ローマの信徒への手紙2章 ユダヤ人も

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

前章でパウロは、すべての異邦人(非ユダヤ人)が神様の御前で罪深い存在であることを示しました。彼らの置かれている真の状況が明らかにされたのです。彼らは造り主を捨てたので、神様は彼らを罪の生活の中にお捨てになりました。その結果、異邦人は自分自身の知恵に依拠する限り、どうやっても神様を見出せなくなってしまいました。彼らはなすすべもなくすっかり罪にまみれ、厳しい裁きを受ける身になりました。

このパウロの容赦のない評価は、当初は異邦人だけに関わるものでした。この段階では、旧約聖書を通して神様の御旨を知らされている一群の人々はこの評価の対象外になっています 。この一群の人々とは、ほかでもないユダヤ人のことです。この手紙の2章における最も重要な課題は、ユダヤ人もまた罪深い存在であり、自分たちの行いの報いとして神様の怒りを受けざるを得ない状況下にいることを示す点にありました。ユダヤ人についてはようやく17節で言及されますが、パウロには彼らのことが最初から念頭にありました。

ユダヤ人たちの罪の内実は、私たちとどのような関わりがあるのでしょうか?

ユダヤ人たちの罪の内実について調べて説明するために、なにもここでわざわざ長い講義をする必要はないだろうに、と訝しく思う人もいるかもしれません。自分の抱えている罪だけでも手に余る私たちの生活にとって、この話題は疎遠に感じられるものかもしれません。しかし、新約聖書がキリスト教会のことを「神様の新しいイスラエル」としばしば呼称していることを私たちはここで思い起こさなければなりません。神様から「善を行うように」という奨励と「悪を避けるように」という警告を受けてきた存在として、イスラエルは私たちに先立つ具体例であると言えます。イスラエルは神様の怒りを我が身に招き、多くの懲らしめを受けました。もしも新しいイスラエルが、古いイスラエルと同じように神様に反抗しようものなら、神様は彼らに対しても決して優しく応接なさることはないだろう、とパウロは注意を促しています。古いイスラエルの民(ユダヤ人)の過ちから、私たちは教訓を学ばなければなりません。ですから、「ローマの信徒への手紙」2章は正確を期して読解されるべき章なのです。

律法の救いの道 2章1〜11節

パウロはわかりやすく律法の救いの道を描いています。この道は私たち人間に固有の考え方です。私たちは普通いつもこの道を歩いている、とさえ言えます。自分のことをキリスト信仰者であるとは思っていない人々もまた、というより、彼らこそがこの道を邁進している者である、と言うことができます。この道の教えを簡単にまとめれば、神様はそれぞれの人に対してその人の行いに応じて報いをなさる、というものです。善を行った者は輝く栄光と永遠の命を神様からいただきます。しかし、神様の御旨を破る者は悩みと苦しみを受けることになります。これは徹頭徹尾「行いの律法」です。神様があなたに報酬を支払うか、それとも罰を下すかは、あなたが神様の御心に適う生き方をして来たかどうかによって決まる、という考え方です。

人々がどれほどひどい生き方をしているか、自分がユダヤ人でなくともわかることです。世の中はどんどん変わって来ています。今まで美徳とされ尊敬されてきたことがゴミ箱に放り込まれてしまい、その代わりに、最も軽蔑すべきはずのことが最高の徳として今はもてはやされている、と感じる人々もいます。彼らの指摘は正しいでしょうし、パウロがこの手紙を書いた当時のユダヤ人も彼らと同じような視線を異邦人の放縦な行いに対して向けていたことでしょう。ところが、ここでパウロは批判の銃口を異邦人以外にも向けます。他の人々の罪や欠点を見てあげつらっているだけでは不十分なのです。他の人々の欠点をとがめる人自身にこそ、神様の御旨に従って生きて行く義務があるからです。もしそうしないなら、その人は実に変な存在だと言えるでしょう。なぜなら、その人は傍らから他の人々のひどい行いを目にしていながら、自分自身もまた同じことを、もっと洗練され落ち着き払ったやり方ではあれ、行っていることになるからです。このような表面だけ取り繕って自分が義しいと見せかける態度は、神様の怒りを招きます。人間は、他の人々よりも自分のほうがより優れている、と心のどこかで思う傾向があります。しかし実際には、その人も他の人々と全く同じく罪に塗れた存在なのです。神様はこうした偽善的な態度を容認してくださるものでしょうか。「神様の御前では、人は外面で判断されることがありません」(2章11節)、と聖書は教えています。

神様の御旨を知るだけでは無益です 2章12〜16節

神様にとっては、人が御旨を実行していることを自覚しているかどうかはどうでもよく、人が御旨を行うことこそが大切である、という印象を私たちは受けます。人が神様の御旨を知っていながらもそれに従わないならば、いったいどのような益がありましょうか。このように、ユダヤ人もまた結局のところ、異邦人と同じ舟に乗っている立場にあるのです。神様から彼らが受ける質問は、神様の聖なる御旨を知っていたかどうか、 ではなく、彼らがそれに従ったかどうか、ということです。

私たちキリスト信仰者は、ユダヤ人に対するパウロのこの厳しい言葉を口元に微笑を浮かべて聞き流すことはできません。まったく同じ言葉が私たちにも向けられているからです。 神様のことを気にもかけないこの世の人々のほうが実は私たち信仰者よりも善良で親切だ、と思ったことがありませんか。信仰者と比べて、彼らは他の人たちに対してもっとよく気がきいたり、あまり悪口を言わなかったり、より素早い助けを差し伸べたりすることがあるかもしれません。本来なら私たちは、神様が共にいてくださることをこの世に告げ広めて行くような愛を自分でもよく知っているべきなのです。ところが、神様の御旨を知っていながらもそれに従わないとしたら、どうでしょう。

蔑まれている神様の御名  2章17〜29節

パウロはユダヤ人について手厳しい話を続けます。ユダヤ人は神様の御旨を知りつつも、それに従おうとはしませんでした。彼らは霊的に盲目な人々の導き手や、理解力の足りない人々の教師を気取って人前に登場しました。「私が実際に行っていることは見習わず、私が教えている通りに行いなさい」、という助言を付け加えた上で教えていたのであれば、彼らは教師として正しく振る舞った、とも言えたでしょうが。彼らは神様について話すことにとても熱心でした。彼らは自分が神に従う者であることを隠そうとはしませんでした。しかし、このことは残念な結果を生みました。ユダヤ人を傍らから見ていた人は皆、思わず笑い出してしまいました。もしも神の従者を自称する者(ユダヤ人)がこれほど見せかけだけの悪人だとしたら、彼らが仕えているという神は一体どのような存在なのか、と彼らはせせら笑ったのです。異邦人はユダヤ人の偽善的な生き方を面白がるばかりでした。こうして神様の聖なる御名は汚されてしまいました。ユダヤ人は神様のことを話題に持ち出すべきではなかったのです。なぜなら、彼らの生き方は活ける神様を嘲笑の的としてしまったからです。

パウロはまた割礼についても述べています。肉体に刻まれた目印(割礼)によっては誰も神の民の一員にはなれません。神の民の一員になる場合には、目に見えるような変化が心の中で起きなければならないからです。それに比べて、割礼を受けているかどうかは二次的な問題です。大切なのは、神様がその人に満足しておられるかどうか、ということなのです。

これは私たちにとって身に覚えがありすぎて、とても一笑に付すことなどできないことでしょうか。私たちキリスト教徒は神様についてどのようなイメージを周りにいる人々に与えてきましたか。近所の人や同僚は、私たちと一緒にいる時に、活きておられる神様が私たちを通して働いておられることを感じ取っているでしょうか。それとも、キリスト教徒と呼ばれる人も他の人と特に何にも変わらないじゃないか、と嘲笑するきっかけを彼らに与えてしまっているのでしょうか。 活ける神様は人間を愛に満ちた善き存在に変える力の源です。しかし、私たちの生き方を通してそのような神様への関心を抱いた人は、あまりいなかったのではないでしょうか。

私たちが学んだことは何でしょうか

パウロはユダヤ人が異邦人と同様に罪深い人々のグループであることを示すことに成功しました。実のところ、ユダヤ人の状態は異邦人よりもさらに悪いともいえます。なぜなら、彼らの罪深さはユダヤ人以外の人々をも神様の聖なる御名を侮るように仕向けてしまっているからです。 一方では、私たちはキリスト信仰者として問題を抱えていることを率直に認めざるを得ません。私たちキリスト信仰者が人々に伝えるべきメッセージとは、私たちは偉大な人々の生き方について知っていますよ、というのとはちがいます。幸いなことに、次回では私たちが伝えるべき本来のメッセージの内容を深く学ぶ機会が与えられます。


第2回目の集まりのために 「ローマの信徒への手紙」2章

「ローマの信徒への手紙」1章で、パウロは異邦人(非ユダヤ人)が神様から離れて生活している罪深い存在であることを示しました。この2章では、 ユダヤ人もまた神様の御前で罪の負債を抱える存在であることを、彼は示します。ユダヤ人たちは神様の御旨を知っていながら、それに従わなかったのです。このユダヤ人の罪深さのせいで、異邦人たちの間で神様の尊い御名が蔑まれる事態を招いてしまいました。

1)この章でパウロはユダヤ人について厳しい言葉を述べています。その一方、他の手紙では、真の教会こそが神様の新しいイスラエルである、と語っています(「ガラテアの信徒への手紙」6章16節)。このことは、今扱っている章の内容を私たちキリスト信仰者が深く考えるようにと促します。はたして新しいイスラエルは、それまでのイスラエルよりもよい存在なのでしょうか。

a)一般の人々のほうがキリスト信仰者よりもはるかに公正で親切である、という話をあなたは聞いたことがありますか。私たちキリスト信仰者よりも一般の人々のほうが他人の悪口をあまり言わないかもしれないし、手際よく人助けするかもしれないし、他人に対して寛容かもしれません。いったいどこからこのような評判が出てくるのでしょうか。

b)神様の御旨を知っているだけでは不十分である、とパウロは言います。御旨には実際に従わなければならないからです。もしそうでないなら、神様の御国に属するはずの人々による不適切な振る舞いのせいで、神様の聖なる御名がこの世の人々によって蔑まれる結果を招くことになるからです。私たちにとってこれは自分にも当てはまっていることでしょうか。

終わりのメッセージ

裁きの宣告から逃げて

誰であれ私たちは、神様をないがしろにして生きてきた、という裁きの宣告を受けるのが当然の存在です。 「私たちは誰からも指図を受けたくない。私は誰に対しても負債を支払う義務がない。私は自分自身の主人である。私は民主主義の時代の子であり、社会の最高決定者だ。神は存在しないので、裁きの宣告もない。絶対的な命令もない。規範は人間が作り出したものだ。だから、私はすべてを相対的なものと宣言する。戦争や、政治的な権力争いや、税金をごまかすことや、その他の経済的な搾取や、離婚や、過度の飲酒に比べたら、私のやった間違いなどは些細なものだ。私の人生の歩みにはほとんど汚点がなかったとさえ言える。もしも神が存在するとすれば、 たとえば心理療法とか、一人前の国民を育てることなど、人をいたわって世話をする活動が神にあてがわれた仕事ということになるだろう。「かしこより来たりて、生きる者と死にたる者とを裁きたまわん」、というキリスト教会の基本信条である「使徒信条」にある言葉は人間の思い込みによるものにちがいない。」

私たち人間の生き方の主な目標は、神様を端っこへと追いやるか、あるいは、生活の中から完全に閉め出すことです。神様を無視しようという誘惑は非常に大きく、これは私たちキリスト信仰者の場合でも変わりません。

神様から独立するために御許から逃げ出すことについて、聖書の啓示ははっきり否定的な態度を取り、「私は主、あなたの神である」、と宣言します。これは歴史全体を貫く冷徹な裁きの宣告です。日曜日の朝ごとに人々が礼拝という「裁きの場」に自ら出向く有様は、この世においては最も珍妙な光景であると言えるでしょう。

しかし、礼拝に集う彼らは本当に自発的にそうするのでしょうか。

もちろん、それは自発的なことではありません。礼拝に通う人たちは、その人生の早い段階かあるいは遅い段階で主に捕らえられた者、あるいは、たった今捕らえられている者だけです。相変わらず人々は逃走を試み、また実際に逃走し、その足跡を消し去ろうとしています。それでも、とうとう息を切らして一休みするために立ち止まる時、私たちは憐れみの主が私たちを招いてくださる御声を耳にするのです。

耳を疑うかもしれませんが、本当にこれは、あなたがその御許から逃げ出したのと同じ神様なのです。しかし、逃避行を続ける中で私は神様のみわざを行うことができましょうか。神様をないがしろにするこの馬鹿げた傲慢な独立心をいい加減捨てて、主の御国で主の臣下として生きる道を今から歩むことにしたらどうでしょうか。

レイノ・ハッシネン 「輝く明日」