ローマの信徒への手紙4章 アブラハムの信仰

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

どうしてここでアブラハムが出てくるのでしょうか?

最初の1章から3章までで、パウロは福音の核心を紹介しました。すなわち、人は皆、罪深い存在だが、イエス様を信じる時にその罪が赦される、ということです。今彼はアブラハムについて語ることを通して福音の説明を続けます。それにしても、どうして「アブラハム」なのでしょうか。

ユダヤ人にとって、アブラハムはずっと特別な存在でしたし、それは今でも変わりません。彼はユダヤ民族全員の父祖だからです。神様はアブラハムの前に現れて、彼に関わる約束をお与えになりました。このことをおさらいするためには「創世記」の12章から25章までを読み直してみるとよいでしょう。どうしてユダヤ人が皆、自らを「アブラハムの子孫」と呼んでいるかがはっきりとわかります。神様との契約の証印として、アブラハムは割礼を受けました。この出来事以来、彼の子孫は皆、この割礼という慣習に従ってきたのです。しかしパウロによれば、神様の御前で人が救われることは、落ち度のない立派な生き方をしてきた結果としての報酬ではなく、罪の赦しを信じることにのみ基づいていることをすでにアブラハムは知っていたのです。このように使徒パウロはここでアブラハムについて語ることを通して、ユダヤ人全員を一網打尽にしようとしているのです。すなわち、旧約聖書全体にわたる聖徒の一群もアブラハムと共に、キリストに属する人々の仲間入りをすることになるわけです。

今回取り上げる箇所は多くの点で理解するのがとても難しく見えるところです。それでも、あきらめずに学ぶべき理由があります。この箇所は、旧約聖書のモーセの律法の定める食事や犠牲を捧げることに関わる規定に従わなくてよい、という根拠を私たちキリスト信仰者に与えるのものだからです。

アブラハムが見つけたもの 4章1節

この節は、「私たちの民の始祖であるアブラハムが何を見つけたのか、私たちは言えるでしょうか」、と訳すのがより正しいでしょう。パウロはこの質問を読者に投げかけて、すぐにはそれに答えようとはしません。当時のユダヤ人説教者たちは、しばしばこのようなスタイルで教えました。現代人である私たちはパウロが言わんとすることを汲み取れるでしょうか。果たして私たちは聖書を十分に知っているのでしょうか。アブラハムは何を見つけたと言うのでしょう。正解は「創世記」18章3節にあります。それを文字通りに訳すと、「わが主よ、もし私があなたの御目に恵みを得ているなら、どうかあなたの僕(アブラハムのこと。訳者注)を通り過ごさないでください」、となります。これは古代のギリシア語七十人訳旧約聖書でも同じです。アブラハムが見つけたものは「恵み」でした。こうして彼は、キリストの十字架に依り頼む人々皆にとって信仰の父となったのです。この話題にパウロは4章全体を費やします。

旧約聖書と新約聖書の間には共通した言葉遣いがあります。しかし、フィンランド語版聖書の新しい訳(1992年)では、そうした言葉遣いを意図的に別々に訳し分けることによって旧約と新約との間のつながりが見えにくくなってしまっているケースがあります。キリスト教徒は旧約聖書を恣意的にキリスト教の書物として取り扱ってきた、という批判的な考え方がプロテスタントの神学では長い間にわたって影響力をふるってきました。しかしその一方では、新約聖書と旧約聖書とをそれらの用語上の共通点にも注意を払いつつできるだけ正確に翻訳し、両者のつながりを意図的に抹消したりはしない人々がいました。彼らは使徒的な聖書理解の伝統に則って、キリスト教全体が旧約聖書に根ざしているという核心的な要点をきちんと踏まえる姿勢を維持してきました。旧約と新約の聖書のつながりを把握するか、あるいはそれを切断するかということは、実にキリスト教会の今後のあり方を根本的に左右する大問題なのです。

信仰の父、アブラハム 4章2〜8節

パウロはアブラハムと神様との間の関係を深く考究します。アブラハムが神様の御前で義とされたのは、彼が神様の律法に従って生きたからでしょうか。そうではありません。なぜなら、彼は自分が正しく生きたとは一度も自慢していないからです。それに加えて、聖書は、「アブラハムは神様を信じました。主はそれを彼に対して義と認められました」、と記しているからです(「創世記」15章6節)。正しく生きた人は誰からも「義と認められる」必要などはないでしょう。なぜなら、そのような人はすでに義人のはずであり、このことに関して信仰が出る幕はないからです。ところが、今ここで論じられているのは信仰の義についてなのです。

パウロによれば、アブラハムは神様の恵みに疑いを抱いた時、罪の状態に陥りました。主はアブラハムに話しかけ、大いなる報酬を約束してくださいました。それに対してアブラハムは 、「主なる私の神様、あなたは私に何をくださると言うのですか」、と反抗的に答えます。「神様は私がすっかり年老いるまで跡取り息子をくださらなかったのだから、他のどんなものをいただいたとしても私には無益だ」、と彼は考えたのです。 アブラハムは、「自分が神様に不当に扱われている」、と感じています。それで反抗的な態度を取ったのでした(「創世記」15章1〜6節)。神様はそのようなアブラハムを天幕の外に連れ出して、彼に満天の星空を見せます。ちょうど天にたくさんの星があるように、アブラハムにもたくさんの子孫が与えられることをお示しになるためでした。アブラハムは反抗心を捨てて、神様を信じました。パウロによれば、この信仰がアブラハムと神様との間の関係の基本にあります。神様はアブラハムの反抗の罪を赦し、その罪を彼に負わせることをなさいませんでした。

アブラハムの出来事の教訓は非常に単純なことです。たしかに私たちは罪深い人間です。しかし、私たちは神様のくださる恵みと罪の赦しに信頼することができます。そして、キリストにしっかりつながっている限り、私たちもかつてのアブラハムと同じように、 神様に対する信仰の関係を保って活き活きと歩むことができるのです。

割礼についてどう考えるべきでしょうか? 4章9〜12節

パウロは、神学者として正確に「狙い撃ち」を続けます。アブラハムはユダヤ人の祖先と言われています。そして、割礼は彼の子孫の間で「契約の印」と見なされています。

「創世記」17章9〜14節には次のような内容が記されています、

「神はまたアブラハムに言いました、「あなたとあなたの後の子孫とは、代々、私の契約を守らなければなりません。あなたがたのうち男子はみな「割礼」を受けなければなりません。これは、私と、あなたがた及びあなたがたの後の子孫との間であなたがたが守るべき私の契約です。あなたがたは男性器の包皮の先端の部分を切り取られる「割礼」を受けなければなりません。それが私とあなたがたとの間の契約の印となります。あなたがたのうちの男子は皆、代々、家に生れた者も、また異邦人から銀で買い取った、あなたの子孫でない者も生れて八日目に割礼を受けなければなりません。あなたの家に生れた者も、あなたが銀で買い取った者も必ず割礼を受けなければなりません。こうして私の契約はあなたがたの肉体における永遠の契約となるでしょう。割礼を受けていない男子、すなわち男性器の包皮の先端部分を切り取らない者は私の契約を破るゆえ、その民のうちから断たれるでしょう」。

この印に基づいて、アブラハムの子孫は異邦人から区別されています。しかしここでパウロは、アブラハムのことをその信仰に基づいて神様が義と見なしてくださった瞬間に注目します。この出来事はアブラハムが割礼を受ける前でした。ですから、「信仰によって義と見なされる」という約束は割礼を受けているユダヤ人に対してだけではなく、神様が罪を赦してくださったことをアブラハムと同じように信じている、割礼を受けていない異邦人に対しても当てはまることになります。

要するにこの箇所のメッセージは、「モーセの律法に従うことは神様の恵みをいただくための前提条件ではない」、ということです。モーセの律法はある目的のためにひとつの国民に与えられたものです。ユダヤ人ではない私たちがそれに従う必要はありません。それに対して、ユダヤ人ではない私たちも従わなければならない教えは、例えば十戒などの旧約聖書における倫理的な律法であり、イエス様の教えであり、また使徒たちの教えです。

死の只中にある命 4章13〜25節

パウロは深遠な思索を続けます。神様はまずアブラハムに信仰による義と、アブラハムが多くの国民の父となるという約束とをお与えになりました。神様のやり方は、いったん与えてはまた取り去る、といった浅はかな人々のやり方とは違います。約束し与えてくださる時に、神様は後から条件を付け加えるようなことはなさいません。ですから、約束よりも後になって人に授けられた律法が、信仰による義を無効にすることはできないのです。もしもそのようなことをしたら、神様は人に天の御国を継ぐ権利を授ける約束をしておきながら、後からそれを打ち消して権利を取り上げてしまうことになるからです。神様はそのようなことはなさいません。今でも神様はアブラハムにそうなさったように、恵みにより信仰を通して罪の赦しを与えてくださるのです。

アブラハムの信仰は私たちにとって模範的なものです。アブラハムは神様から、自分の子孫が大いなる一族となって行く、という約束をいただきました。アブラハムはこの約束を堅く信じ続けました。彼自身も彼の妻であるサラも人間的に見ればもはや子孫を作れない身体になっていたにもかかわらず、神様は約束なさったことを必ず成就なさる方である、とアブラハムは確信し切っていました。神様は死の只中でも命を呼び起こすことがおできになる、というこの粘り強い信仰が義と見なされたのです。同様にして、私たちもイエス•キリストを死者の中からよみがえらせた神様を信頼することができます。パウロは驚くべき信仰告白でこの章を閉じます。すなわち、イエス•キリストは私たちの罪過のゆえに十字架に打ち付けられ、私たちを義とするために死者の中からよみがえらされた、という信仰告白です。神様の救いの御業は私たちの全く外部から私たちのもとへ到来するのです。私たちを守ってくれるのは私たち自身の義なのではなく、他者の義でありキリストのあがないの御業なのです。

アブラハムの信仰は、神様の約束が本当であると認めることにとどまりません。彼の信仰は、神様の約束に忍耐強く頼り続けることでもありました。実は、こうした姿勢こそが私たちの人生全体を決定づけるものなのです。キリスト教の教える信仰がいかなるものであるかが、このことからわかります。信仰とは、あることを実行した後で忘れてしまうようなものではありません。信仰とは、人が「キリストに属する者」として活き続けることであり、 「神様の子ども」として自分がどのように行動するのがふさわしいか、常に決断することなのです。

アブラハムと彼の信仰について、パウロは難しい書き方をしています。その言わんとすることを本当に理解するためには、パウロと同じくらい旧約聖書全体を知悉する必要があるところでしょう。しかし、一番大事な点は次のことです。すなわち、ひとえにイエス•キリストの御業のおかげによって、私たちは皆、神様が私たちの罪を赦してくださったことを信じてよい、ということです。このことについてはすでに旧約聖書が証ししており、とりわけイスラエルの民の始祖であるアブラハムが証しているのです。


第4回目の集まりのために 「ローマの信徒への手紙」4章

パウロは 義に関する教えを手短かに紹介しました。すなわち、キリストが人類のすべての罪を帳消しにするために十字架で私たちの身代わりとして死んでくださったこのあがないの御業のゆえに、ユダヤ人も異邦人も等しく神様に受け入れていただける、ということです。第4章でパウロは、ユダヤ人の始祖であるアブラハムも、行いではなく信仰によって義とされたことを示しました。このことについて書いた時、パウロは大量の魚(ユダヤ人たちのこと)を一網打尽にしていました。ユダヤ人は自分のことを「アブラハムの子」と呼び、アブラハムの模範に従おうとする民族だからです。

1)この「ローマの信徒への手紙」4章と「ヤコブの手紙」2章21節とを比較してください。ヤコブが反対しているのはどのような考え方でしょうか。この「ヤコブの手紙」の箇所は「ローマの信徒への手紙」4章と内容的に調和できるものでしょうか。

2)パウロは、義の欠けている者を義とすることについて語りました。そして、他のタイプの人々(すなわち、義の欠けていはいない人々)は罪の赦しをいただく必要がない、と言っています。ここで考えてみてほしいのですが、私たちは「義に欠けている者を義とする教え」を忘れて、その代わりに「聖なる者たちを義とする教え」を信仰生活の中に持ち込んではいませんか。

終わりのメッセージ

「罪深い人たちよ、こちらに来なさい」

罪深い人たちよ、(預言者イザヤを通して神様が命じておられるように)救いの泉から水を汲み出すために、喜びを持ってこちらに来なさい(「イザヤ書」12章3節)。毎日、毎瞬、こちらに来なさい。あなたがたとえ信仰が弱く震えている者であったとしても、その手で命の水を賜物としていただきなさい。この水とは罪の赦しのことです。しかもこの水は私たちの善い行いの報酬として与えられるものではありません。キリストの尊いあがないの血の尽きることのない源から、この罪の赦しは流れ出てきます。この水を受け入れることを望む人たちには、あなたがたに対しても誰に対しても、恵みと救いが永遠に満ち溢れることになります。

こちらに来なさい。 罪深いあなたがたのことを、使徒が晴れやかな厳粛さをもってこう招いていますから、「私たちはキリストにあって、その血を通してあがなわれており、罪過の赦しをいただいています」。キリスト御自身が「主の祈り」で教えてくださっているように、毎日、毎瞬の罪の赦しをキリストの血を通して祈るために、また祈るだけではなく、それを受け取り、信じ、そして神様から実際にそれをいただけるように、こちらに来なさい。どうか、この「主の御許に来ること」が私たちの全人生にわたる最善のテーマでありますように。眠りに就く時、起きる時、食べる時、飲む時、座る時、移動している時、言い換えれば、あらゆる時に、あらゆる場所で、このことを繰り返し学びましょう。そうして、私たちが徐々にではあっても、 素晴らしい、皆に開かれた恵みの力の下で生活し、歩んで行くためです。この恵みとは、私たちの行いによる報酬とは関係なくイエス•キリストのあがないの血を通して与えられた罪の赦しに他なりません。

F. G. Hedberg