は決定的に重要なものです。

教会の歴史で指導的な役割を果たした教会教父たちの多くは、「この箇所は非キリスト信仰者について語っている」、と理解しました。こうした理解を共有する教会には、たとえばローマ・カトリック教会がありましたし、また、信仰者の聖化(つまり、信仰者が具体的に聖なる者となっていく過程のこと)を重視する多くのプロテスタント教会もそうでした。「神様に自分を委ねたはずの人間が相変わらず罪深い存在でありえようか」、と彼らは考えます。聖書学者の大多数もこの立場を支持しています。

しかし、アウグスティヌスなど数人の教会教父たちはそれとは異なる立場を取りました。そして、これは後にルターの神学の礎ともなりました。すなわち、「パウロはこの箇所で、ほかでもない自分自身の罪深さを嘆くキリスト信仰者について語っている」という見方です。ルター派の神学はこの立場を取っています。この問題の一番大事な論点は、ここでの対象がキリスト信仰者か、それとも非キリスト信仰者か、ということです。それに比べると、ここでの対象がパウロ自身のことなのか、それともキリスト教徒一般のことなのか、ということはさほど重要ではありません。

それでは、「パウロはここでキリスト教徒を意味している」という見解に基づいて話を進めて行くことにします。この見解を支持する聖書的な根拠として、この世での人生の歩みを終えた後でようやく訪れる罪と死からの解放をパウロが心から待ち望んでいる、という「コリントの信徒への第一の手紙」15章50〜58節 をあげることができます。聖書的な根拠として、もう一箇所、「ガラテアの信徒への手紙」5章17節 をあげておきます。

パウロはこのテーマについての話を次のように続けていきます。律法自体には何の落ち度もありません。人間の側にこそ問題があるのです。「私は善を行うことができない」、とパウロ自身、告白しています。彼は神様の律法に従うことができず、彼の心の中には彼に悪いことを行わせる罪が住みついています。人間は自分の行いが悪くて間違っていることを知りつつも、自分の罪深さに束縛されています。人間は善を行うことを望んでも、それを実行する力に欠けています。人間は悪を行うことを望まないとしても、やはりそう行っています。なぜなら、心の中に住みついている悪の方が人間よりも強いからです。

このように、パウロは相反する二つのものの間にいます。一方で、彼は喜んで神様の律法の教えに賛同し、それが善いものだと、証します。他方で、彼の中には悪が住みついており、彼に悪いことを行わせます。パウロはこの二律背反の構図から逃れることができません。 いかにして罪が人間をがんじがらめにして神の御国の外側に追いやるものか、人は自らの身体の感覚によっては察知することができません。

「私は惨めな人間です。誰がこの死の身体から私を救ってくれるのでしょうか」(24節)。これはパウロの心からの嘆きの言葉です。その同じ心からは神様への感謝も出てきます。キリストは人間の罪の罰の一切を代わりに引き受けてくださいました。そのおかげで、罪深い人間は「神様の側に属する者」とされたのです。

キリスト信仰者は他のことと比べて、とりわけ自分の罪深さと弱さに関しては、それらを瞬く間に忘れてしまう傾向があります。この世にいる限り、彼らは自分の罪深さを気にもかけず悲しみもしないで過ごしていることがしばしばあります。ところが、ひとたびキリストの意味がわかるようになると、今まで雑然としていたすべての事柄が徐々に整理整頓されていくようになります。キリストを信じるようになったばかりの人は自分自身の罪深さを過小評価しがちです。その罪の内容は、たとえばコーヒー依存症だったり、異性を視線で追うことだったり、過去の趣味への執着だったりします。人間は心が神様に向かって燃えている時には、 神様が捨てるように望んでおられる事柄を素直に捨てて、ひたすら主に向かって生きて行く心の準備をするものです。こうした態度には、信仰生活に入ったばかりの人が周囲に放つ初々しい愛の香りが漂っています。ですから、信仰生活に入ってまだ日が浅い人に対しては、厳しすぎる態度をとってはいけません。もちろん、しばらくすると神様は、もう少し深い世界を眺めるようにとその人を教えてくださいます。ただし、このことが実現するためには、聖書に基づく「律法と福音」についての教えがその人に正しく宣べ伝えられている必要があります。

ある種の特定の罪は重大な罪であるとみなされます。たとえば、神様を無視して生きていた時に浮気をしたことがあるとか、飲酒の虜になったとか、何かを盗んだとか、といったことです。神様はこれらの罪から人間を解放して御自分の民に加えてくださいました。しかし、ここで言っておくべき大切なことがあります。それは、上記のような罪の行いをやめても、もしそれだけだとしたら、たんに皿の外側をきれいに磨くことと変わらない、ということです。皿の内側がそれを覗き込む誰もが気分を害するほど汚れたままなら、はたしてその人の状態は本当に改善したと言えるのでしょうか。実は、神様の御前で私たちはまさにそのような存在なのです。人間の心は腐敗の源です。その中から絶えず新たな腐敗が湧き出てきます。たとえ目立つ最悪の罪の行いが除去されたとしても、悪の源泉自体は依然として温存されたままなのです。具体例で説明しましょう。暴力行為をやめるかわりに意地悪な態度を取るようになったり、盗みをはたらくかわりにある程度の物欲と物事への執着が生まれたり、実際に浮気するかわりに心の中で密かに行ったり、悪い行いをするかわりに悪い言葉を吐いたり、悪い言葉のかわりに悪い考えが浮かんでくる、といった具合です。

「神様の身内の者」とされたはずの人にとって、それでも万事がうまく運ぶわけではないことに気がつくのは、かなりの動揺をもたらすことかもしれません。神様が私たちに私たち自身のありのままの姿を少しでもお示しになろうものなら、私たちはそのあまりのひどさにすっかり希望を失ってしまうかもしれません。「もう罪がないはずだ」と私たちが思いこんでいるところからさえも、あいかわらず罪が見つかってしまうことになるからです。隣り人や友だちや自分の家族との関係からも罪が見つかります。また、行いや言葉や思いの中にも依然として罪が残っています。私たちの信仰生活が様々な罪で満ちているという事実は正視には耐えられないほど衝撃的なことかもしれません。信仰生活は不信仰と不確実な事柄であふれかえっています。人間が神様の御旨に対して根強い疑いを抱いていることが、その一例です。私たちは自らの罪深さを嘆くこともしませんし、神様が憎まれる事柄を憎むこともしません。神様の愛についても、本来なら私たちが喜びに満たされるはずの事柄なのに、そうなりません。これらのことが罪でなくて一体何だというのでしょうか。要するに、私たちは文字通り、神様の栄光を欠く罪深い存在なのです。もしも神様が私たちを裁き始めるなら、私たちは全員、主の御前から永遠の滅びの世界へと落下して行くほかありません。

今までの御言葉の学びを通じて、私たちはパウロと共に、神様に助けを願い自分自身の惨めさを素直に告白する準備ができました。パウロは自分が「キリストの側に属する者」であることを信じて告白しています。私たちもまたこのパウロに倣って、自分たちが「キリストの側に属する者」であることを告白できるのが望ましいです。神様は私たちの抱えている惨めな罪深さをよくご存知です。たとえ私たち自身にはその惨めさのごく一部しか見えていないとしても、神様はその全体をすっかり見通しておられます。まさにそれゆえに、聖書は次のように教えています、「父親がその子たちを憐れむように、主の憐れみは御自分を畏れる者たちの上にあります。主は私たちの造られた様をご存知であり、私たちが塵にすぎないことを覚えていてくださるからです」(「詩篇」103篇13〜14節)。私たちは本来なら地獄に落ちるのが当然の罪深い者です。それでも私たちはキリストの血によって清められており、まったく落ち度のない存在、神様にとって言いようもないほど愛しい存在とされています。これは私たち自身の行いに対する報酬ではなく、ゴルゴタで御自身をささげられたイエス•キリストの十字架の御業のおかげなのです。これはたしかなことです。主の使徒であるパウロの口を通して、神様の御言葉がそう証しているからです。


第7回目の集まりのために 「ローマの信徒への手紙」7章

キリスト信仰者の内部では、罪と義の間での戦いが絶えず繰り広げられています。キリスト信仰者は、この地上で生きている間は、まったく罪のない状態にはなれません。神様の御前では、彼らは様々な欠点を抱えた罪深い存在のままなのです。それにもかかわらず、人間は、ひとえに主キリストのゆえに、神様に受け入れていただけるようになっています。

1)キリスト信仰者が自分の罪深さを見る時、その理由について次の二つの「解答」が提示される場合があります。
解答A)人というものはいつも弱い存在です。もしも自分がいろいろな欠点を抱えている人間であることを素直に私たちが認めないなら、それはとても危険なことです。とはいえ、私たちが神様の御旨に反したことを行っている事実をとりたてて大げさに考える理由はありません。なぜなら、神様は人とはまったく異なる存在だからです。
解答B)信仰の戦いがうまく行かない原因は、人が神様に自分自身を神様に完全に明け渡していないところにあります。ですから、人は新たに洗礼を受け直さなければ、信仰の戦いを勝ち切ることはできません。
これらの考え方についてどう思いますか。「ローマの信徒への手紙」7章に基づいて話し合ってみてください。

2)人間は神様の御旨を破っている、という現実の状態を指摘したとしましょう。これは、キリスト信仰者が神様のご命令から完全に離れてしまった、という指摘と内容的に同じものなのでしょうか。

3)今まで聖書研究会で「ローマの信徒への手紙」を学んできた皆さんにききます。もしさしつかえなければ、皆さんが今まで戦ってきた、あるいは今もなお戦い続けている信仰の戦いについて具体的にオープンに話し合ってみてください。

終わりのメッセージ

「このようにして、私自身は心では神様の律法に仕えていますが、肉では罪の律法に仕えているのです」
(「ローマの信徒への手紙」7章25節より)。

これは、同じ一人の人間が「神の律法」と「罪の律法」とに同時に仕えている、というとても明確なメッセージです。人は義とされた存在であると同時に罪深い存在でもある、ということです。ただしパウロはここで、「私の心は」神の律法に仕えています、とも、「私の肉は」罪の律法に仕えています、とも言ってはいないことに注意しましょう。「私は」、とパウロは言っています。つまり、同じ人格である一人の人間、「私」という全存在が同時に二面的な事柄に仕えているのです。そういうわけで、彼は自分が神の律法に仕えることができることを感謝するとともに、罪の赦しをも願っています。なぜなら、彼は罪の律法にも仕えているからです。しかしこれは、肉的な存在である人間が神の律法に仕えている、という意味ではありません。私が先ほど言ったことを思い出してください。聖なるキリスト信仰者たちは、同時に、罪深い存在でもあり義とされた存在でもあります。彼らは義とされています。なぜなら、彼らはキリストを信じており、 彼らを覆うキリストの義を「彼らの義」として父なる神様が認めてくださっているからです。しかしその一方で、彼らは依然として罪深い存在でもあります。なぜなら、彼らは律法を完全に守ることも罪深い欲望をもたずに生きることもできない、いわば医者にかかりっきりの病人に等しい存在だからです。実際、彼らは依然として病気なのですが、その一方では病の癒しも始まっているので、いつか健康になるという希望ももつことができます。つまり、彼らは治りかけの患者のようなものであり、今後の健康は予断を許さない状態にあります。処置の仕方によっては、以前よりも症状が悪化する可能性もあるからです。

(マルティン・ルター 「ローマの信徒への手紙についての講義」より)