ヨハネの第一の手紙2章

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

2章 神様の栄光の輝きと罪深い人間存在

 手紙の1章の最後の節は2章の冒頭と内容的につながっています。それゆえ、それらを一緒にして扱うことにします。まず、1章全体の構成をおさらいしましょう。

 ここで根幹ともいえる聖句は「神は光であって、神には少しの暗いところもない」という1章5節です。この基本聖句から導き出される一連の教えがその後に続きます。そして、「神様の目も眩むような栄光の輝きと何が整合し何が整合しないか」という「境界線」を引く作業が行われます。「自分は神様に属する民である」と主張しておきながら依然として罪の中に生き続けるのは神様の栄光と整合しません(1章6〜7節)。また「自分は罪のない者である」という主張もやはり神様の栄光と相容れるものではありません(1章8〜9節)。ここで、1章と2章をつなぐ次の教えを取り上げましょう。

1章10節〜2章2節 光の子は自らの罪と戦う

 第三の教えは前述の二つの教えと類似しているように見えます。しかし、この教えはさらに先のほうへと私たちを導いてくれます。ここで批判の対象となっているのは、自らの罪深さを一応は認めつつも実際にはそれを否定している人々です。自分が罪深い者であることを認めるだけなら簡単です。しかし、自分の具体的な悪い行いについてそれが罪であることを認めるのははるかに困難なことです。それでも、キリスト信仰者はそうすべきなのです。そうしないと、神様のことを嘘つき扱いすることになってしまうからです。神様は「人間は皆、罪人である」と断言なさっているし、十字架で流されたキリストの血のゆえに私たちの罪を赦してくださるからです。もしも私たちが「自分は清い存在である」と言い張るなら、キリストの十字架への歩みがまったく無駄であったばかりか、偽りの行いであったとさえ決めつけることになってしまうからです。この箇所の最後の部分で、ヨハネは手紙の受け取り手たちに「わたしの子たちよ」と愛を込めて呼びかけています。今まで出てきた一連の基本的な教えによって結論を述べる用意ができました。すなわち「罪は神様の栄光とは決して整合しないものである」ということです。人が自らの罪深さを否定したり自らの悪い行いが罪であることを否認したりすることも、神様の栄光とは相容れません。人はこのことを真理として受け入れて、神様の神聖さと自分の罪深さ、および神様の御子がその尊い血によって全人類のすべての罪を帳消しにしてくださったことがわかるようになってから、「罪と戦いなさい!」という奨励の御言葉に耳を傾けることができるようになります。罪は危険で恐るべきことです。しかしその一方では、次のような慰めの御言葉も響き伝わってきます。

「もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。」
(「ヨハネの第一の手紙」2章1節より、口語訳)

 1章の教えによっても、また自らの経験に照らしてみても、私たちが罪を今でも行っていることは変わりようがない事実です。そのような私たちに対して「助け主」であり「弁護者」なるお方が父なる神様の御許にいてくださるのです。イエス・キリストこそは私たちの罪をすべて帳消しにしてくださったお方です。この罪には私たちの罪だけではなく全世界のすべての罪も含まれています。

2章3〜5節前半 光の子は主の戒めを愛します

 第四の教えについては、主イエス様御自身が短くこう言われています。

「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。」
(「マタイによる福音書」12章33節、口語訳)

 この手紙が執筆された当時、自分が神の道を知悉していることを誇示する異端教師たちが存在しました。ところが、彼らの実際の生活態度は神様の栄光の輝きとはまったく相容れない「悪い模範」とも言えるものでした。それゆえ、このような教師たちを拒絶して、彼らとははっきり袂を分かつよりほかに正しい選択肢はありませんでした。これとは反対に、正しい教師たちにとって主イエス様の戒めは好ましい愛すべき対象になります。イエス様への愛は、存在感なくあてもなく浮遊しているだけのものではありません。イエス様への愛はイエス様の御言葉への具体的な姿勢としてあらわれるものだからです。神様の御言葉はこの点においてもきわめて厳しいものであるため、御言葉によって自己を吟味した私たちは主の御前で頭を垂れるほかなくなります。この御言葉の教えを前にして辛い思いをすることになるかもしれません。その辛さがどれほど深いものであろうとも、「光の子は自らが根底から罪深い存在であることを否定しない」というすでに取り上げた教えを思い起こしましょう。さらに付け加えるなら、これは現代の私たちにも驚くほどよく当てはまる教えです。説得力のある話し方ができる人、強い影響力を周りに与える人、才能に溢れた人など、現代の世界にも様々なタイプの教師がいます。意外に思われるかもしれませんが、神様の御言葉を教える立場の人間の生活態度は、彼の教会に通う人々には関係のない個人的なものではありません。それとは反対に、私たちキリスト信仰者は「御言葉の教師たちがどのような生き方を実際にしているかを吟味するように」という御言葉の奨励を受けています。吟味する際の基準になるのは魅力的な教師の笑顔とか物腰の低さとかではありません。「神様の御言葉が聖書の教師の生き方に具体的に反映されているかどうか」という点です。これは「具体的な聖句に対してどのような態度で接しているか」ということです。もしも聖書の教師の実生活がこの吟味によって明るみに出されるのにふさわしくないものならば、彼は説教で教えたことを自らの生き方によって否定していることになります。そのような場合には、誰も彼の説教に耳を傾けるべきではありません。

2章5節後半〜8節 光の子は主イエス様の模範に従って生きます

 ヨハネは容赦のない攻撃を続けます。そして、異端の教師たちの作り事をあたかもトランプカードで組み立てた家を潰すようにして倒壊させます。異端の教師たちは自らの特殊な体験と知識に依拠し、神様のことを知悉していると主張します。これに対するヨハネの返答は率直です。真に主に属する者にはイエス様の自己犠し牲の愛を自らの模範とする義務があります。ところが、聖書の教師がこの義務を遵守しようとないなら、そのような教師の教えることは虚偽です。おそらく異端の教師たちは聴衆の興味を引くような斬新なメッセージを喧伝したのだと思われます。それとは反対に、ヨハネは古くからあるごく単純な戒めをここで与えています。それは「キリストの模範に従って生活しなさい!」という戒めです。キリスト教信仰は理論的なものでも小難しいものでもなく、きわめて単純なものなのです。それを再び確認しておきましょう。すなわち「キリスト信仰者は神様の恵みと愛を受けて生活し、御言葉を聴き、それに基づいて悔い改めを続けていく」ということです。私たちの信仰はこれよりも複雑なものではありません。それでも、聖書について研究し教えるべきことがらは、私たちが永遠の世界に移り住む時が来るまで、常にあり余るほどあるのです。

2章9〜11節 光の子は隣り人を憎みません

 ヨハネは内容をできるかぎり正確に書くことで誤解の余地を残さないように努めています。「隣り人に対してどのような態度をとるべきか」がこの箇所のテーマになります。「自分は神様のものである」と主張しつつ隣り人を憎み続けている人は自分自身を欺いています。これは誰の目にも明らかです。その人は「自分は光の子なんだ」と思い込んでいるかもしれません。しかし実際のところ、その人は今もなお暗闇の中に留まっているのです。暗闇の中を歩む者は正しい道を見つけることができない「迷子」なのです。ところが、隣り人を愛する者の生活している状態はこれとはまったく異なります。隣り人を愛することは神様の栄光と整合する生き方です。それゆえ、これを実践する人は「光の子」であり続けます。ヨハネの伝える御言葉は厳しいものですし、これからさらに厳しくなっていきます。しかし、私たちはそのメッセージを人々に受け入れやすいよう意図的に柔らかいものにしたり、あるいは、あたかもそれが存在しないかのような架空の説明を加えたりするべきではありません。聖書がこのように教えている以上、それが最終的な結論となるからです。どうして私たちキリスト信仰者が「最後の裁き」について警告を受けているのか、とりわけ、自分の力に依り頼んだ状態で神様の最後の裁きを受けるのがいかに危険なことか、今までの説明を通して腑に落ちるのではないでしょうか。罪を帳消しにするキリストの贖いの血によって罪を赦していただけたことが、私たちの唯一の安全な避難場所となっているのです。これら厳しい聖書の箇所は「神様に属する民」として正しい結論を常に下していくことの大切さを私たちに教えてくれます。

2章12〜14節 キリスト教会は「よき守り」の中にあります

 ヨハネはこれまでの自分の語り口が厳しいものであったことを自覚しています。彼の念頭にあったのは「毒麦」を撒き散らす異端の教師たちのことでした。しかし、今は慰めの言葉が語られる時です。

「子たちよ。あなたがたにこれを書きおくるのは、御名のゆえに、あなたがたの多くの罪がゆるされたからである。」
(「ヨハネによる福音書」2章12節、口語訳)

 確かな罪の赦しの恵みがあることを神様御自身が保証なさっているこの聖句は、手紙の読者に宛てられたものです。これは奨励ではなく、「神様の御子の血によって罪が赦された」という事実の確認です。この信仰に留まるかぎり私たちは悪に対して勝利できます。異端の教えは「魂の敵」である悪魔の策動の結果として生じてきたものです。正しい使徒的な教えが、そのような異端の教えに巻き込まれないように私たちを守ってくれます。神様の栄光の輝きは恐ろしいほど眩しいものです。それとは逆に、この世の夜は真っ暗闇です。罪深い存在である人間はキリストの教会のなかにおいてのみ安全に守られています。御言葉の使徒的な説教によって霊的に養われることで、キリスト信仰者は十全な守りをいただけるのです。

2章15〜17節 この世に愛着しないように!

 キリストへの信仰とは、日々の生活においてどのようなことが私たちにとって最も重要であるかを絶え間なく決断していくことです。父なる神様を愛するのか、それとも、この世を愛するのか、このどちらかを選択するしかありません。これと同じことについてイエス様は次のように言われています。

「あなたの宝のある所には、心もあるからである。」
(「マタイによる福音書」6章21節、口語訳)

 私は自分の罪深い欲望やこの世から提供されるものに呑み込まれてしまうのでしょうか。それとも、自分が神様の子どもであることを思い起こすことができるのでしょうか。これはキリスト教信仰の実践に関わることです。「ヨハネの第一の手紙」はこのような選択を迫られる局面において私たちを助けてくれます。そして、この世とその中にあるものは全ていつか必ず消え失せる儚いものであることを教えてくれます。もしもこの世とその中にあるものが私たちの持っている宝物の一切であるとしたら、消えゆく世と共に私たち自身も永遠に滅んでしまうことになります。それに対して、私たちの宝物が主イエス・キリストである場合には、私たちは神様の恵みによって永遠に生きることになります。

2章18〜25節 反キリストたちと終末の時

 「神様に属する民」はこの世では悪の手が届かない場所に生活しているわけではありません。「魂の敵」である悪魔は嘘偽りや間違った教えを多用して絶えず獲物を探し回っています。ヨハネは「反キリスト」について、はじめに単数形で、次に複数形で語っています。反キリストの出現は「終末の時」のしるしです。「ヨハネの第一の手紙」が書かれた当時には、おびただしい数の反キリストが策動していました。彼らは以前にはキリスト信仰者だったのですが、信仰を捨てたことからもわかるように、実際には真のキリスト信仰者ではなかったのです。彼らが反キリストであることは、彼らの教えの内容から識別することができました。彼らの教えの特徴は、イエス様が旧約聖書に登場するキリスト(すなわちメシア)であることを否定する点に集約されます。なお、この問題については後ほど検討することにします。イエス様についての証を聴こうとしない者には実のところ神様もいないことになります。それに対して、御子イエス様をいただいている者には父なる神様もおられるのです。本来の使徒的な教えは教会員たちのことを永遠の命を継ぐ者として守る働きをします。

「しかし、あなたがたは聖なる者に油を注がれているので、あなたがたすべてが、そのことを知っている。」
(「ヨハネの第一の手紙」2章20節、口語訳)

 「聖なる者に油を注がれている」というのは、教会員に対して聖なる洗礼から始められた聖霊様による働きのことを指しています。世の終わりに至るまで、この神様の賜物はキリスト信仰者を不信仰などの様々な罪に塗れた生き方に堕落してしまわないように守ってくれます。この2章18〜25節の箇所は、信仰生活における具体的な適用の仕方について興味深い内容を多く含んでいます。「私は神を信じています。でも、イエスは何のために必要なのでしょうね?」などと言う人々が大勢います。「キリスト抜きのキリスト教のほうが使徒的な信仰よりもよいのではないか」というわけです。これは「主イエスの十字架については語らずに、何かもっと興味をかきたてる他の話題を持ち出せば、教会のメッセージに耳を貸す人が増えるのではないか」という考え方です。しかしこのようなやり方では、御子キリストだけではなく、父なる神様をも失ってしまいます。父なる神様の御許にたどり着くためには、あるひとつの扉を通して行かなければならないのですが、この扉こそがキリストだからです。

「御子を否定する者は父を持たず、御子を告白する者は、また父をも持つのである。」
(「ヨハネの第一の手紙」2章23節、口語訳)

 ですから、キリスト教の「現代化」を図ろうとする人々の新奇なメッセージや、イエス様が全世界のすべての罪を帳消しにするために十字架で死なれたことを否定する者たち(たとえばモルモン教やエホバの証人など)の主張に、キリスト信仰者である私たちが耳を貸すことは絶対にありえません。

 「終末の時」はとりわけキリスト信仰者である人々の間で話題にのぼることが多いテーマです。この箇所では「この世の終わりが近いこと」のひとつのしるしとして「反キリストの出現」が挙げられています。「ヨハネの第一の手紙」が執筆された当時、数多くの反キリストが現れたにもかかわらず「終わりの時」が到来しなかったことを、現代の私たちは知っています。それでも、当時の異端の教師たちの策動にはすでに反キリストの影が付きまとっていることがわかります。人類の歴史において、この「影」は幾多の時代を暗黒の闇のなかに呑み込みました。人心を惑わす異端と迷妄、不信仰、激しい憎悪、キリスト教徒への迫害などは「反キリストの時代」を特徴付けるしるしです。「終末の時」を暗示する多くのしるしを、私たちが生きている現代にも見いだすことができます。実際にも、これらのしるしはこの世が終わる時までにはすべて実現することになります。私たちキリスト信仰者は様々な心配事に取り囲まれています。それでも、終末の時が大いなる艱難を経た後で完全な解放をもたらすことをしっかりわきまえて日々の信仰生活を送っていくのです。

2章26〜27節 どうすれば私は終わりまで信仰に留まることができるのでしょうか?

「あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。」
(「ヨハネの第一の手紙」2章27節、口語訳)

 前掲の箇所ですでに少し触れた内容がこの箇所で再び提示されます。「キリストからいただいた油」とは聖霊様のことです。この方は教会につながるキリスト信仰者を「神様に属する者」として守り、真なることをすべて彼らに教えてくださいます。それに対して、異端の教師たちは聖霊様の導きを受けてはいません。それゆえに、彼らは嘘偽りばかりを喧伝するのです。異端の教師たちの教えに接した場合にはっきりそれに反対し、使徒たち以来受け継がれてきた聖書的に正しい教えに留まり続けることは福音を聴く者の義務とも言えます。聖霊様は教会につながるキリスト信仰者たちを「忠実な者」とみなして守ってくださいます。信仰に留まることと信じ続ける力とは、私たち自身がどれだけ熱心に努力したかに応じて得られるものではありません。これは実に素晴らしいことです。もしそうでなければ、私たちは信仰者として生き続けることがしだいに辛くなり、ついには力尽きてしまうことでしょう。ただし、このことを踏まえた上で、聖霊様が神様の御言葉を「伝達手段」として用いられることを私たちは忘れるべきではありません。私たちは御言葉を熱心に聴き、読み、御言葉に基づいて悔い改めていくべきなのです。

 2章の最後の28〜29節は内容的には3章に関係するものなので、3章の説明と結びつけて取り上げることにします。