ローマの信徒への手紙15章 壮大な計画

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

今回取り上げる章で、パウロは世界伝道を進めるための計画を公表します。しばらくの間大使徒と一緒に腰を下ろして、この計画がどのように実現するか、息を凝らして見守ることにしましょう。その話題に入る前に、パウロはこの15章でも前章ですでに取り上げた内容をひき続き考察しています。どのようにキリスト信仰者がお互いに愛を持って配慮し支え合うべきか、パウロは語り続けているのです。このことについてはすでに前回に検討を加えました。依然として難問である、この周知の課題を復習することにしましょう。15章で、さらにパウロは大切な視点を新たに提示しています。

キリストの模範 15章1〜6節

キリスト信仰者たちが互いにどのように愛し合うべきか、また、彼らの間に生じうる(意見のなどの)相違をいかにして愛によって覆うべきか、パウロは今まで長文を重ねてきました。教会員各自が他の人のことを配慮するよう心がける時に、教会員同士の関係がもっともよい形で保たれることになります。「強い」キリスト信仰者は「弱い」キリスト信仰者が躓いて信仰の道から外れてしまわないようにするために、自分のもっている霊的な自由をあえて行使しないほうがよい場合もあることを念頭に置いて行動するべきである、とパウロは強調しています。最初の節で彼は、自分がすべての食べ物を等しく清い物として神様の御手から感謝して受け取ることができる「強い」キリスト信仰者であることを認めています。また、彼はユダヤ人の祝祭の暦の問題についてもこれと同じ姿勢で臨みます。パウロが自らの振る舞いによってキリスト信仰者のあるべき模範を示したことを、私たちは前回確認しました。

今回ついにパウロは最終的な根拠を提示します。それは、キリストも自らを喜ばせるような生き方をなさらなかった、というものです。まさにキリストは弱い者たちのために御自分の栄光と自由をお捨てになったのです。それゆえ、神様の御国に属する者が、傲慢になりがちな自己を退けて、自分よりも弱く(見える)者たちの弱さや理解力不足を共に担っていく態度を学ぼうとする時には、ほかならぬイエス様御自身が最良の模範となります。イエス様は、忍耐強く愛の奉仕を行うように、と私たち皆を招いておられます。
 このことについて語られているパウロの手紙のもう一つの大切な箇所は「フィリピの信徒への手紙」2章5〜11節です。それによると、キリストは神様の御姿であられたのに、御自分を空しくして「僕の姿」となられました。キリストは仕えるために、他の誰も決してなし得なかったほどまでに御自分を低くなさいました。苦しみを甘受なさるキリストの愛のイメージが心に浮かぶならば、私たちは異なる意見の持ち主に対しても、以前にも増して忍耐強くその理解に努めることができるでしょう。しかしその一方では、エルサレム神殿から商人たちを追い出したイエス様と、ガラテア教会の一部の信徒たちと徹底的に争ったパウロは、神様の御言葉の真理を隠蔽してはならないことを私たちに示す最高の模範になっています。真理を意図的に隠すことも問題ですが、それとは逆に、自分を他の人たちよりも上位に置こうとする霊的な高慢さも好ましくありません。

キリスト信仰者として生きる勧めの結び 15章7〜13節

この箇所でパウロは、キリスト信仰者の生き方について伝えたかったすべてのことを語り終えます(12〜15章)。キリストは「割礼を受けた者たち」の僕となられるために、すなわちユダヤ人たちを解放するためにこの世に来られました。こうして神様はアブラハム、イサク、ヤコブにお与えになった契約への忠実を示してくださったのです。その一方で、憐れみ深い神様は多くの異邦人(非ユダヤ人)たちのことも御許に招いてくださいました。こうして、いつの日か異邦人たちもイスラエルの神様を賛美するために御許に集うという、すでに旧約聖書に約束されていた預言が実現しました。
 キリストは、ユダヤ人のことも異邦人のことも同じように大切にしてくださる全世界の救い主としてこの世に来られました。キリストが私たちのことも大切にしてくださったのですから、私たちもお互いのことを大切にしなければなりません。このようにして福音はこの世に新たな希望と愛を生み出して行くのです。この悪の世の「外部」、すなわち神様御自身に由来する喜びと平和を、正しい信仰は与えてくれます。

パウロはあまりに革新的なことを書きすぎたのでしょうか? 15章14〜19節

パウロは手紙を締めくくる用意にかかります。彼はまず信仰による義について話し、それからキリスト信仰者の生き方について話しました。彼はこれら二つのテーマについて、彼らしい激しさと熱意を込めて書き進めて来ました。この情熱は「ローマの信徒への手紙」の中に明瞭にあらわれています。自分のこの熱心さが誰のことも傷つけはしなかったか、彼は確認しようとしています。ローマの信徒たちの教会がまったくだめな状態なので、そのためにわざわざ熱意を込めて手紙を書かなければならなかった、といったことを彼は言いたいのではありません。ローマの信徒たちが互いに助言し合っている態度を、パウロは友愛の気持ちを込め礼儀正しく認めています。幸いなことに、パウロはこの「ローマの信徒への手紙」が激しい内容を含むものであることを自覚しつつも、それを恥じてはいません。

パウロは自分に委ねられた使徒の職務のことも恥じません。彼はまさにこの職務のゆえに多くの戦いに巻き込まれたにもかかわらず、です。彼は「祭司の役を務める」(16節)という表現さえも躊躇することなく用いています。この表現は新約聖書では、キリストを除いては、教会のどのような働き人に関しても使われていないものです。普通の他の働き人とは、信徒の群れのために立てられた牧師、奉仕者、教会の管理者などのことです。それに対して、パウロは「異邦人たちの使徒」という自らの職務を「祭司の職務」であると位置づけています。彼は福音のために奉仕してきました。その目的は、聖霊様の御力によって異邦の民を聖なる者とし、神様に認めていただける「捧げもの」とすることにありました。私たち異邦人(非ユダヤ人)は、この偉大な「異邦人たちの使徒」の働きが実際に犠牲を伴う奉仕であったことをすすんで認めるものです。神様御自身が彼のことを用いてくださったのであり、彼の働きを通して、異邦人たちのことをキリストの贖いの血のゆえに「御自分の民」として受け入れてくださったのです。私たちの使徒であるパウロとその指示に素直に従う時に、現代に生きる私たちもまた正しいことを行っていることになります。

これからどこへ? 15章20〜33節

パウロはこれからの自分の計画を説明します。彼は地中海東部の沿岸部でこれまで長い間働いてきました。 エルサレムの周辺地域はじめギリシアの各地でも、彼は大胆に御言葉を宣べ伝えてきました。アンティオキア、エフェソ、アテナイは、コリントやテサロニケと同様、彼にはなじみのある都市でした。使徒の働きの結果、いたるところにキリスト教の信徒の群れ(教会)が生まれました。使徒パウロは主に大都市で教会を始めました。これらの教会が母体となって、さらにその周囲の地域において宣教活動を展開して行きました。福音を誰もまだ伝えていない地域で宣教伝道するのが、パウロの慣れ親しんだ伝道のやり方でした。こうすることで、誰からも「他の人の釣りの邪魔をしている」と批判されずに済みました。しかし、彼にとって地中海東部はすでに窮屈さを感じる地域になってきていました。
 そこで、パウロは視線を地中海の西部へと向けました。イタリアにはすでにキリスト教信徒たちがいたので、自己の流儀に従ってパウロは他の伝道者たちがすでに活動中の地域では宣教しようとしませんでした。それに比して、ヒスパニア(現在のスペインとポルトガルに当たる地域)やガリア(今のフランスにほぼ重なる地域)では、まだ福音がまったく伝えられていない状態でした。そこで伝道したい、とパウロの心は燃えました。そして、神様の火は彼を前へ前へと運び進めて行きました。おそらく彼はローマの教会が経済的にも、また執り成しの祈りによっても、彼の伝道を支えてくれることを期待していたのでしょう。

パウロの宣教にかける情熱からは学ぶべきものがあります。当然ながら、身近の人々に対して伝道していくのも大いに必要なことです。今はまだ神様が望まれるようなかたちでキリストが人々に十分に知らされてはいない、というのが現実の状態だからです。それゆえに、神様は新しい働き人を絶えず召してこられたのです。しかし、全世界伝道については、私たちはさらに熱く燃えるようなヴィジョンをもつべきでしょう。キリストについての福音のメッセージをあらゆるところへ携えて行かなければなりません。これは、私たちがその通りに行うように義務づけるキリスト御自身による命令なのです。苦しみに満ちたこの世界の只中で、豊かに実った畑を目にしながら、それを収穫する働き人たちが与えられるのを、私たちも待っています。
 伝道のために海外に出発する人々の数はわずかです。なぜそうなのか、私たちは皆、その理由を自問してみるべきでしょう。神様がほかでもなく私をお使いになりたいのかどうか、じっくり慎重に考えてみる必要がありそうです。その上で、もしも自分の国に残るという結論に至ったならば、私たちのやるべきことは、他の人たちが宣教師になるように祈ることであり、彼らが私たちのかわりに海外へ出かけていくことをちゃんと理解することです。

パウロの計画

ローマを通ってヒスパニア(現在のイベリア半島の地域)に出かける前に、パウロはエルサレムを訪れて、異邦人キリスト信仰者たちが集めた捧げ物(献金)をエルサレムの母教会の貧しい信徒たちに持って行かなければなりませんでした。このエルサレム訪問は、誰にでも任せられるような、ありふれた旅行ではありませんでした。パウロにはたくさんやるべきことがあったのです。パウロの宣教している、キリスト信仰者の自由についての福音は、エルサレムの教会の信徒たちの会議において承認を受けていました。この福音によれば、異邦人キリスト信仰者はモーセの律法に従う必要がありません。パウロが受け入れた唯一の義務は、異邦人キリスト信仰者たちが力を合わせてエルサレムの貧しい信徒たちを経済的に援助することでした(「ガラテアの信徒への手紙」2章10節)。パウロは、あらゆるところで真面目にこの義務を履行しました。それに対して、コリントやその他のところでは、キリスト者の自由を宣べ伝える福音に反対して律法に執着する人々が幾度となく出現しました。パウロはここで彼らに敢然と立ち向かいます。パウロのほうでは自分に課せられた約束を履行しましたが、エルサレム側でも(パウロの福音を認めるという)約束を守る気があるのでしょうか。エルサレム訪問は緊迫したものになるのがわかっていたので、誰か他の人にこの仕事を任せるわけにはいかなかったのです。ユダヤ人たちが彼の命を狙っているのを承知の上で、パウロは自らエルサレムに赴くしかありませんでした。あるいはむしろ、パウロは自分で乗り込むことで、福音を受け入れた異邦人たちに対してユダヤ人たちが熱情あるいは羨望の念を抱くように仕向けたかったのかもしれません(「ローマの信徒への手紙」11章13〜14節を参照してください)。

パウロ自身はエルサレムで起きたことについては語っていません。福音書記者ルカは新約聖書の「使徒言行録」の中で、エルサレムにおける使徒たちの再会の模様を記しています。パウロ側もエルサレム側もキリスト教会の一致を望みました。律法に執着するユダヤ人たちがモーセの律法に従おうとするのを妨げるつもりはないことを自ら示すために、パウロはエルサレムの神殿に行きました。神殿でパウロを見かけたユダヤ人たちは激高しました。しかし、ローマ兵たちが事態に素早く介入したため、パウロは早すぎる殉教の死を免れました。この出来事の後、パウロはいろいろな場所で拘留され、その挙げ句に、ローマ皇帝の面前で弁明するために送還されることになりました。

その際どのようにパウロが皇帝に対峙したのか、正確にはわかっていません。しかし、パウロが皇帝ネロの迫害で西暦60年代に殺害されたことはほぼ確実とみられています。もちろんパウロが死ぬ前に拘留を解かれてヒスパニアへの旅を行った可能性はあります。初期のキリスト教文献である「使徒教父文書」の一つ、「コリントの信徒たちへのクレメンスの手紙」(5章7節)には、この可能性を示唆する記述があります。これらの事柄に関しては、これ以上確実なことは言えません。わかっているのは、主の使徒は職務を忠実に全うし、自らの血によって私たちの主について証をしたということです。


「第13回目の集まりのために、(ローマの信徒への手紙15〜16章)は、16章の解説の後です。