ヘブライの信徒への手紙2章 モーセよりも偉大なイエス様

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

おし流されてしまわないように!

「ヘブライの信徒への手紙」2章1〜4節

この箇所は「ヘブライの信徒への手紙」にある5つの警告のうちの最初のものです。他の4つの警告は3章7節〜4章13節、5章11節〜6章12節、10章19〜39節、12章14〜29節にあります。

「ヘブライの信徒への手紙」は奨励と警告と教えとを交互に述べて行きます。これとは対照的にパウロの手紙ははじめに教えがあり次に奨励が続くというように明確に区分することができます。例えば「ローマの信徒への手紙」では1〜8章が教えの部であり12〜15章は奨励の部になっています。

「ヘブライの信徒への手紙」の執筆者の考えていたことは明らかです。人は御使たちを通して人間に伝えられた律法に従わなければなりません。そうであるならば、それよりもはるかに大きな理由から、人はキリスト御自身によって宣べ伝えられた福音を聴いて受け入れなければならないということです。

旧約聖書も新約聖書もそろって、律法を取り次ぐ役目を果たしたのが御使たちであったと述べています。「申命記」33章2節の「よろずの聖者」、「詩篇」68篇18節の「神のいくさ車幾千万」、「ガラテアの信徒への手紙」3章19節の「天使たち」、「使徒言行録」7章53節のステパノの言葉に出てくる「御使たち」などがその例です。ユダヤ教においても御使たちの重要性が次第に増していき、ついには何かを取り次ぐために必要とされる御使の群れが大きければ大きいほどそれだけその事柄はいっそう重要なものであるとみなされるに至りました。

私たちはいともたやすく神様の御心を無視して誤った方向に突き進んでしまうものです。魂の敵(悪魔)は私たちにまちがった目的を与えたり、あるいは私たちが人生の航海の途中で目標を見失い迷走するように仕向けたりします。「ヤコブの手紙」1章6節は「ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。」と述べています。また「エフェソの信徒への手紙」はキリスト信仰者のあるべき姿について次のように述べています。

「こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。」
(「エフェソの信徒への手紙」4章14節、口語訳」

とはいえ嵐が激しければ激しいほど正しい進路にとどまることもよりいっそう難しくなります。それと同じことが信仰生活の歩みについても言えます。この世が私たちを神様の御心からそらせようとすればするほど、私たちは正しい進路にとどまるためにいっそうの努力をしなければならないのです。

キリスト教会が誕生してから数十年ほど後には神様の御心を無視してまちがった方向に進まないようキリスト信仰者たちに警告する必要が生じていました。このことは注目に値します。現代に生きる私たちが同じ警告を受ける必要性は最初の頃のキリスト信仰者たちよりもはるかに大きいのではないでしょうか。

「わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか。この救は、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ、さらに神も、しるしと不思議とさまざまな力あるわざとにより、また、御旨に従い聖霊を各自に賜うことによって、あかしをされたのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」2章3〜4節、口語訳)

上掲の箇所からはこの手紙の執筆者が使徒のひとりではなかったことがわかります。おそらく執筆者は使徒たちの説教を聴く機会があった第二世代のキリスト信仰者であったと思われます。

もうひとつ注目すべき点は「御旨に従い」という言葉です。自分に特定の賜物を与えるように聖霊様に対して指図することは私たち人間にはできません。聖霊様は御旨に従い、神様の御国の進展のために最善であることを私たちに分け与えてくださるのです。

私たちの長兄であるイエス様

「ヘブライの信徒への手紙」2章5〜18節

この箇所は旧約聖書の三つの引用に基づいて構成されています。

1)「ヘブライの信徒への手紙」2章6〜8節における引用箇所
「詩篇」8篇5〜7節(口語訳では4〜6節)

2)「ヘブライの信徒への手紙」2章12節における引用箇所
「詩篇」22篇23節

3)「ヘブライの信徒への手紙」2章17〜18節における引用箇所
「イザヤ書」8章17〜18節

「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」2章14〜15節、口語訳)

上掲の箇所からも、執筆者は神様がイエス様において人となられたということを強調しようとしていることがわかります。このようにしてのみ神様は私たち人間の罪を帳消しにすることができたからです。

「ヘブライの信徒への手紙」2章5〜18節はキリストが天地創造以前の永遠の世界にすでに存在しておられたことを教えています。これはキリスト教用語で「キリストの先在」(英語ではPre-existence of Christ)と言います。イエス様が人としてこの世にお生まれになったのはある特別な使命を果たすためでした。その使命とは人類の罪を自らの十字架の死によって帳消しにするということでした。復活されて天に帰られた後のイエス様には別の使命があります。それは「あなたの敵を、あなたの足台とするときまでは、わたしの右に座していなさい」(「ヘブライの信徒への手紙」1章13節)という父なる神様の御心の成就を天から司ることです。

「そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」2章17〜18節、口語訳)

人となられたイエス様は御自分の弟たちや妹たち(すべてのキリスト信仰者たち)を助けることができます(4章14〜16節も参照してください)。このメッセージが手紙の最初の受け取り手たちにとってどのような意味をもっていたかよく考えてみる必要があります。彼らはキリスト信仰のゆえに激しい迫害を受けたのです(12章4節)。

ゴルゴタの十字架においてイエス・キリストはサタンに対して決定的な勝利を収めましたが(2章14節)、この世は未だキリストの支配下に完全に置かれてはいません(2章18節、また「マタイによる福音書」4章8〜10節も参照してください)。宗教改革者マルティン・ルターはサタン(悪魔)のことを神様によって鎖に繋がれた犬のような存在であると言っています。これは適切な表現と思われます。サタンはこの世においてある種の制限された活動領域をもっています。私たちが罪に巻き込まれるのはサタンの支配する領域に入り込んでさまようからです(「ヘブライの信徒への手紙」2章1〜4節)。鎖がついている怒り狂う犬はその側に近寄りすぎないかぎりは危険ではありません。

「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」2章14〜15節、口語訳)

現代の神学で人気を博した宣伝文句のひとつに「解放」があります(例えば解放の神学)。この言葉は人々を圧迫する様々な力や権威からの社会的な解放として理解される場合が頻繁にみられました。それに対して「ヘブライの信徒への手紙」2章14〜15節はそれよりもはるかに重要な「解放」について教えています。それはキリストの贖いの御業のおかげで人間は罪と死と悪魔の支配から解放されるということです。この自由を人間は自分の力では獲得することができません。この自由を享受するために人間はイエス様を必要としています。この自由を得ないかぎり、あらゆるこの世的な自由は結果的に意味を失ってしまいます。最後に死が人間からこの世に属するすべてのものを奪い去るからです。

聖書解釈の基本原則について

「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、
人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
ただ少しく人を神よりも低く造って、
栄えと誉とをこうむらせ、
これにみ手のわざを治めさせ、
よろずの物をその足の下におかれました。」
(「詩篇」8篇5〜7節(口語訳では4〜6節))

「ヘブライの信徒への手紙」はこの「詩篇」の箇所を二通りのやりかたで解釈しています。

第一の解釈は文字通りに解釈することです。「詩篇」のこの箇所によれば、人はこの世では御使よりも低い存在ですが、来るべき世では御使よりも高い存在になります。ヘブライ語旧約聖書にあるダヴィデの「詩篇」のこの箇所は「ヘブライの信徒への手紙」2章8節と深いつながりがあります。

第二の解釈は七十人訳ギリシア語旧約聖書(セプトゥアギンタ)による解釈です。それによれば2章6節の「ただ少しく人を神よりも低く造って」の「少しく」(ヘブライ語で「メアト」)が「少しの間」(ギリシア語で「ブラキュ・ティ」)を意味しているという解釈です。この第二の解釈に従えば「ヘブライの信徒への手紙」の次の箇所は人となられたイエス様について述べていることになります。

「ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。」
(「ヘブライの信徒への手紙」2章9節、口語訳)

これと同じ考え方が「フィリピの信徒への手紙」2章5〜11節にも出てきます。

「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」
(「フィリピの信徒への手紙」2章5〜11節、口語訳)

ところで、旧約聖書の同じ一つの箇所を異なる二つの解釈で理解しようとするのはまちがっているのではないでしょうか。真理はたった一つであり、その聖句を理解する正しいやりかたもひとつしか存在しないのではないでしょうか。このように旧約聖書を解釈するよう現代の多くの神学者は要求しているように見えます。しかし新約聖書を書き記した人々は旧約聖書における神様の啓示が重層的な意味を持つ場合があることを見抜いていました。旧約聖書の予言はそれを予言した預言者の生存中に実現することもありましたが、イエス様のこの地上での生き方を通してようやく成就することもあったのです。例えば「創世記」に登場するヨセフの人生は他の大勢の人々と同列におけるようなたんなる波乱万丈の人生ではありませんでした。それは来るべきイエス・キリストの予型でもあったのです。

新約聖書のテキストも重層的な意味を持っている場合があります。例えば次に引用する「ガラテアの信徒への手紙」2章20節はすでに手紙の最初の読者たちにとってもその言わんとすることがただひとつの意味しかないとは受け取れないものであったと思われます。パウロが自分について書き記した次の言葉が他のキリスト信仰者たちにも同様に当てはまる内容のものだったのは明らかです。

「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」
(「ガラテアの信徒への手紙」2章20節、口語訳)

聖書の解釈があまりにも自由になりすぎて聖書に実際には書かれていないことまでも見つけた気になってしまう危険は常に聖書の釈義者につきまといます。しかし聖書の各々の箇所が時代や読者の変化に応じて異なる仕方で人々に語りかけてきたことも明らかです。例えば多様で重大な危機に瀕している現代は「ヨハネの黙示録」が多くのキリスト信仰者の心に強く訴えかける時代であるとも言えるでしょう。