ローマの信徒への手紙12章 同じ身体の一部として

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

ここまでで、パウロは義認論とそれに直接関連する諸問題の説明を終えました。その内容を復習しておきましょう。第一に彼は、すべての人間が神様の御前で罪深い存在であることを示すことに重点を置きました。次に彼は3章以降で、信仰による義について語りました。「教会とユダヤ人」と題された前回では、イスラエルのかたくなな不信仰が引き起こす諸問題が取り上げられました。それは「信仰を通して異邦人を義となさった神様は御自分の民を捨ててしまわれたのか」という問題です。今やそれらについての説明が一通り済みました。

ここから先、パウロはこれまでとはまったく異なる話題、すなわちキリスト信仰者の生き方についての考察に移ります。

パウロの手紙では、この手紙に限らず次に述べるような順序で内容が提示されることが多く見られます。まず彼は、私たちが神様からどのような賜物をいただいているか、語ります。その後でおもむろに、キリスト信仰者の生き方について語り始めます。「エフェソの信徒への手紙」や「ガラテアの信徒への手紙」でも同じ構成をとりますが、これはただの偶然ではありません。私たちの善い行いはそのどれもが、神様がまず私たちを愛してくださったことの反映した結果に過ぎません。ひとえに神様の恵みにより、キリストの死のゆえに、私たちは罪の赦しと「神様の子ども」としての地位をいただきます。このことをキリスト信仰者の正しい生き方と混同してはいけません。しかし、救いについての教えが基本からきちんと説明された後でなら、キリストの愛がそれを受けた私たちに何をするよう諭しているか、思い起こすのが当然であるといえます。次の順序は大切です。

「私たちは愛します。
なぜなら、キリストが私たちを愛してくださったからです」。

世に歩調を合わせず、神様に仕える生き方 12章1〜2節

キリスト信仰者の生き方についての指示に従うように、とパウロは厳かに奨励します。神様が私たちを愛して憐れんでくださったのだから、私たちのほうでも自らを活ける供え物として神様に差し出さなければなりません。キリストがすべての人を罪から救い出すために自らを顧みることなく十字架にかかり死者の中から復活なさったのですから、人間もまた自己中心的な生き方をやめるべきなのです。御旨を伺いながら喜んで神様に仕える時が到来しました。

神様の御言葉が私たちにどのような責務を課しているか、私たちは絶えず問いていく必要があります。これとは異なる生き方の例として、「この世に歩調を合わせる」(2節)態度を挙げることができます。これがどういう意味かは簡単に理解できるでしょう。「一般の人にとっては神様とその御言葉には意味がないのに、どうして自分だけが時流に逆らう生き方をしなければならないのか」といった思いに人がとらわれたとしても当然であるように思えます。それでもなおパウロは、「この時流に逆らった生き方をするように」と私たちに奨励しています。キリストを礼拝する者は否応なく時流に背を向けざるを得なくなるものだからです。

キリストの身体の諸部分 12章3〜8節

教会がキリストの身体であることを読者に思い起こさせつつ、パウロは話を続けます。深い内容を含んだこのイメージは聖書の他の多くの箇所にも登場します(「コリントの信徒への第一の手紙」12章、「ガラテアの信徒への手紙」3章27節、「エフェソの信徒への手紙」5章22〜32節、「コロサイの信徒への手紙」1章19節)。私たちは洗礼を通してキリストに結びつけられています。これによって、私たちたくさんの人間が「キリストの身体」という一つの活ける存在になっているのです。この事実は私たちが教会の中で共に生きていく上での基点となります。私たちは皆が一緒に機能する個体なのです。私たちの使命は、同じ目的のために一致団結して綱を引っ張ることです。私たちには皆それぞれ賜物が与えられています。

私たちは皆それぞれちがう個性を持っており、人間的な弱さのゆえに自分にとって都合のよいことを大切にする傾向があります。しかもその一方では、他の人たちの傾向や希望には理解を示そうとしません。パウロが語っているように、人は神様から何か特別な恵みの賜物をいただくと、いともたやすく驕慢になり、自分とはちがう他人のことを理解しようとする努力をやめてしまうことが多いものです。

たとえば牧師の仕事や、特別な恵みの賜物、聖書会を継続する力など、神様から委ねられている職務や使命は人によって様々です。これらの使命を実行する立場にある人たちは全教会員の最善を考えて行動するべきです。キリストの教会ではひとりで目立つ働きをしてもよい場合がありますが、教会の成長と宥和に資するように皆が互いに仕え合うのがその本来のあり方です。

キリスト教会の一員として私たちはこの点で大いに反省すべきでしょう。教会では牧師を中心として物事が運ばれる場合がしばしば見られます。たしかに牧者の職務は教会に委ねられた高く評価されるべき大いなる賜物です。しかし、教会には他にも大切な種々の賜物が与えられています。神様の御心に適うかたちで私たちが責任を分かち合い十分に機能する有機的なひとつの個体となるためには、いったいどうすればよいのでしょうか。一案として、教会員が各々「牧者」の自覚をもって福音伝道の責任を分かち合い、まずは家庭で御言葉を伝えていくようにしたらどうでしょうか。ただし、ここでいう「牧者」とは聖礼典(洗礼と聖餐)の施行のために教会が任命する職務としての牧師ではなく、キリスト信仰者全員に委ねられている御言葉を宣べ伝える務めのことです。「万人祭司制」と呼ばれることもあるこの務めには、家庭で聖書を読み祈る習慣を守ったり、キリスト信仰者たちが賛美歌を歌うために集まったり、受洗した人の信仰を教保が信仰者の先輩として支える、といった使命を真面目に実行していくことなども含まれています。これらの働きを通して、私たちは一般の教会員としてキリスト教会の責任を積極的に引き受けて行くことの大切さを学ぶことができるでしょう。また、それによって大いなる祝福が教会全体に訪れることでしょう。

信仰は活動的な愛を生み出します 12章9〜21節

キリスト信仰者にふさわしい愛を保つことを主要な目的とする数多くの指示をパウロは与えています。私たちもまた「こうしなさい、ああしなさい」と互いに指示を出し合うことができます。しかしその際、ある特定の規則や義務だけが念頭にあるのなら、まだ私たちは神様の望まれるようには生きているとはいえません。他の人々に対する愛が私たちの心の中に芽生えた段階になってようやく、私たちは「神様の特派員」としてこの世の中で活動するようになるのです。その時には、私たちは「やらねばならないのか」とか「こうするほかないのか」などと考えたりはしません。その時には、私たちの心の中にはイエス•キリストが住まわれ、私たちの隣り人に対して率先して奉仕してくださるからです。このような愛は、 キリスト信仰者としての兄弟姉妹の温かな愛情と他の人たちを尊重しようとする態度とを私たちの心にもたらします。

パウロのこの手紙がようやくこの段階になって「キリスト信仰者の生き方」について語っている理由を私たちはここで理解します。「彼らの喉は開いたままになっている墓です。彼らはその舌で人を欺き続けています。彼らの唇の下にはまむしの毒があり、彼らの口は呪いと苦々しい言葉とで満ちています」(「ローマの信徒への手紙」3章13〜14節)。このような人間の状態はキリスト信仰者にふさわしいものではありません。しかし実は、もともと私たちはこのような者なのです。それでも、私たちの中に住んでおられるイエス様は私たちの心の中に真の愛を注ぐことができます。このことが実現するのは、イエス様が私たちから石の心を取り除き、その代わりに肉の心をくださった後です。この「石の心」と「肉の心」という表現は旧約聖書の「エゼキエル書」に由来しています。「そして、私は彼らに一つの心を与え、彼らの内に新しい霊を授け、彼らの肉から石の心を取り去って、肉の心を与えます」(「エゼキエル書」11章19節)。イエス様が私たちを愛してくださっていることを実際に見ることができた後で、ようやく私たちは他の人たちに仕えることができるようになります。

「愛すること」と「神様の戒めを守ること」とは互いに正反対のことであるとみなされがちです。また、こうした考えかたに基づいて聖書をあたかも法律書のように読む人たちもいます。「愛がそれを要求する場合には、神様の戒めを踏み越えて行動してもかまわない」と理解する人々もいます。後者の考えかたにはいろいろと正しく良い点もあります。愛は法律の条文をめくるようなものではないからです。愛は仕えるものであり、新しい機会をたえず利用して隣り人を助けようとするものです。聖書の文言をあれこれ調べるだけでは、たんなる道徳主義とさほど変わるものではありません。そこには、自らを捧げる真の愛がまだ欠けているともいえるかもしれません。そうであっても、「神様の御言葉」と「キリスト教に基づく愛」とを互いに切り離して対置するのは危険なやりかたです。神様は私たち人間よりもはるかに賢く大いなるお方である、と私たちキリスト信仰者は信じています。私たちは神様の御言葉と戒めに結びつけられているのです。それらを踏み越えてはいけません。また、「あえてそうすることで他の人々をよりよく愛することができる」などと思い込むべきでもありません。神様の定めた一連の善い規則(ルール)は私たちの愛のありかたを示し導いてくれるものなのです。私たち人間が自分の愛に対して取れる程度の責任とは比較にならない忠実さで神様は御言葉、すなわち御自分が命じられたこと(律法)と約束されたこと(福音)について責任を取ってくださるからです。

パウロは多くの適切な指示を与えるかたわら、「可能なかぎり、キリスト信仰者は皆と平和を保ち、仲良く暮らすべきである」、と説明します。そして、キリスト信仰者は受けた不当な仕打ちに対して自分で復讐すべきではないことを繰り返し強調します。キリスト信仰者が当時実際に受けていた迫害が、この指示に関連してパウロの念頭にあったのは間違いありません。当時はまだローマ帝国全域にわたる大規模な迫害は始まっていませんでした。しかし、一般の人々のキリスト教に対する憎悪がいつどこで噴出してもおかしくない、一種即発の緊張状態が続いていました。このような状況下でも、パウロはキリスト信仰者に平静さを保つよう要請しています。悪に対しては悪をもって報いてはいけません。私たちはオオカミの群れの只中にあっても、自分までが吠え猛るオオカミになってはいけないのです。私たちはいかなる状況においても神様の下される裁きに委ねるべきです。神様は正義の裁き司であり、裁く権利を保持する唯一の存在です。「善をもって悪に勝つ」のがキリスト信仰者のやるべきことです。

困難な状況下にいたパウロのこのメッセージは、平和な社会に生きている私たちを恥じ入らせるものです。キリスト教徒への迫害は現在でもなお世界各地で頻発しています。それなのに、私たちはそれらの迫害を気に留めない飽食の時代のキリスト教徒なのです。心の平安が必要だと感じたら、教会に行って気分転換をはかることもできるし、家に帰ってくつろぐこともできます。「私たちは神様に属するキリスト信仰者であるがゆえに、今にも誰かが我が家に火を放つかもしれない」、などという恐怖を抱く必要が今の私たちにはありません。これは、経済的に豊かな社会で生きるキリスト信仰者に与えられた特有の試練であるとも言えます。この試練の中にあって、私たちの愛ははたして存続しているでしょうか。職場での険悪な人間関係の泥沼にはまり込んでいる人がどの程度いますか。近隣の人々といがみ合ったり冷戦状態だったりする人はいったいどのくらいいるでしょうか。また、家庭ではどうでしょうか。家族が互いに対して自分の悪かったところを謝ったり、罪を赦し合ったり、仕えたり、愛情を持って接したりしていますか。それとも逆に、腹を立てたり、文句を言って周囲をいらだたせたり、自分でもイライラしたりしているのでしょうか。

12章の終わりにあるパウロの伝える御言葉は厳かな高貴さを湛えています。大部分の人にとって、それは内容のないうつろに響く言葉の羅列にすぎません。しかし、本来ならそれは各人が日常生活の中で実行して行くべきことがらなのです。日々実践を積み重ねていくにつれて、 罪に堕落した悪の世にも「神の御国」が根を下ろしていきます。少なくとも神様の御旨に従おうと努める時に、私たちは自分が罪深い存在であること、それゆえに私たちの身代わりとして罪の罰を引き受けてくださったキリストを必要としていることを理解するのです。

まとめ

この章の教えのまとめとして短いたとえ話をしましょう。キリスト教徒は大まかに二つのタイプに分けられます。一つのタイプのキリスト教徒は「靴職人」として認められたくて靴を作り続けているような人々です。彼らは「私が一人前の靴職人とみなされるためには大小様々な形の靴をどれだけ大量に作らねばならないのだろうか」とずっと思い悩んでいます。このタイプのキリスト教徒の人生は良心の呵責を覚えながら仕事を続けているようなものです。もう一つのタイプのキリスト教徒は「自分は靴職人なのだから靴を作れるのは当たり前だ」という考えかたをします。それに対して、次に考えるキリスト信仰者は正しい順序で物事を見ていると言えます。すなわち「キリストが私を神様の子どもにしてくださったのだから、そのような私の受けている使命は神様の子どもとしてふさわしい生き方をすることである」ということです。どのような生き方をしても、どのような仕事をやり遂げても、またいくら涙を流したところで、あなたは自分を「神の御国に属する者」にすることができません。それを実現してくださったのは、あなたのためにゴルゴタの十字架で死なれたキリストなのです。


第10回目の集まりのために

「ローマの信徒への手紙」12章

 義認とそれをめぐる問題を詳細に説明した後で、パウロは「キリスト信仰者の日常生活」へと話題を移します。この12章の核心はキリスト信仰者が互いに一致協力して活動することへの勧めです。

1)パウロによれば、キリスト教会は活動する一つの生命体であり、一人一人のキリスト信仰者は皆が同じひとつの身体を構成する成員です。キリスト信仰者にはそれぞれ自分の使命があります。嫉妬や劣等感がキリスト信仰者の間で神様の御旨の実現をどれほど妨げていることか、考えてみてください。

2)教会では牧師の周りにすべての活動が集中してしまう傾向がしばしば見られます。牧者の教職は教会に与えられた大きな賜物であり、大切にするべきものです。
しかし、私たち教会員が責任を分担し合って共に活動する一つの信徒の群れとなることを学ぶためには、どうすればよいのでしょう。
そのために自分の家庭ではいったい何をすることができますか。
定期的に家庭礼拝の時をもつことはできていますか。
神様への賛美を歌う集会をもつために自宅を他の人たちにも開放する人はいますか。
洗礼を受けた子どものキリスト信仰者としての霊的な成長を支える「教保」(ゴッドファーザーやゴッドマザー)としての責任をあなたは果たしていますか。

3)愛することと神様の戒めを守ることはよく対比されます。「愛は律法の条項に目を向けたりするはずがない」という考えかたがその背景にあります。しかし、「私たちが自分の愛について責任を取るよりもはるかにちゃんとしたやりかたで、神様は御自分の言葉について責任を取ってくださるのではないか」とも言えるのではないでしょうか。

4)「悪をもって悪に報いることがないように」とパウロは苦境に立たされているキリスト信仰者たちに警告しています。これはキリスト教大迫害の際に「キリスト信仰者の行動原則」として提示された教えでもありました。悪は善によって勝つべきであり、裁きは神様の御手に委ねるべきなのです。信仰のために自宅が焼き払われたり公的権力によって拷問を受けたりすることがない国に住んでいる現代の私たちの場合には、それとは別の種類の試練があります。生活福祉が機能している社会にも職場には諍いがあるし、隣人関係が冷えきってしまう場合があります。また、家庭内にも様々な問題が生じてきます。
これらのことに身に覚えのある人は皆さんの中にどれだけいるでしょうか。

終わりのメッセージ

恵みの上に恵みを加えて

神様の恵みの豊かに溢れ出る源から、救いの賜物とすべての宝物は私たちのもとへと流れ込んできました。まったくの恵みから、自分の行いではなく主の御業に基づく愛のゆえに、神様は私たちに救い主として御自分の独り子を賜りました。まったくの恵みから、神様は私たちをこの愛する御子において受け入れて、すでに世の基の置かれる前から「御自分のもの」として選び出してくださいました。まったくの恵みによって、私たちをあがなうために十字架で流されたキリストの血のゆえに、神様は私たちのすべての罪を日々赦してくださいます。まったくの恵みのゆえに、神様は私たちを聖別して「新しい人」にふさわしく御言葉に従順な生活を送れるように聖霊様を私たちに賜ります。このようにして、神様の豊かな恵みのゆえにすべてが私たちに与えられ、贈り物として届けられるのです。私たちから求められているのは、私たちが「恵みを恵みとして認めること」です。これは、今まで述べたすべてのことを信仰によって「神様からの贈り物」として無代価で受け取ることであり、自分の行いによる功績によっては決してそれらを取得しようと試みないことです。私たちは自らの功績などは一切無視し、自分にできることや自分の罪からも目を閉ざして、あふれるほど豊かな恵みをキリストにおいて啓示してくださる神様の御言葉のみを見つめることを学ばなければなりません。

F. G. Hedberg