ヨハネの第一の手紙4章

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

4章 異端の迷い道から離れて隣人愛へ向かうこと

 この4章は「正しい信仰から生じる正しい生き方」をテーマとする4〜5章全体に関連しています。まず異端の教えに対する警告が、それから隣人愛が取り扱われます。

4章1〜3節 説教者を無批判に信用しないように!

 この手紙が執筆された当時は悪質な異端の数々が跳梁跋扈していました。そのため、ヨハネの手紙は神様に属する者たちに対して「説教者たちのうちの皆が皆、神様のために活動しているとは限らない」と警告しているのです。そして、正しい霊と偽りの霊とを見分けるための「ものさし」が説教の聴き手に与えられます。

「あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。」
(「ヨハネの第一の手紙」4章2〜3節、口語訳)

 「イエス様が肉をとってこの世に来られたキリストであること」を告白しない者は偽りの霊であり、それを告白する者は正しい霊です。キリスト教会の最初期に影響力を振るったこの異端の詳細について現在ではかなりよく知られています。「イエスはたんなる霊的な存在であって真の人間ではない」と教える者たちがいました。「イエスは真の人間ではないので受難も受けなかったし、死んだわけでもなかった。イエスは十字架で死ななかったのだから、人間の罪を帳消しにすることもなかった。イエスはいわば一瞬の光のような存在として皆に正しい道の光を示したのだ」といった主張も現れました。雑草のようにしつこい異端の教えの数々を根絶するべく、最初期のキリスト教会は膨大な労力を傾注しました。ここで、私たちの時代にこの箇所を適用する際に留意するべき点を以下に挙げることにします。第一に、説教者のことを注意深く観察するのは失礼な粗探しではありません。その逆です。そうするように、と神様の御言葉が奨励しているからです。偽りの教えは危険であり、神様の神聖さを傷つけます。ですから、それに耳を傾けるべきではありません。第二に、この世は「ヨハネの第一の手紙」が書かれた当時と比べて本質的には少しも変わっていません。同じような異端の教えが現代の私たちの間でも影響を与えようとしているからです。たとえば、ルドルフ・シュタイナーの人智学(あるいはそれに近い神智学やキリスト教神智学など)がその例です。これら異端の教えの背景には同一の教えがあります。「異端や他宗教が運営する団体、たとえばシュタイナー式教育を行う教育施設に自分の子どもを入れてもよいかどうか」と質問する人がいます。「ヨハネの第一の手紙」のメッセージをよく学んだキリスト信仰者なら、そのような施設には我が子を委ねないことにするでしょう。

4章4〜6節 異端を斥けることによって異端に勝つことができます

 「ヨハネの第一の手紙」を受け取った人々は間違った教えに巻き込まれることはなく、逆にそれらを斥けることができました。こうすることによって、彼らは偽りの教えの試練に打ち勝ったのです。彼らを守ったのは彼ら自身の知恵ではなく、神様の愛です。神様が御自分に属する者たちを守ってくださったのです。異端の教師たちの教えは、いかにも人間が考えそうなことと非常に合致します。この世の意向に沿って生まれた教えがこの世にうまく適合するのは当然です。その一方で、この世にはそのような堕落から守られた「神様の子どもたち」の群れが残っています。イエス様の使徒たちが守り受け継いできた「使徒的な言葉」は神様の御言葉です。そして、この真理を神様から知らされた者は使徒たちの伝えた御言葉を素直に聴き入れるものです。しかし、神様を斥ける者は使徒的な言葉をも斥けます。この「境界線」は明快そのものです。こうして私たちは異端の教えについてさらに多くのことを学ぶことができました。神様の御言葉の場合とは異なり、異端の教えが一般の人々の間で大きな人気を博することがあります。また、偽物の説教者がこの世からたいへん尊敬される場合もあります。罪深い存在である私たち人間にとって、正しい教えというものはとても嫌に感じられることがしばしばあります。異端の苦しい戦いはやめにして聖書の教えから離脱するほうが楽そうな生き方に見えたりもします。ところが、そんなことをすると神様も捨て去ることになってしまうのです!ですから、これはきわめて重大な問題なのです。使徒的な御言葉を捨てる者は神様も捨てるのであり、その結果として惑わす霊に操られるようになるからです。

4章7〜12節 互いに愛し合いなさい

 使徒ヨハネはここで再び「キリスト信仰者としての正しい生き方」というテーマに戻ります。この生き方は正しい教えと信仰から生まれてくるものです。とりわけ7〜12節は、神様の愛とキリスト信仰者の愛を奏でる美しい霊的な歌であるかのようであり、「愛」という言葉が幾度となく繰り返されています。この箇所は、使徒パウロの名高い「愛の讃歌」(「コリントの信徒への第一の手紙」13章)に相当する使徒ヨハネの歌である、という見方もできるでしょう。「正しい秩序」を守ることがこの箇所の理解でも大切になります。第一に、「キリストの愛」が徹底的に強調されます。第二に、それに基づいて様々な結論が引き出されていくのです。「愛」は、純粋に燃え立つ真心の愛が具体的な形をとることを通じて示されるべきものです。実際にこの愛はゴルゴダの丘、キリストの十字架において誰の目にも明らかな形で示されました。神様は御自分の独り子を世にお遣わしになり、この御子の血によって罪深い全人類のすべての罪を帳消しにしてくださいました。ひとえにそのおかげで、私たち罪人と神様との関係はすっかり改善されました。神様御自身が修復してくださったのです。このような「真の愛」は私たち人間の心のうちにはありませんが、父なる神様の心のうちには確かに存在しています。私たち人間の心は時には暖かく時には冷たくなります。それとは異なり、神様の恵みは決して変わりません。このことがわかった人はどのような嵐にも揺らがない盤石の基を見出します。神様の愛に根付いてから、この愛にふさわしい具体的な結論をひとつひとつ導き出していくのが、キリスト信仰者の使命になります。神様が私たちをこれほどまでに憐れみ愛しておられるのですから、私たちも隣り人を愛していくべきなのです。隣人愛の実践を通して、私たちの信仰生活において神様の善き本質の占める領域が拡大されていきます。キリスト信仰者たちの活動を通して、神様からの祝福が悪に満ちた冷たいこの世のなかに注がれていきます。そして、憎しみに代わって赦しが、脅迫と復讐に代わって祝福がもたらされるのです。このような形で神様の御国はすでにこの世において具体化されていきます。世の終わりまで不完全なままではあるものの、神様の愛が生み出した「信仰の初穂」はすでにこの世において収穫の時を迎えます。そして、この収穫について善なる天の御父様は皆からの感謝をお受けになります。

「神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。」
(「ヨハネの第一の手紙」4章12節、口語訳)

 このヨハネの言葉は聖書の読者の多くを不思議がらせてきました。なぜヨハネは「神を見た者は、まだひとりもいない」と言うのでしょうか。それなら、アブラハムやモーセやイザヤやエゼキエルの場合はどうだったのでしょうか。

 この言葉の背景にはユダヤ人の信仰の歴史が関係しています。異邦人は偶像を作って、それを拝んでいました。旧約聖書に登場する聖徒たちにとって、人間が神様の像を作ったり描いたりすることは決して許されないことでした。神様は、偶像を作る職人たちが想像しているような「人間の形」をした存在ではありません。主なる神様はそういうのとはまったく異なる存在なのです。こういった事情があったために、後の時代のユダヤ人たちの信仰の教えはこの問題に対してきわめて慎重な態度を取り、旧約聖書の誤解を招きそうないかなる可能性をも残さないように努めました。それゆえに、ユダヤ人の教師たちは「旧約聖書に登場する聖徒たちは実際には神様御自身を目にしてはおらず、神様の栄光の輝きだけを見ていた」と説明したのです。このような解釈は、私たちが太陽をちらっと見ようとする時のことを考えてみるとわかりやすいでしょう。その場合にも、私たちは太陽自体を見るのではなく、その眩い光の輝きのみを目にしているからです。

4章13〜21節 愛と救いの確信

 どうすれば私たちは人生の最後の瞬間に至るまで信仰に留まることができるのでしょうか。「このことは神様の御霊にお任せするしかない」というのがヨハネの答えです。神様の御子を信じる者は終わりまで耐え抜くことができます。神様はその人を最後の裁きの日まで守ってくださいます。隣り人を愛しながら生きていくことが、私たちの使命になります。なぜなら、そのように神様は私たちを通して働きかけてくださるからです。神様に安心して信頼することで、恐れは追い払われ、平和が与えられます。永遠の滅びと神様の怒りを恐れている人は神様の愛の深さを十分には理解していません。隣人愛を拒む者は、それとともに神様をも拒むことになってしまいます。

 この短い箇所でも多くの重要事項を学ぶことができました。新約聖書に収められたヨハネの三通の手紙の言う「愛」とは感情ではなく活動です。隣り人が餓死するのを放置しておいて「自分は隣り人を愛している」とうそぶくことは誰にもできないはずです。それと同じように、神様の御言葉にわざと反する生き方をしていながら「自分は神を愛している」とは誰も言えないはずです。信仰と正しい教えと愛とは、すべてひとつに結びついているものなので、そのどれかひとつが欠けても存在できなくなるのです。教えと生き方とが引き離されて全く逆のものとして対置されることがしばしばあります。しかし、それはまったくの誤解です。これら二つは決して互いに引き離すことができないひとつのものだからです。

 「救いの確信とはいかなるものか」を私たちはここで学びます。それはキリストの愛を知ることであり、神様の恵みに安心して信頼することです。この確信は私たち自身のうちにあるものでも私たちの信仰の中にあるものでもありません。この確信はキリストのうちに、またキリストの愛のうちにあるものです。罪深い存在である人間が十字架の主に信頼する時、地獄の炎は吹き消されます。そして、神様からの平和は私たちに今すでにいくばくかの天の喜びを与えてくれます。このことを私たちは適切に信じることも理解することもできません。私たちが聖書の御言葉を信じるようになるためには十分な時間が要るからです。まさに今このような自分のままで「神様に属する者」とされているのは俄かには信じられないことです。しかし、これは本当のことなのです。なぜなら、聖書がそう教えているからです!