ヨハネの第一の手紙5章

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

5章 神様の家族

 「ヨハネの第一の手紙」の学びを通して「厳しく要求する御言葉」と「慰めと安心を保証する御言葉」とを私たちは聴きました。この手紙の最終章では、ヨハネは主として手紙の受け取り手たちに対して語りかけ、互いに愛し合うように奨励しています。

5章1〜4節 父なる神様は御自身を共通の父にもつ者たちの間に兄弟愛を育まれます

 ヨハネは手紙の受け取り手たちのほうに向き直ります。彼がここで述べることはこの世の人々や人類一般に関わるものではなく、手紙の受け取り手であるキリスト信仰者同士に関わるものだからです。キリストへの信仰は人間からではなく神様から発しているものです。キリスト信仰者とは、神様が新たに生んでくださった存在です。しかし、キリスト信仰者は神様の家族における一人っ子ではありません。主なる神様には他にもたくさんの息子や娘がいます。父なる神様を愛する者は父の他の子どもたちのことも愛するようになるものです。この「子どもたち」は、各自が不思議な導きを受けて神様の恵みによって信仰を授かることになった人々全員のことを表しています。神様を愛することは非常に具体的なことです。この愛は「神様に属する者たち」との関係において、また神様の戒めに対する態度においてあらわれます。これらすべての背景にある信仰は神様からいただいた賜物です。信仰は神様から発してこの世に勝利するものだからです。信仰の炎は決して消えることがなく、燃え上がり、他の者たちを愛によって暖めます。信仰にとって神様の戒めは重苦しいものではなく簡単に満たすことができるものとさえ言えます。

 「ヨハネの第一の手紙」がその言葉少ない表現の中に、俄かには信じがたいほど多様な内容を湛えていることを、私たちはこれまで学んできました。それは今の箇所にもあてはまり、多数の重要事項を深く理解する機会を提供します。信仰は人間が自らの力で絞り出せるものではありません。このことに異議を唱える人たちも大勢います。にもかかわらず、信仰は神様からの賜物なのです。これは子どもの出産の時の状態と似ています。母親が出産しないかぎり、子どもはこの世に生まれて来ません。それと同様に、神様が新たに生んでくださらないかぎり、すなわち、信仰の賜物を与えてくださらないかぎり、その人が信仰するようになることは決して起こりません。他の人を信じるように強いたり脅したりするのは無益です。教会のイメージを大々的に宣伝したり、注目を引く模範的行動をとったりするのも徒労に終わります。信仰は常に聖霊様からの賜物であり続けるからです。このことは人を神様の御前で謙虚にします。私たちは傲慢さも自分の力もない者として「どうか私たちが神様の恵みと愛を理解できるようにしてください」と父なる神様に祈ります。私たちは、自分では何もせずにただ立ちつくして、信仰が向こうからやってきてくれるのを待ち続けようとは思いません。私たちは神様の聖なる御霊が用いられる手段である聖書とサクラメント(洗礼、罪の赦しの宣言、聖餐)を活用したいと思います。恵みを私たちに分配してくれるこれらの「恵みの手段」を通して、神様は私たちの只中で働きかけ、信仰を生み出し維持してくださいます。もしもそうでなければ、私たちの人生の最も重要な領域である信仰生活において何の変化も起きないことになってしまうでしょう。

 「信仰の兄弟姉妹」は頻繁に用いられる表現です。まさにこの聖書の箇所において、この表現が内実のないただの常套句ではないことに注目するべきでしょう。私たちには共通の父がおられます。人間の家庭においても、自分の子どもが他人とばかり親しげにしているのを好ましく思う親はいないでしょう。子ども同士の仲違いや、家族の中でのいがみ合いは多くの親の心痛の種です。それとは逆に、家族が互いに愛し合うことは親の心の喜びです。神様の家族においてもこれはまったく同じです。憎しみや復讐心は、まさに神様の家族にこそあってはならないものです。神様の戒めを満たすのは、自分の力に頼っている者にはまったく不可能です。不信仰な人にとって神様の戒めは、神様をないがしろにしたその人の生き方を映し出すものだからです。不信仰な心は神様の知恵に対してへりくだろうとはしません。「ヨハネの第一の手紙」のガイドブックでしばしば強調してきたように、キリスト信仰者は多くの点で不完全であり罪深い存在です。にもかかわらず、神様の賜る信仰は神様から賜った戒めに対してへりくだります。私たちの内部では「自己すなわち不信仰」と「私たちのうちにおられるキリストすなわち信仰」とが絶えず戦っています。この霊的な戦いにおいては、たとえば、わずかばかりの献金をも出し惜しみするか、それとも多額の献金を気前よく行うか、傷つけられた場合に傷つけ返すのか、あるいは罪を赦そうとするのか、日曜日の朝にだらしなく寝過ごして礼拝を休むのか、それとも神様の民と共に贖い主に感謝を捧げるために礼拝に出かけていくのか、といった具体的なケースについてその都度決断していくことになります。

5章5〜12節 人々への神様からのメッセージ

 この箇所には至極単純な福音が隠されています。イエス様について証をするのは人間だけではなく、ほかでもない神様御自身なのです。「キリストにおいて神様は私たちに永遠の命を賜る」という御子キリストについての証を神様御自身がなさっています。もしも人がキリストを受けているのなら、その人は永遠の命をも受けています。もしも人がキリストを受けていないのなら、その人は永遠の命も受けていません。この証を神様は幾度も繰り返されました。たとえば、キリストが洗礼を受けられた時がそうでしたし、また、キリストが死なれた時や復活なさった時にもそうでした。キリストの復活は神様からの大いなる「アーメン」であると言えます。御子が「全世界のすべての罪を帳消しにする捧げ物」として御自身を差し出されたことを、神様が「アーメン」と承認なさったのです。このように神様の救いの御業は、イエス様がこの地上で人間の歴史に刻まれた歩みと密接に関係しています。

「このイエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである。水によるだけではなく、水と血とによってこられたのである。そのあかしをするものは、御霊である。御霊は真理だからである。あかしをするものが、三つある。御霊と水と血とである。そして、この三つのものは一致する。」
(「ヨハネの第一の手紙」5章6〜8節、口語訳)

 「ヨハネの第一の手紙」が書かれた当時、イエス様が十字架で苦しみを受けて死なれたことを真っ向から否定する異端が出てきました。この歴史的背景を踏まえると、上掲の聖句が理解しやすくなると思います。この種の異端の教えによれば、「ヨルダン川でイエスが洗礼を受けた時になってようやく神はイエスを自分の子として承認した」ということになります。しかし、この異端の教師たちにとって、イエス様はたんにある種の神的存在や霊的存在にすぎなかったため、十字架で苦しみを受けることも死ぬこともできるはずがありませんでした。この異端を反駁したヨハネは単純かつ爽やかなやり方で神様の真理そのものを教えています。すなわち、「イエス様はまことの神様であるばかりではなく、まことの人でもあられ、すべての罪を帳消しにするために御自身の尊い血を十字架で流してくださった」ということです。イエス様の受けられた洗礼はイエス様の受けられた十字架の死と同じことを証しており、聖霊様もこの証に加わってくださいます。神様は聖地においてかつて一度だけ証を与えたのではなく、教会において絶えず証を与え続けておられます。私たちの受けた洗礼と私たちがいただく主の聖餐とがこの証です。

5章13〜21節 手紙の結び

 ヨハネは手紙を書き終える用意にかかります。「神様に属する者たちは永遠の命と神様の子どもとしての地位を本当にいただいている」という喜びに満ちた確かな証によってこの箇所は始まります。「私たちの祈りは天において聴き届けられる」という確信も私たちにはあります。ここでいう「祈り」とは、内容的には他のキリスト信仰者たちのための「とりなしの祈り」を指しています。祈りは確かに聴かれ、キリストのゆえに罪の赦しも保証されているのです。ただし例外的なケースもあります。それについては次の聖句をみてください。

「もしだれかが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見たら、神に願い求めなさい。そうすれば神は、死に至ることのない罪を犯している人々には、いのちを賜わるであろう。死に至る罪がある。これについては、願い求めよ、とは言わない。不義はすべて、罪である。しかし、死に至ることのない罪もある。」
(「ヨハネの第一の手紙」5章16〜17節、口語訳)

 「死に至ることのない罪」と「死に至る罪」という表現は「ヨハネの第一の手紙」を読んだことのある現代の人々の心にいろいろな疑問を生み出しました。良心の呵責を覚えずに行ってかまわないような罪があるということなのでしょうか。とりなしの祈りさえも適用されないような罪があるということでしょうか。これらの疑問に答えるためには、聖書の書かれた背景にあった最初期の教会の習慣や具体的な状況についての知識が必要になります。

 最初期のキリスト教会は、罪の赦しの恵みが必要だと自覚している「罪深い人々」が教会に集っていることをよく知っていました。しかしその一方では、教会から一部の人々が追放される事態を招くような理由や原因も確かにありました。その例の一つがパウロの「コリントの信徒への第一の手紙」5章に記されています。「教会からの追放」は、追放された人間に対しては神様からの罪の赦しの恵みがもはや適用されなくなることを意味していました。教会が下すこの罰は峻酷だとも言えます。しかし一方で、それは教会員たちの信仰を整えて守っていくための教会の霊的な活動の一環でもありました。追放処分を受けた人は、罪を悔い改めないかぎり自分が地獄に落ちていくほかないことを自覚せざるを得ませんでした。しかし、生きている限り追放された人は、自らの罪を悔い改めて教会に告白し、改めて罪の赦しの宣言を受けることも許されていました。これは「神様に属する民」の許に戻ることであり、異端の教えをきっぱり捨て去ることであり、神様を侮蔑するような何らかの特定なひどい罪をやめることでもありました。上掲の聖句の謎めいた表現には、次のような背景があったのではないかと思われます。すなわち、「キリスト教会内には絶えず互いに祈り合う習慣があり、神様の恵みを祈り求めることに加えて、他のキリスト信仰者たちの罪のことも祈りに覚えていた」ということです。キリスト教会から追放された人々はキリストの御業の適用範囲外に置かれたため、教会のこの祈りの活動は彼らにはもはや関わりのないものになってしまいました。もちろん「彼らが悔い改めますように」と人々が祈ることはできました。しかし、これはすでに別の問題です。現代の私たちから見ると、最初期のキリスト教会が教会員に課した処分の厳格さはたいへん意外に思われます。一般的に見れば、現代のキリスト教会においてはこれほど厳しい懲罰はもはや実行されていないでしょう。しかしこうした変化の背景には、私たちが個人主義や自由主義によって物事を考えて判断することにすっかり慣れきっていることも関係しているでしょう。キリスト教会の二千年にわたる歴史において例外的なケースなのは、最初期のキリスト教会ではなく、むしろ私たちが生きている現代のキリスト教会のほうなのです。私たち現代のキリスト信仰者は人々に警告したり奨励したりするのをすっかりやめてしまいました。これは「地獄に落ちていく通路が以前の時代よりも狭まくなり、天国への扉は以前よりも広くなった」といった身勝手な想像を現代のキリスト信仰者の多くが信じ込んでしまっているからなのでしょうか。最初期のキリスト教会には、神様の厳しさと憐れみ深さとに関する明確な理解がありました。この理解に基いて、キリスト教会は隣り人に対しても霊的な責任を負いました。まさにその一環として厳罰を下さなければならないケースも残念ながら存在したということです。現代の私たちは「自分たちは隣り人について霊的な責任を担っている」とはたして言えるでしょうか。むしろ私たちの態度は次に引用する聖句でのカインの態度に似てはいませんか。

「カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。」
(「創世記」4章8〜9節、口語訳)

 最後の数節は「ヨハネの第一の手紙」の総括です。

「すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている。そして、わたしたちは、真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおるのである。このかたは真実な神であり、永遠のいのちである。子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい。」
(「ヨハネの第一の手紙」5章18〜21節、口語訳)

 神様から生れた者は罪を犯さないし、この世とは異なり、悪しき者の配下にもありません。私たちキリスト信仰者は世の終わりの日にキリストのゆえに救われます。キリストはまことの神様であり、永遠の命そのものです。キリストを拒む者は偶像礼拝者であり、ヨハネは彼らについて厳しく警告しています。このように「ヨハネの第一の手紙」の結びの言葉は、手紙が一貫して語ってきたことと同じ内容を繰り返し強調しているものです。キリスト信仰者はこの世のようにではなく神様の子どもにふさわしく生きていくべきであり、キリストのうちに留まるべきなのです。罪深い人間存在にとっては、キリストこそが唯一の希望だからです。この二点に「ヨハネの第一の手紙」の内容を集約することができるでしょう。これは私たちの信仰を整えてくれる心暖かな手紙です。そして、手紙の湛える厳格さでさえも、手紙の真の差出人である神様からの、私たち読者に対する大いなる愛を反映させているのです。