ローマの信徒への手紙6章 洗礼と聖め

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

パウロは5章を次のような素晴らしい福音の言葉で閉じます、「罪が大きくなったところでは、恵みも満ちあふれるものとなりました」(5章20節)。神様の律法が私たちの心に触れる時、私たちは神様の御前で「自分は罰せられるのが当然の罪人である」という自覚を与えられます。聖書にもあるように、親が悪いことを行った場合、しかもその子孫に当たる者たちが神様を憎んでいる場合には、神様は彼らに対してその親の悪行にゆえに何代にもわたって罰を加えられる方です。しかしその一方で、福音はキリストの十字架を私たちに思い起こさせ、罪の赦しについて語ります。こうして地獄と神様の怒りとは脇に退きます。そしてその後に残るのは、私たち罪深い者に対する神様の燃えるような愛だけになります。「私は主、あなたの神、熱情の神であるから、父たちの罪について、私を憎むその子たちに対して三代、四代にわたって罰を与えます。しかし、私を愛し私の戒めを守る者たちに対しては千代に至るまで恵みを施します」(「出エジプト記」20章5〜6節より)、と書いてある通りです。

ここでパウロは生じうる誤解について触れます。それは、もしも神様の恵みが、私たちが罪を行う度にただひたすら大きくなって行くものだとしたら、どうして罪を行わないでおく手があろうか、という間違った理解です。この上、何のために罪と戦うのか、どのようなことが罪で、どのようなことが罪ではないか、吟味する必要が本当にあるのか。そんなことをすれば、神様というお方を私たち人間の些事を詮索する小心者と見なすことになりはしまいか、といった考え方です。
 すでにパウロの時代にも、多くの人が福音の与える自由というものを自分が好き勝手に生きる自由として理解していたようです。多くの箇所で、パウロはこのような理解の仕方に反対しています(例えば「ローマの信徒への手紙」3章8節を参照してください)。アブラハムは信仰によってではなく、行いによって義とされた、という「ヤコブの手紙」のよく知られた箇所(2章21〜23節)はここでの「罪との戦い」に関係しています
 自分をパウロの弟子と見なす者たちの中には、神様の尊い恵みを実質的にはゴミ同然なものに貶める自堕落なキリスト教徒の生き方をして悪い模範を示す人々もいました。

聖めの基としての洗礼 6章1〜4節

上に述べた誤解を解くために、パウロは洗礼について説明し始めます。パウロはローマに行ったことがなく、そこの教会の状態についてもよく知りませんでした。しかし、教会のすべての人が洗礼を受けていることはパウロにとって自明の前提事項でした。洗礼はキリスト教信仰の始めから存在したことなので、洗礼を擁護する弁舌を振るう必要がなかったのです。

洗礼の意味についてパウロは短く説明します。洗礼を通して私たちはキリストに結わえられます。この関係は生死を共にする深い絆です。洗礼はキリストの死に結わえられることでした。私たちは洗礼を受けた時にキリストと共に埋葬された、とパウロは言います。パウロが言う「古い人」とは、洗礼を受ける前の私たち人間の状態のことです。この古い自分が十字架につけられ、ゴルゴタでイエス様と共に死んだのです。神様がイエス様を死者の中から復活させたので、イエス様と同じようにして、私たちもまたいつか必ず死者の中から復活することになります。私たちの罪はキリストの死を通してその罰をすでに受け、帳消しになっています。洗礼は、この贖いの御業が私たちにも確実に適応されるようにしてくれます。

これら数節には、自分の罪に苦しめられている人たち全員に向けられた素晴らしい慰めが含まれています。あなたは弱くてだらしないキリスト信仰者かもしれません。もしかしたら、あなたの生き方は誰の模範にもならないかもしれません。ひょっとしたら、あなたは人生の意味をすっかり見失っているかもしれません。それでも、あなたが洗礼を受けている、という事実を思い出してください。これは、神様があなたを御自分の子どもになさりたかったという事実をはっきり示す素晴らしい証拠なのです。あなたは神様の側に属しています。なぜなら、神様はあなたが御自分のものとなるようにあなたに洗礼を授けてくださったからです。
 洗礼は、神様が私たちに示してくださった大いなる恵みなのです。それゆえ、もしも神様のこの御業(幼児に洗礼を授けること)を取るに足らないものとみなしてあとから洗礼を再び受けるなら、それは実にひどい行いなのです。「エフェソの信徒への手紙」4章5節に従って、私たちは、「主は御一人、信仰は一つ、洗礼も一つです」、と信仰告白します。神様の御業を人間がやり直す必要はまったくありません。

ここでパウロは「古い人」「新しい人」の対比について語ります。このテーマは他の箇所でより詳細に扱われています。「古い人」とは、キリストの贖いの御業にではなく自分自身に頼って生きている人のことです。キリスト信仰者の場合には、この「古い人」は洗礼の水の中に埋葬されています(「ローマの信徒への手紙」6章)。それに対して「新しい人」とは、神様に贖われた者として扱っていただける、キリスト信仰者の受けた新しい地位のことを指しています。「古い人」を脱ぎ捨てて「新しい人」を身にまとう生き方を常日頃から決意をもって実践していくのがキリスト信仰者としてのあるべき姿です(「エフェソの信徒への手紙」4章22〜24節、「コロサイの信徒への手紙」3章9〜10節)。

ここまで述べてきた洗礼についての教えでは、人が自分の罪深さを悲しまずに好き勝手に生きるのを容認してしまうことになりはしまいか、という危惧感を抱く人たちもいます。もしも洗礼を受けている者は誰でも皆救われるというのなら、人々は神様のことも天からの恵みである洗礼のことも気に留めなくなるのではないか、というのです。

パウロはここで、彼の伝える教えがどのような帰結をもたらすか細かく計算したり、あれこれ思い悩んだりはしません。パウロは罪の赦しの恵みをこの上なく近づきやすい形で伝えているので、誰であれ罪人はこの恵みを自分に当てはめて受け入れる勇気がもてるようになっています。しばしばパウロは「ローマの信徒への手紙」の中で、自分の罪を悲しまない者や間違った確信を抱いている者たちをきびしく諌めていますが、今この洗礼についての箇所ではとりわけそれが顕著になっています。洗礼は、私たちに罪の生活を続ける許可を与えるものでは全くありません。パウロがここで洗礼を全面に打ち出すのは、キリスト教徒でさえあれば自由に罪を行ってもよいとする間違った教えを粉砕するために他なりません。私たちがキリストの死の中へと洗礼を受けているのは、私たちがキリストと共に新しい生き方をするためなのです。私たちを罪から解放するために、キリストは十字架で死なれたのです。それゆえ、 あたかも何も起こらなかったかのように私たちが以前と変わらない罪の生活を続けることは許されないのです。

「自分は洗礼を受けている」という自覚が、私たちを皆、罪との戦いに赴かせます。私たちは神様の側に属しています。キリストは私たちの罪をゴルゴタの丘へと携えて行って、十字架に釘付けにしてくださいました。そういうわけですから、私たちは神様とその御言葉に従順を貫いて生きなければならないのです。

これは現代に生きる私たちにとって猛省すべきことがらです。私たちがいかにキリスト信仰者としてだらしがないか、神様はよくご存知です。礼拝よりも他のことを優先させたり、キリスト信仰者としてふさわしくない生き方をしたりしています。せめて、洗礼の伝えるこの福音が私たちを再び十字架の木に打ちつけて、 罪と戦い始める力を私たちに与えてくれるように願わずにはいられません。まずは次のことから始めてみましょう。定期的に皆で集まって、この戦いで必要な栄養を補給しましょう。すなわち、礼拝と主の聖餐に皆で共に与りましょう。

洗礼を埋葬になぞらえるパウロの言葉の背景を探って、全身を水に浸して洗礼を受ける慣習が元々あったことを読み取る研究者もいれば、それとは逆に、こうした洗礼のやり方はパウロの言葉を具体的に視覚化するために後から実施されるようになったものだ、とする研究者もいます。ユッカ・トゥレン(Jukka Thurén)というフィンランドの新約聖書学の教授は、初期の洗礼が全身浸礼であったという慣習は当時一般的だった入浴のやり方がその背景にあった、とする立場を取っています。当時は、水の中に立っている者の上に他の人か自分自身が水を注ぎかけて入浴したからです。洗礼の際に用いる水の量がその洗礼を質的に規定する決定的な要因であるとみなされたことは、キリスト教の伝統の中では今まで一度もありません。それゆえ、洗礼を実際に授ける際の具体的なやり方について争い合うべきではないのです。一番大事なのは、洗礼を通して神様がくださる限りない恵みの素晴らしさについてはっきりと教えることです。

罪の奴隷から、義に仕える者に変えられて 6章15〜23節

これは、「真剣に罪と戦うように」とパウロがローマのキリスト教徒たちに説得を試みている箇所です。キリスト信仰者は律法の下にではなく恵みの下にいます。ですから、私たちはもはや罪の中にどっぷり浸かって生活してはいけないのです。人間には、神様に仕える者であるか、それとも罪の奴隷であるか、のどちらかの状態しかありません。

ローマのキリスト教徒たちは信仰に入る以前には罪に浸った生活を送りながら、それをちっとも悪いこととは思っていませんでした。また、神様のことも天の御国のことも気にかけずに日々を過ごしていました。その結果どうなったでしょうか。彼らは神様との関係がだめになり、永遠の滅びの道へと転落して行ったのです。ローマのキリスト信仰者たちは自分の恥ずべき過去の行状を思い出したくはないだろう、とパウロは書いています。私たちの人生の歩みの中にも、もしかしたら神様から遠く離れて罪深い生活に染まっていた時期があるかもしれません。キリスト信仰者はそのことを後から思い出したくはないものです。ここでパウロは、誰であれ私たちが人生を逆戻りして以前と同じ罪深い状態に陥ることがあってはならない、と真剣に警告しています。キリスト信仰者は「古い人」に活動の隙を与えて自らの罪と戦うのをやめてしまうなら、再び罪の奴隷になり下がってしまいます。キリスト信仰者が神様の子どもであり続け、神様の子どもとしてふさわしい生活を送ることをパウロは願っています。 罪のもたらす報酬は死でした。そして、それは今も同じです。それに対して、神様の恵みの賜物はキリスト•イエスにおける永遠の命なのです。

6章の総括

考えてみると、「ローマの信徒への手紙」6章は奇妙な文章です。そこでは、私たちが普通なら相反するものとみなしている二つの事柄が並行して語られているからです。 まず、神様が洗礼の恵みを通して私たちのすべての罪を赦してくださる、という神様の尽きることのない善き御心をこの章から読み取ることができます。この点に関しては、私たち自身の行いや善さがどれほどのものであるか、といったことは問われていません。神様御自身が働いてくださるのであり、私たちはその働きかけを受ける立場にあるからです。まさにこのようにして、神様は私たちひとりひとりにキリストのあがないの御業をプレゼントしてくださいます。すべては神様からの賜物なのです。

ところがその一方で、パウロはこの箇所でキリスト信仰者の正しい生き方を皆に勧めています。昔のキリスト信仰者はこの聖書の箇所を念頭において、「あなたの心の中にあるのは平和ですか、それとも争いですか」、と尋ね合ったものです。誰かが、「私の心には平和があります」、と答えた場合、それは間違った答えでした。なぜなら、キリスト信仰者の心の中は常に「戦争状態」にあるからです。どういうことかというと、「新しい人」が「古い人」に対して戦っていますし、義が罪に対して戦っているからです。そして、キリストが悪魔に対して戦っておられます。

この戦いは私たちを苦境に立たせます。何度も敗北を喫することになるかもしれません。それでも私たちは、この戦いにおいては神様御自身がしっかり私たちの面倒を見てくださっている、と信じてよいのです。なぜなら、すでに神様は私たちのために「最後の決戦」において勝利を収めておられるからです。この「最後の決戦」とは、十字架の死と死者からの復活とによってイエス様が罪と死と悪魔に完全に勝利なさったことを意味しています。このイエス様の御業のおかげにより、私たちを待ち受けているのはもはや罪の報酬としての死ではなく、神様の恵みの賜物、すなわち永遠の命なのです。そして、この永遠の命の世界において「古い人」と「新しい人」との間の戦争は「新しい人」の勝利をもって終結し、永遠の平和が始まるのです。


第6回目の集まりのために 「ローマの信徒への手紙」6章

この章でパウロは罪の赦しと賜物としていただける義について多くの言葉を費やしました。今ここで彼は、「人は好き勝手にしたいことをやってもかまわない」、という誤解が生じるかもしれないことを想定して、慎重に話を進めて行きます。キリストに属する者となるために洗礼を受けて罪を赦された人はもはや罪の中で生活するべきではなく、むしろ罪と戦っていかなければならないことを、パウロは強調します。

1)聖なる洗礼は私たちのために神様が行ってくださった御業です。私たちはその意味をちゃんと理解した上で洗礼の中に避けどころを求めることができているでしょうか。「ローマの信徒への手紙」6章1〜7節をもう一度読んでください。信仰生活の中で、どのような時にあなたは洗礼の与えてくれる支えを特に必要としましたか。

2)パウロがここで洗礼の意味について語るのは、キリスト信仰者が好き勝手に生きていてはいけないことを思い起こさせるためでした。神様が人と結んでくださった洗礼という契約は、教会の礼拝にほとんど参加しないキリスト教徒にとってはどのような意味を持っていますか。また、罪と戦う術を学ぶためにはどうすればよいのでしょうか。

3)洗礼が完全に神様の恵みの御業であることを全面に押し出すと、人は欲望の赴くまま自堕落に生きることになりはしまいか、と危惧する人たちがいます。しかし、本当にそうなのでしょうか。この危惧に対して、キリスト信仰者として私たちはどのように答えることができるでしょうか。

終わりのメッセージ

「洗礼とは契約の内容を守ることです」

洗礼は神様から贈られた証書です。神様が私たちに賜ったこの証書ほど素晴らしい遺言状を残すことができる者は他には誰もいません。聖なる洗礼を通してのみ、私たちは救い主との個人的な親しい関係の中に入れていただけるのです。

洗礼の意味を誤解する人が出てくるのは無理もありません。洗礼を受けている人たちのうちの全員が信仰を持って生きている訳ではないからです。

しかし、キリストに喜んでいただけるような生き方をするために、神様からのこの賜物に感謝して日々自己中心的な生き方を正していく人は誰であれ、キリスト信仰者なのです。神様からいただいたこの尊い「相続財産」を守る人は誰であれ、神様の子どもなのです。そして、キリスト御自身がその人の「神様の子ども」という地位を守ってくださいます。

堅信式は、洗礼を通して受けた神様からの贈り物を私たちがこれからもしっかり守って行くことを公に表明する場です。「キリスト信仰者として生きること」に関わる一切の事柄も神様からのこの賜物をしっかり守って行くことにつながっています。それは、「主よ、どうか今日も私を用いてください」、という毎日新たになされる態度表明でもあります。主は洗礼を受けている人たちを、御自分と共に積極的に活動していくように招いておられます。「誰であれ私の後について来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、私に従いなさい」(「ルカによる福音書」9章23節)。

洗礼式は、キリスト信仰者の人生にとってたんなる過去の出来事ではありません。洗礼式では、受洗者の上に十字架を切る習慣があります。これは、受洗者が全人生を通じて自らの十字架を積極的に担って行くことを表しているとも言えます。洗礼の恵みの中で生きることは、 目減りしない莫大な相続財産を日々紙幣やコインに両替して行く過程になぞらえることができるかもしれません。

洗礼が受洗者のその後の人生を覆い尽くすほど大事な出来事であることを正しく理解できるように、私たちは霊的に成長して行かなければなりません。遺憾ながら、現代の教会では洗礼式や堅信式がたんなる通過儀礼となってしまっている傾向があります。そして、洗礼式や堅信式がそれらを受けた人々のその後の人生にどのような影響を与えるかについては関心が払われない場合が多いようです。しかしそれとは異なり、初めの頃の教会のキリスト信仰者たちは、個々の信仰者だけではなく教会全体が「水の上に建てられている」(使徒教父からの引用)という事実を信仰の基点としていました。

洗礼を通して私たちは、死者の中からの復活の恵みを相続財産として受け継ぐ権利をいただいています。ですから、この世の高価な品々はそれほど大切なものではなくなります。これほど素晴らしい相続財産があるのに、今までとは違う生き方をする勇気をもてないようなら、それはいかにも奇妙なことだと言わざるをえないでしょう。

レイノ・ハッシネン