ローマの信徒への手紙1章 どうすれば神様を知ることができるのでしょうか

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

手紙のはしがき 1章1〜7節

パウロはいつものやり方に従って、手紙のはしがきの部分に他にもいろいろなことを書き加えています。この点に関して特に注目を引くのは、いわゆる「キリスト讃歌」(3〜4節)と呼ばれるものです。この部分は、パウロのこの手紙自体よりも古くから存在していたと考えられています。このキリスト讃歌が伝えているのは、イエス様が神の御子になったのは復活した後だった、ということではありません。イエス様は最初から神様の御子だったからです。例えば、「フィリピの信徒への手紙」2章5〜11節においてパウロは、イエス様がこの世に来られる前に天のお父様の御許におられた、とはっきり記しています。このことは「ヨハネによる福音書」の序章(1章)からもわかります。

3〜4節の問題

この箇所については、「イエスは元々は普通の人間だったが、神が彼を死者から復活させて自分の養子(神の子)とした」、というキリスト養子説が様々な時代に主張されてきました。それと関連して、この古い「キリスト讃歌」もまたこうした考え方を示唆しているかのように受け取られ理解された可能性はあります。しかし、パウロの手紙ではその意味することはまったく異なります。すなわち、ここでは、イエス様の三位一体の神としてのペルソナ(位格)が下降と高挙という二つの観点から解き明かされているのです。それは、一方の視点からイエス様を見てみると一つの面が見え、もう一方の視点からはもう一つの面が見える、という具合になっています。人としての本質によれば、イエス様はダヴィデの王族に連なる人間としてお生まれになりました。御霊によれば、イエス様は復活の後に主として高く挙げられた神様の御子です。キリストが神様の御子となるまでの道のり(プロセス)については、この箇所は少しも触れていません。

挨拶と手紙の内容の告知 1章8〜17節

はしがきの後すぐに続けて神様への感謝を表すのが、パウロの手紙の普通の書き方です。例えば、「コリントの信徒への第一の手紙」1章4〜9節も同じ構成をとっています。教会のことを祈りに覚える時、神様に感謝を捧げている、とパウロは述べています。きっと彼は日々諸教会のために祈り、神様に感謝し続けていたのでしょう。

残念なことに、このような感謝と賛美を定期的に捧げる習慣は現代の私たちの間では失われてしまっています。感謝の詩篇を唱えることで一日を始めてみませんか。例えば、素晴らしい「詩篇」103篇によって。ユダヤ人もキリスト教会の偉大な教師たちも、こうしたよい習慣を守ってきたのですから。

ローマの信徒たち(教会)に挨拶を送った後で、パウロは、なぜこの手紙を書いたのか、説明しています。すべての人に救いをもたらす福音を語りたい、というのがその動機でした。キリストに属する人々が信仰の義によって活きる者とされた時に、キリスト信仰者の只中で旧約聖書の「ハバクク書」の次の預言が成就しました。

「ごらんなさい、その魂の正しくない者は衰えます。しかし、義人はその信仰によって活きます」
(「ハバクク書」2章4節)。

パウロはまず、異邦人もユダヤ人も共に罪深い存在であることを示すべく心を砕きます。「ローマの信徒への手紙」の福音を理解する上で、これは欠かすことのできない出発点です。異邦人(非ユダヤ人)の罪深さについては、パウロはかなり容易に説明することができました。異邦人たちは活けるまことの神様を知ってはいないからです。

どうすれば神様を知ることができるのでしょうか 1章18〜32節

「ローマの信徒への手紙」1章18〜32節は、とりわけ信仰生活の領域において人間的な知恵がいかに足りないものかを示すものです。神様の偉大な創造の御業は、造り主が存在することについて明瞭に証しています。私たちは神様の偉大さを、自然や、諸国民の成り行きや、自分自身の生活を通して実際に目にしています。このことは、 神様について誰も私たちに教えてくれない場合でも変わりません。この事実は、キリスト教の神学において「一般啓示」と呼ばれています。人間の及ばない至高の場所に由来する何らかの力をまったく信仰せずに神的存在を無視する国民は、この世界のどこにも見当たりません。こうした信仰を人間の心から根こそぎ取り除こうとする試みが歴史を通じて今まで何度もありましたが、それらはすべて失敗に終わりました。無神論者のグループに心が惹かれる人もいることでしょう。それでもやはり、圧倒的多数の人々は何かを信じる心をもっています。

しかし、ここで今パウロは、私たちが自然に有している神様についての知識(一般啓示)が実は不完全なものであることを示します。はじめに、人は被造物世界の観察を通して得られた知識によって神様を知るようになり、この神様に栄光を帰すようになります。

しかし、神様が御自分のことを創造の御業を通して人間たちに啓示なさったにもかかわらず、彼らは神様にお仕えしませんでした。その代わりに、彼らは偶像に仕え、唯一の真の神様を捨ててしまいました。それゆえ、神様もまた彼らをお捨てになりました。こうして、人類はそのままではまったく希望がない状態になってしまいました。人は神様を捨て、神様も人を捨てられたからです。神様御自身がこの悲惨な状況を変えてくださらなければ、人は神様を決して見いだすことができません。このことに関しては、人間のいかなる知恵も善意も無意味なのです。人がどれほど立派であったとしても、あるいは、どれほど知能が高かったとしても、神様の啓示である聖書を学ぼうとしない限り、人は神様を知るようにはなりません。聖書を通して神様が御自分について人間に告げ知らせてくださった内容を、キリスト教神学では「特別啓示」と呼び、前述の「一般啓示」と区別しています。この特別啓示こそが、三位一体なる神様の真のお姿を私たちに知らせてくれるのです。

人類の誤謬のもたらしたもの

人々は神様を捨てて、神様の備えてくださった救いの道から迷い出てしまいました。これは不幸な結果を招くことになりました。神様は人類が罪の中で生きるままに放置なさったからです。29〜32節でパウロは、人間の置かれた現実の状態を容赦なく暴き出しています。神様を捨てた結果として、人間にはありとあらゆる罪とそのもたらす悲惨がつきまとうようになりました。

ひどい罪の例としてパウロは同性愛をあげています(1章26〜27節)。これは、パウロの生きていた時代において適切な実例でした。現代でもこのことがあてはまる状況になってきています。ユダヤ人たちはモーセの律法に基づく判断から、同性愛が絶対に神様の是認されない激しい嫌悪の対象であることを知っていました。ところが、「教養」のある異邦人知識人たちは同性愛の中に特別に洗練された美的な生き方を見ていました。ですから、人類の盲目さを示すにあたり、パウロがあげたこの実例はまさに最も適切なものだった、と言えます。すなわち、神様の御前では重い罪であり自然の秩序に反することが、人間の考えによれば容認されるべきものであるだけではなく、美しいとさえ見なされる、ということです。

フィンランドでは、パウロの用いた「取り替える」(25、26節にでてくる動詞、ギリシア語でメタラッソー)という言葉にこの箇所の解釈の鍵を求める人たちがいます。それによれば、この箇所で裁かれているのは故意に自分の性的な傾向を変更した同性愛者だけであり、もともと性的なアイデンティティーが同性愛的である人々に対してはこの箇所は適用されない、というのです。

このような解釈が見当違いであることは、パウロが偶像礼拝に関しても「取り替える」ことについて語っていることからもわかります。パウロがここで意味しているのは、異邦人ひとりひとりが活ける神様に仕えるのをやめて、例えばユピテル(古代ローマの宗教の主神)を礼拝するように故意に態度を変更した、ということではありません。また、故意に礼拝の対象を変更した人々だけが偶像礼拝の罪によって罰せられる、という意味でもありません。パウロはあらゆる同性愛の性的関係を、結婚以外の異性間の性的関係とまったく同様に、断固として否定しています。

フィンランドの教会では同性愛について盛んに議論されてきました。聖書がきわめて明瞭かつ厳格に同性愛の性的関係を禁じていることについては、疑いの余地がありません。ある人たちは、聖書のメッセージを「キリスト教的な許し」の名の下に変更しなければならない、と考えています。また、同性愛の問題について愛に欠けた言動を取る人たちもいます。彼らの厳しい言葉は、自分の同性愛の傾向のゆえに悩み苦しんでいる人々にとっては聴くのが辛いものでしょう。このような「律法の説教」はごく一部の教会員の心にしか触れませんでした。他の大多数の人々は、「自分たちは他の人々よりも少しはましな存在だ」、と思い込んでいますが、それは大きな間違いです。

同性愛の問題については、聖書が禁じている他のすべての事柄についてと同じことが当てはまります。私たちはそれぞれ自分なりの特別な弱さを抱えています。お酒に溺れる人もいれば、陰口を叩く傾向をもつ人もいます。物惜しみするあまり、盗みに近いことをする人もいます。しかし、私たちは自分のもつこれらの傾向を容認するべきではありません。「酔っぱらいキリスト者協会」、「脱税キリスト者協会」、「家庭内暴力キリスト者協会」などというのは、「同性愛キリスト者協会」と全く同様に、常軌を逸した団体です。私たちは自分自身の罪を罪として告白し、それらの罪と戦わなければなりません。しかし、私たちは一人で戦う必要はありません。私たちの弱さを知って、不安定な人々を憐れんでくださる主イエス様御自身が私たちを支えてくださっているからです。イエス様は私たちを裁くおつもりではありません。悪いところのある私たちを、私たちには理解できないほどのたいへんな忍耐をもって、愛してくださっているのです。まさにここに、罪と戦うために必要な実践力の源があります。肝要なのは、自分のした失敗の赦しと、一からやり直す新たな力とを願い求めるために、私たちがいつも何度でもイエス様の御許に行くことなのです。

このようにして、パウロは 、「自分は案外よい人間かもしれない」、という人間の誤った自己評価に対して最初の打撃を加えることにより、私たちが自分の抱えている罪の傾向を正直に認めて告白するように、と人々を教え導きました。このことは、パウロが伝えた教えの正しさを示す最良の証拠です。他の人々と同様に、私たちキリスト信仰者もまた、自分に頼っている限りはたんなる罪人であり、神様の怒りの下にいます。だからこそ、私たちはキリストを必要としているのです。


第1回目の集まりのために 「ローマの信徒への手紙」1章

第1章でパウロは、最初の挨拶の後すぐに、この手紙の主要なテーマである信仰の義について触れます。この章でのパウロの主な目的は、異邦人(非ユダヤ人)が神様の御前で罪深い存在であり、 自分自身の力では神様を見つけられないほど絶望的な状態にあることを示すことでした。

1)大抵の場合パウロは 、手紙の受取手である教会の存在について神様に感謝を捧げることから手紙を書き始めています。このことは、パウロが日々神様の御前でそれらの教会のためにとりなしの祈りを捧げていたことを示唆しています。すでに旧約の時代にも、ユダヤ人の一日の生活は神様への感謝(感謝の詩篇)で始められました。キリスト信仰者はこの伝統を受け継いだのです。朝のお祈りの時をラテン語でLaudes(賛美)と呼ぶのはその表れです。私たちは神様に感謝することをどのように学ぶことができるでしょうか。皆で「詩篇」100篇と103篇を読んでみてください。

2)パウロのメッセージは明瞭です。人間が神様を捨てたので、神様もまた人間を捨ててしまわれた、ということです。その結果として、人間は神様に背を向けてこの世に生まれることになり、自分自身の力では神様を見つけることができなくなったのです。罪深い状態の中に閉じ込められた人間の思考世界がいかに滅茶滅茶なものかを示す例として、パウロは同性愛を挙げます。同性愛は神様にとって完全な嫌悪の対象ですが、パウロの時代の人々の考えによれば、容認されるべき高貴な生き方でした。すなわち、神様の啓示と人間はこの問題に関して全く異なる考え方をしていることになります。私たちの生きている現代世界でも、神様と人間の考え方の間に明らかな相違が生じる問題があるでしょうか。私たちが神様の御言葉である聖書のすべての教えを受け入れてその中に留まるのは、容易なことでしょうか。

終わりのメッセージ

救いの入り口で

フィンランドでは、一年を通じてそれぞれの日に何らかの名前が振り当てられています(「名前の日」と呼ばれます)。クリスマス•イブの日がアダムとエバの二人の名前の日になっているのは奇妙な窮屈さを感じさせます。あたかもこれらの名前に割り当てる日が足りなくなったので、人々が誕生日も名前の日もお祝いする暇がないほど忙しいクリスマスの前日に、しかたなく男と女の名前を同じ日に押し込んだような印象さえ受けます。

もちろん、彼らの名前がこの日に選ばれたことにはさらに深い理由が背景にあります。なにしろ、人類の祖先にあたる父母の名前が一緒に記されているのですから。カレンダーも名前の日のでたらめな羅列ではありません。そこに登場する一連の名前の大部分は、私たちが信仰する神聖なキリスト教信仰の内容を伝えるものなのです。

このことはアダムとエバにも当てはまります。名前の日に彼らは、あたかも「救いの入り口」の場所に立っているかのようです。裸のままの彼らは暖かい部屋の中に入れてくれる扉が開くのを待っています。

人類がこのように無力な存在であることは、私たちにとってはなんとも認めがたい事実です。たしかに、人間はまったく無力というわけではありません。すでに最初の人間たちも、色々なことを巧みに行うことができました。しかしその一方で、彼らは神様に対して背を向けて、不従順な態度を取ることもしてのけたのです。

人類の祖先にあたるこの父母と共に、私たちは人類の誕生を待ち望み、祈ります。キリストが来てくださったおかげで、「新しいアダム」の誕生が可能になりました。今や私たちは神様の御言葉によって「新しい人」として造られるのです。この新しい人は、マリアの子、私たちの救い主イエス様を賛美し、よい行いに励みます。私たちが神様に背を向けた一族の末裔であるのはたしかです。しかし、私たちは救いの果実、主の聖餐(礼拝での聖餐式)を受ける勇気もいただいています。聖餐を通して、新約の命の木なる十字架を前にして、聖壇の中央から私たちの方へと罪の赦しの恵みがやってきます。

レイノ・ハッシネン 「輝く明日」