ヨハネの第一の手紙1章

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

1章1〜4節 御言葉は揺るがない

 ヨハネはこの手紙を挨拶ではなく「ヨハネによる福音書」の冒頭とよく似た「宣言」によって書き始めます。「命の言」なるキリストは永遠の始まりからこのかた存在し続けておられます。キリストがこの世にお生まれになった時、それと共に命があらわれました。主の語りかけを聴く機会や主に接する機会があったキリストの証人たちは「永遠の命」の奥義を全世界に向かって告げ知らせてきました。この奥義の核心に触れた者は父なる神様と御子イエス・キリストとの結びつきによって生じる特別な喜びを周りにいる人々と分かち合っていきます。ここでヨハネの言わんとすることは明瞭です。すなわち、キリスト教の信仰は幻想ではなく、人間が自分で捏造した作り話でもありません。この信仰の基はイエス・キリストです。「主は現実に存在なさっている」と自ら確信した者がこの手紙の読者に向けてイエス・キリストについての証をしているのです。すでに手紙の冒頭において、私たちが学びを通して身につけるべき大切な内容が綴られています。現代においては「人間は神について何かを知ることはできず、神の偉大さをそれとなく想像することくらいしかできない」といった主張する人々が大勢います。この考え方は部分的には正しいとも言えます。神様は私たち人間にとっては「隠れたる神」(ラテン語で ”Deus Absconditus” と言います)だからです。しかし、神様のこの側面は不適切に強調されることが多々あります。たとえば、「信仰に関わる話題については小声でささやきあうだけにして、すべての花々が好き勝手に咲き誇るようにほうっておけばよい」などと言われたりもします。ところが、ヨハネの教えはこれとは正反対です。それによれば、使徒の伝える御言葉は確実で揺るがないものであり、それを聴く者たちのうちに特別な喜びと確信を生み出します。この確信は脆弱でも珍妙なものでもなく、神様の大いなる救いの御業に由来する喜びに満ちた信頼です。キリストが成就なさった御業について神様の御言葉による証をしっかりもっている私たちは、信仰の確固たる基盤をすでに見出しているのです。この基盤は、人間が自ら作り出す物事一般とは異なり、私たちの足下で突然崩れ去りはしません。

1章5節 暗闇と光とは互いに整合しません

 この節は、ヨハネがこれ以降の箇所で述べる内容の「見出し」のような役割を担っています。その後には短い教えの聖句が続きますが、それについては一つずつ取り上げていくことにしましょう。この見出しは以下に続く一連の教えの核となるものです。神様の栄光は目が眩むほどのものです。旧約聖書に登場する人物のうちの幾人かは、神様の偉大さを目の当たりにして地にひれ伏し自らの罪の深さを嘆きました。「イザヤ書」6章がその一例です。「いったい何が神様の栄光と整合するもので何が整合しないのか」という観点から、ヨハネの一連の教えの聖句は物事を検証していくことになります。

 光と神様の御国だけではなく、暗闇と悪魔も実在するものです。また、天国だけではなく地獄も存在するし、正しい生き方だけではなく、永遠の滅びへと陥れる悪い生き方もあります。私たちは「ヨハネの第一の手紙」を読み進める前に、ここでいったん落ち着いて考える必要があるでしょう。ヨハネが提示している問題設定を現代の私たちも提示することができるでしょうか。むしろ「このようなことがらについてはどのような考え方をしてもかまわない」とか「信仰をめぐることがらについてもそれはあてはまる」などと考えたり言ったりする傾向がありはしませんか。「どのようなことが罪か」を知らせてくれるはずの良心の感覚が鈍くなっていないでしょうか。たとえば、フィンランド・ルーテル福音教会の礼拝では次のような罪の告白を用いています。

「わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。」
(「詩篇」51篇5節、口語訳)

「ペテロと同じように自らの罪を嘆き悲しむことができるように、どうか私にあなたの聖なる恵みをお与えください。」

 しかしながら、私たちは自分自身の罪を十分に知っているのでしょうか。そして、自らの罪を嘆き悲しんでいるのでしょうか。おそらくはまさにこのためにこそ、ヨハネがここで徹底的に実践している厳密な境界の画定作業が私たちには必要なのです。ここで問題設定を再掲します。すなわち「何が神様の栄光と整合し何が整合しないのか」という問題です。

1章6〜7節 光の子は暗闇の中では生きません

 最初の境界を画定するのは単純な作業です。自分が「光の子」であると主張しながら、光よりも暗闇の中で生きるほうを好む者は矛盾しており、嘘偽りを語っていることになります。光を受け入れた者は、キリスト信仰者にふさわしく光の中で生きることを望むものです。ここで光と暗闇をめぐるこの言葉が何を意味しているかは明らかでしょう。それは人間の実生活に関するものです。そして、キリスト教信仰を出発点に据えて「人はどのように生きていくべきか」という問題に対する結論が導き出されていくことになります。

「兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである。」
(「ヨハネの第一の手紙」2章11節、口語訳)

 この聖句が教えているように、「自分はキリスト信仰者である」と言いながら隣り人を憎む者は自己を偽っているのです。キリスト教信仰において、正しい生き方を実践することは信仰と分かち難く結びついています。まさにそのようにして、罪の赦しを受けつつ栄光の主と共に生きることになるからです。これは聖書が何度も繰り返し教えている主題のひとつです。私たちは確かに罪の赦しを受けています。それも自分自身のゆえにではなくキリストのゆえにです。しかし、「どのような罪についても結局は赦しをもらえるのだから」という理由であたかもキリスト教信仰が恥知らずの生き方を容認するかのように考えるのならば、私たちはキリスト教信仰についてまったく誤解していることになります。

1章8〜9節 光の子は自分の罪深さを否定しません

 前項で扱った教えを踏まえた上でこれから述べる教えを読み進めていくのは有益な作業です。神様は眩いばかりの輝きに包まれた完全に神聖なお方です。それとは対照的に、人間の霊的な状況はこれとはまったく異なっています。神様の御前で人は皆、罪を咎められるべき罪深い存在であることが明らかに示されます。そして、この真実を否定する者は正しい信仰を捨てていることになります。キリスト信仰者は、神様の偉大さと神聖さへの信仰を告白するとき、それと同時に自らの罪深さを間断なく認めて告白することにもなります。そのようにして、神様はキリストの血のゆえに罪の赦しを私たちに分け与えてくださるのです。かつて出現した異端の教師たちがきっかけとなって、このことに関する聖書の教えがこれほど明瞭なものになったという意味では、彼ら異端の教師たちに感謝するのもあながち不適当とも言えないのかもしれません。おそらく彼らは「自分たちは今や罪がまったくない人間になった」といったことを主張したのではないかと思われます。そのため、ヨハネには「キリスト信仰者は自らの罪を隠すべきではない」と強調する正当な理由があったということです。現代の私たちにとってもこれは素晴らしいメッセージです。私たち人間は皆、罪深い存在であり、本来ならば神様からの怒りの裁きを受けるのが当然です。ですから私たち人間は、神様の栄光の輝きを目の当たりにする時には這々の体で追い払われるほかない、まったくもってどうしようもない存在なのです。私たちが「自分は実はこのような者である」という正当な自己評価を下すことを、神様はたんに許可するだけではなく、そうするように命じてもおられます。もしも私たちが自分自身についていくばくかであれ知っているのならば、これ以外のいかなる自己評価も偽りにすぎないことが自分でもわかるはずです。この章の教えている命の御言葉はとても単純なものです。あなたは自分自身においては罪深い存在であり、本来は神様の裁きの罰を受けるのが当然なのです。しかしその一方では、あなたはキリストのゆえに清められた聖なる存在でもあります。そして、これ以外のいかなる教えも神様の栄光とは整合しません。さらに、ほかのどのような教えも罪深い存在である人間の心に真の平和をもたらすことができないことを私たちは自らの経験に照らして断言できることでしょう。