ローマの信徒への手紙14章  皆で仲良く

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

14章でパウロは、12章で始めたテーマ(キリスト信仰者の正しい生き方)を続けます。これらの指示の中で今回扱う一連の指示は一番単純でもあり一番困難でもあるものです。単純な真実の事柄を習得するために私たちはその全人生を費やすことになるともいえます。

この章でパウロは「強い」教会員と「弱い」教会員という表現をしています。「強い」教会員はキリストへの信仰を十分にもっているため、ある種の慣習に従うのをやめることができます。「弱い」教会員にはこの「強い」信仰が欠けています。パウロは当時の懸案事項を二つ指摘します。一つ目は、ある者は気にせず肉を食べたが、ある者は食べなかった、という問題です。もう一つは、ある者は特定の日をお祝いしたが、ある者はそうしなかった、という問題です。

「弱い」教会員とは誰か?

「弱い」教会員たちの意見は、この箇所からは部分的にしかわかりません。おそらくパウロはここで、ローマの教会内部の問題について話しているのではないでしょう。もっとも、地方に点在する各個教会の一群を大きな一つの教会と見なす場合には、もちろんこの話題はローマの教会にも関係してくることになりますが。パウロはここで他の教会における自らの体験に基づいて話しているのではないでしょうか。というのは、ここでの話題とかなり似通った内容を、彼は「コリントの信徒への第一の手紙」8〜10章においても取り上げているからです。

「弱い」キリスト信仰者は「強い」キリスト信仰者ほど強情ではない、とは必ずしも言えません。推測の域を出ないある種の理由から、彼ら「弱い」キリスト信仰者たちは肉を食べることを拒否しました。肉食を拒むことには多くの理由が考えられます。異邦人(すなわち非ユダヤ人)の間では、それは当時の一般的な考え方のひとつであったとも言えます。

ここで、当時のキリスト信仰者の一部が肉食を拒否した事実上の理由であったと思われる二つの事情をこれから述べることにします。肉食を拒否した彼らは肉屋で売られている肉を食べませんでした。その肉はモーセの律法の規定に基づいて屠殺されたものではなかったからです(「レビ記」17章10〜17節)。パウロはこのような人々についてここで語っていると思われます。このような肉を食べないことを正当化する、よりもっともらしく聞こえる根拠をもちだす人々もいました。その根拠とは、当時肉屋で売られていた肉の大部分は異教の神々に「いけにえ」として捧げられた動物の肉だった、ということです。「このような肉を食べて偶像礼拝に加担することがキリスト信仰者にどうしてできようか」、と考えた人々のこともパウロの脳裏に浮かんでいたのかもしれません。

偶像に捧げられた肉を食べることについて、パウロ自身は最終的には非常に慎重な態度を取りました。しかしここでの彼はそうせずに、自分を「強い」キリスト信仰者の一人とみなしています。にもかかわらず、彼は自分と同じようには自由に振る舞えない人々のことを理解しようとしています。

これらの「弱い」キリスト信仰者たちはガラテアの教会の信徒たちとはちがって異端に走ってはいなかった、とパウロが判断していたことを、私たちはここで思い起こす必要があります。 救われるために人はある種の規定を絶対に遵守しなければならない、とガラテアの教会の信徒たちは考えていました。救いというものをこのように理解することをパウロは断固として拒否しました。キリストの十字架の死のゆえにのみ、人は救われるからです。それに対して、この「ローマの信徒への手紙」において様々な規定にこだわっている一部の教会員たちは、たしかに自己の立場を頑迷に主張しはするものの、それらの規定に従うことを救いの条件とはみなしていなかったという点で、ガラテアの教会の異端の信奉者たちとは異なっていました。

パウロは一切の規定を嫌っていたのでしょうか?

「ローマの信徒への手紙」14章は、今までしばしば誤って用いられてきました。この章に依拠して、「パウロは上に挙げた事柄のみならず他のことに関しても、キリスト信仰者の生き方について明確な指示を与えることに、そもそも我慢がならなかったのだ」、という主張もなされました。この考え方に従うならば、それぞれの人には自分にとって好ましいことを行う自由、もっと格好の良い表現をするならば、自らのキリスト信仰者としての愛が行うように促す事柄を実際に行う自由、があることになります。この指示をパウロはある程度まで認めます。ただし、この承認はあくまでも部分的なものに留まりました。とりわけコリントの信徒たちに対してパウロは、手紙で彼がキリスト信仰者の生き方に関して与えた一連の指示について、キリスト信仰者が全員例外なく絶対に遵守すべきものであることを強調しています。パウロはこれらの指示が「主の命令」であることを二度にわたって告げています(「コリントの信徒への第一の手紙」7章10節、14章37節)。パウロがどのような基準によって、手紙に書いたキリスト信仰者の生き方に関する指示を、すべてのキリスト信仰者を等しく束縛するものと、指示に従うかどうか各人が自由に決めることができるものとに分けたのか、私たちは知りません。私たちはただ主の使徒にひたすら従順であるべきです。また、ここでの使徒パウロの判断にも聖霊様の働きかけがあることに信頼を置くべきです。パウロは一切の規定を嫌悪していたわけではありません。ですから、私たちもまた、パウロやその他の人々を通して記述された新約聖書が与えている一連の指示に反対して行動してはいけないのです。

何が正しく何が正しくないかを問う時に、御言葉の指示を次の二つの「公式」に集約することができます。

公式1)懸案事項について聖書の御言葉の指示がある場合には、この指示はすべてのキリスト信仰者をすべての時代にわたって束縛します。懸案事項について聖書の指示がなく、他の事柄から直接結論を導きだせない場合には、キリスト信仰者には自らの判断に従って行動する自由があります。ただしその際には、隣り人のことを考慮に入れて行動しなければなりません。 神様の御言葉はたんに明瞭であるだけではなく実際に十分でもある、というのがこの「公式」の論理です。もしもある事柄に関して御言葉の指示がなければ、それは些細な事柄なのであり、そのことで良心を悩ませるべきではありません(ここで「些細な事柄」とは、神学用語でadiafora(ギリシア語)またindifferentia(ラテン語)と呼ばれるもので、「どちらでもよい事柄」という意味です)。教会には、神様のお命じになった規定に勝手に何かを付け加えたり何かを取り除いたりする権利はないのです。

公式2)マルティン•ルターは、このことを「キリスト信仰者の自由」という本で、 相反する二つの文によって簡潔かつ巧みに表現しました。
キリスト信仰者は皆を支配する自由な主人であり、誰の部下でもない。
キリスト信仰者は皆に仕える僕であり、各々の人の部下である。

他の人の信仰の確信を傷つけてはいけない 14章1〜12節

「弱い」信仰者も「強い」信仰者もそのような者として存在する権利を互いに認め合うべきである、とパウロは強く強調します。このことに関しても、パウロは信仰義認の教義を基礎にして論じていますが、これは私たちにとってもたいへん参考になる姿勢です。キリストは死んで、復活なさいました。それは、キリストが皆の主人となられるためでした。すぐ限界になる私たちの生来の忍耐力も、キリストの十字架の下では強められていきます。以前とはことなり今の私たちは、もはや他のキリスト信仰者の理解の仕方を軽率に裁いてはいけません。他のキリスト信仰者もまた私と同じく神様の御国に属する存在だからです。それぞれが自分のやり方を守ればよいのであり、誰もそれについて口出しするべきではありません。ただし、その人が他の人たちも皆がその人と同じやり方で生きるように要求しはじめたり、その人自身が聖書の御言葉の明瞭な教えに反した行動をとったりする場合には、そのかぎりではありません。

肉を食べることに加えて、ここでもう一つ挙げられている問題は、ある特定の日を聖なる日とみなす態度に関連しています。これが具体的にはどういうことを意味しているか、またしても私たちは知りません。しかしここで問題になっているのは、休日を土曜日にすべきかそれとも日曜日にすべきか、という喧嘩などではないでしょう。少なくとも毎週の聖日をめぐる問題ではないのはたしかです。それよりもむしろ、ユダヤ人の祝祭の暦の遵守がここで問題になっていると思われます。とりわけ異邦人(すなわち非ユダヤ人)キリスト信仰者にとって、ユダヤ人の一連の祝祭はさほど大切なものではありませんでした。このことからキリスト信仰者の間に意見の相違が生じたのかもしれません。それに対してパウロの与えた指示は、各自がやりたいように特別な日とそうでない日とを区別すればよい、というものでした。実のところ、キリスト信仰者の一日は毎日毎瞬が神様への礼拝なのです。このことに加えてユダヤ人の祭も祝いたい人がいるならば、別にそのようにしてもかまいません。

パウロはここで肉を食することと祝祭の日について話しているだけです。どちらの問題も私たちにとっては別段辛くもなく困難なものでもないでしょう。しかし、このテーマを適用できる範囲は非常に広いのです。次のことを考えてみてください。キリスト信仰者は皆、何かに関して絶対的な態度を取る者でなければならないものでしょうか。キリスト信仰者は喫煙してよいでしょうか。テレビをキリスト信仰者の家に置いてもよいのでしょうか。正式に結婚している夫婦が避妊することについてはどのような態度を取るべきでしょうか。キリスト信仰者にふさわしい趣味とは一般的にいってどのようなものなのでしょうか。信仰生活を真剣に考えるキリスト信仰者なら、いずれこうした問題と向かい合わざるを得なくなります。わずか数分の間で答えを下すことはできません。人生のすべての時間を使ったとしても、ちゃんとした答えを探し求めるためには短すぎるほどです。これらの問題を考える際の基準については、すでに学んだ通りです。すなわち、神様の御言葉に反したことを決して行ってはいけないし、他の人の良心の問題に関してその人を見下して裁いてはならない、という姿勢が大切になります。何らかのことに関して絶対的な態度を取る者は、そのような態度を捨てるように厳しく要求された場合に、その結果として今までの自らの立場を捨てることになるかもしれません。しかし、もしもたとえばその人が今まで酒を一切飲まなかったのに、たがが外れて飲酒に溺れるようになってしまう場合には、このことについて一体誰が責任を取ってくれるというのでしょうか。家にいる若者たちを規則で縛りつけて家の中に行儀よく座らせておくことも、やろうとすればできるでしょう。しかし、彼らが親の命令に素直に従わなくなる年齢になったら、いったいどうなるのでしょうか。

互いに配慮し合うようになること 14章13〜23節

神様の大いなる裁きの日を待つ身でありながら、私たちは他の人々を裁くことに熱中するべきではありません。むしろ、どうすれば互いを信仰的に躓かせないように生きて行けるか、ということに関心を集中するべきなのです。まさにこのことに私たちが興味を向けるように、とパウロは奨励しています。イエス様は、どのような食べ物もすべてそれ自体は清いものである、と宣言なさいました(「マルコによる福音書」7章14〜19節)。それとまったく同様に、いかなるものもそれ自体汚れているわけではない、とパウロは言っています。ただしここで、いかなるものもそれ自体は悪ではない、と言われているのではないことに注意する必要があります。モーセの律法が食べ物に関して設けた規定のように、いかなるものもそれ自体は「汚れている」わけではない、とパウロは言っているのです。これらの問題に関して裁きを下す高い立場にあるものとして、彼は人間の良心と相互愛とを挙げています。

パウロによれば、人は各自、己の良心に従うべきです。良心が警告を発していることをあえて行うのは間違いです。良心に反することを行うのは、無垢この上ないと思われることでさえも罪となります。人は各自、自分の感じることを無視してまで他の人の例に倣う真似はやめにして、そのかわり自己に課せられた信仰の戦いをしっかり戦い抜いていくべきです。たとえば、他の人たちの飲酒の習慣は、もしも自分がそれに従った場合に良心の呵責を感じる場合には、私たちにとっては模範にはなりえません。良心の声を沈黙させてはいけません。そのようなことをすると、本当にすっかり沈黙してしまうこともあるからです。

他の人々ならあえて行わないようなことも良心が咎めずに行う人、すなわち信仰において「強い」者たちに対してもパウロは警告を発しています。人が自由な心で生活し、神様からいただいた賜物について感謝を捧げるのは、何も悪いことではありません。しかし、ある人が意のままに振る舞うと、その人と同じようには良心が自由ではない他の人たちの信仰の躓きになってしまう、という危険があるのです。このような人たちは、他の人の自由な振る舞いによって、深く苦しむことになるかもしれません。最悪の場合には、彼らは他の人のある種の振る舞いの根拠となっていることがらを知らないまま、自己の良心に反してまでその人のやり方に盲従することになってしまうかもしれません。その結果、他のキリスト教徒の人生を楽しむやり方をあまり考えずに真似した人が、ふと気がついてみると、神様に反抗的な生き方をするようになってしまっている場合もありえるのです。たとえば、あるキリスト教徒が取るに足りない快楽を求める生き方をしたために、それに影響を受けた他のキリスト教徒の人生の基盤が歪んでしまう場合などです。

他のキリスト信仰者のことをしっかり配慮するように、とパウロは力を込めて勧告しています。他のキリスト信仰者のためになるなら自分のもっている自由をあえて行使しない、という態度も場合によっては必要になります。こうして、自由なキリスト信仰者は自らの自由を捨てて、皆に仕える者となります。「このようにしてキリストに仕える者は神様に喜ばれ、人々の評価も得られます」(14章18節)というパウロの言うことはたしかに正しいのです。このようなキリスト信仰者は他のキリスト信仰者たちと仲良く一緒に教会生活を送り、周囲に平和を広め、互いの成長を支え合います。要するに、どのようなことに関しても自分の頭で考えたことに頼って生きるのはよくないことなのです。むしろ、私は自分のもっている自由をあえて行使しないほうが望ましい、ということです。 なぜなら、すべてのキリスト信仰者に対して益となることだけを私は望んでいるからです。

14節でパウロは、「私は主イエスにあって知っており、また確信しています。それ自体、汚れているものは一つもありません。ただ、それが汚れていると考える人にとってだけ汚れているのです」、と言います。これはイエス様の教え(「マルコによる福音書」7章15節)と一致するものです。ですから、パウロがイエス様の教えを知っていたのは確実であると思われます。

パウロの実践例

キリスト信仰者の自由を強調しつつも、その一方では、他のキリスト信仰者たちの益を考えて自分のもつ自由を行使しないことの大切さについて、パウロはいろいろな手紙の中で書いています。 彼はユダヤ人に接する時には自分もまた律法の下にいるかのように振る舞い、 異邦人に接する時には自分も律法の下にいないかのように振る舞おうとしました(「コリントの信徒への第一の手紙」9章19〜23節)。もしもある食べ物が他のキリスト信仰者を憤らせる場合には、たとえその食べ物は汚れていないとわかっていても、彼はそれを食べるのをやめました(「コリントの信徒への第一の手紙」8章13節)。彼がそうしたのは、ひとえに愛と福音のゆえでした。パウロにとって食べ物や様々な習慣は副次的なものだったからです。一番大切なのは、キリストとその偉大さがいつでもどこでも皆の前にはっきり示されることでした。キリストはその血によって、私たちのことも「御自分のもの」として買い取ってくださり、私たちの罪を帳消しにしてくださいました。ですから、私たちは今、自分のためではなく、キリストのために生きるのです。それゆえに、私たちは隣り人とその抱えている困難とに対して細やかに配慮して行くべきなのです。


第12回目の集まりのために

「ローマの信徒への手紙」14章

教会の中には、ある種の習慣に従う「弱い」キリスト信仰者もいれば、これらの習慣に自己の良心が縛られていない「強い」キリスト信仰者もいました。パウロは両方のグループに対して、キリスト信仰者にふさわしい愛のあり方に基づいて他方のグループのことも考慮に入れて行動するように、と奨励しています。

1)一部のキリスト信仰者にとっては自らの良心に抵触するゆえに承認しがたいものだけれども、他のキリスト信仰者にとっては良心に関わるものではない、といった種類の問題にはどのようなものがありますか。「ローマの信徒への手紙」14章における意味での「自由」をキリスト信仰者ひとりひとりの判断に委ねることができるのは、どのような問題についてでしょうか。

2)キリスト信仰者の良心は人により異なり、神様の御言葉が命じている事柄のうちの一部を破っても平気な人々がいます。自らの良心に反して聖書の御言葉を破ることを覚え、他の事柄に関しても同様な違反を行うようになった「弱い」キリスト信仰者に対して、「強い」キリスト信仰者はどのような責任を負うのでしょうか。

3)この章の視点に基づいて教会を改革していこうとする場合、それはどのように実現されていくべきなのでしょうか。

終わりのメッセージ

信仰を通して洗礼の源へ

私たちが受けた聖なる洗礼を通して、イエス様のあがないの血は私たちを覆って流れるようになりました。この同じ血による清めを、私たちはいつもこれからも必要としています。イエス様はこう言われているからです、「私があなたを洗わなければ、あなたは私とは何の関わりもないことになります」(「ヨハネによる福音書」13章8節より)。霊的に目覚めた良心はとても敏感で、わずかでも汚れることを嫌います。それはちょうど、ピカピカの鏡が息を吹きかけられると曇ってしまうのと似ています。神様の律法は神聖で厳密なものであり、良心はとても臆病です。一番小さな罪の汚れについてさえも律法は叱りつけ、裁きを下します。それでも、このイエス様のあがないの血はそれよりも何千倍も強力なので、私たちを罪と汚れとからいつでもきれいに洗い清めてくれます。ただし、そのために必要なことがあります。それは、一度受けた洗礼を通して開かれた源へと私たちが信仰を通していつでも何度でも戻っていくことです。そして、このような洗い清めによって、私たちは活ける神様にお仕えする力をいただきます。

F. G. Hedberg