ヘブライの信徒への手紙 1章 イエス・キリストは旧約聖書の預言の成就である

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢 (フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

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最終的な啓示

ヘブライの信徒への手紙 1章1〜4節

「ヘブライの信徒への手紙」が取り扱う最も重要な問題は「なぜ神様は人とならなければならなかったのか?」というものです。この問題に対する手紙の答えは二つあります。第一にそれは神様御自身を人々に啓示するためでした。第二にそれは全世界の全ての罪を帳消しにするためでした。

「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。」
(「ヘブライの信徒への手紙」1章1〜2節、口語訳)

神様のキリストにおける啓示は神様が人類にお与えになった最終的な啓示でした。これが「ヘブライの信徒への手紙」の冒頭のメッセージでした。旧約の時代には多くの預言者が現れました。ある預言者のメッセージを拒絶した人間が別の預言者の言うことには耳を傾けるということはあったでしょう。しかしキリストを拒絶した者が新しい啓示を受け取る可能性はまったくありません。キリストの代わりになる存在は決して現れないからです。

「ヘブライの信徒への手紙」1章1〜4節を理解する上で役に立つのがイエス様の次のたとえです。

「もう一つの譬を聞きなさい。ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」。彼らはイエスに言った、「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」。イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、
『家造りらの捨てた石が 隅のかしら石になった。 これは主がなされたことで、 わたしたちの目には不思議に見える』。
それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。祭司長たちやパリサイ人たちがこの譬を聞いたとき、自分たちのことをさして言っておられることを悟ったので、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。」 (「マタイによる福音書」21章33〜46節、口語訳)

「ヘブライの信徒への手紙」1章1節の「預言者たち」という言葉は旧約聖書のすべての書物の執筆者たちや旧約聖書に登場する神様の御心を忠実に伝えた説教者たちのことを指しています。この意味で例えばモーセやダヴィデも預言者のグループに分類されます。

神様の啓示は一般啓示と特殊啓示の二つに分けて考えるのがわかりやすく一般的なやりかたです。「一般啓示」とはキリスト信仰者以外も含めて一般の人々が知覚し理解できるような事柄のことです。例えば良心の問題、諸国民の歴史(特にイスラエルの民の歴史)、人生の出来事などです。それに対して「特殊啓示」は神様がイエス・キリストによって人類を罪や永遠の死から救われるという啓示です。この啓示を理解するためにはキリスト教信仰が必要不可欠になります。キリストにおける神様の啓示は聖書に記されており、それを信仰の目を通して「内側から」見た時にのみその真の意味が明らかになるのです。

手紙のこの箇所ではイエス様について次の8つの特徴が挙げられています。

1)イエス様は神様の啓示である
2)イエス様は神様の御子である(「ヘブライの信徒への手紙」はイエス様を「御子」と呼ぶ場合が最も多いです)
3)イエス様は万物の相続者である(「詩篇」2章7〜8節と比較しましょう。またパウロは「ローマの信徒への手紙」8章17節で私たちキリスト信仰者は「キリストと共同の相続人」であると言っています)
4)イエス様は世界の造り主である
5)イエス様は神様の栄光の輝きである
6)イエス様は神様の本質の真の姿である(「姿」はギリシア語で「カラクテール」英語で言えば「キャラクター」であり、この項目は「神様の真のお姿を見たい者はキリストを見なさい」という意味になります)
7)イエス様は力ある言葉をもって万物を保っておられる
8)イエス様は私たち人間のすべての罪を帳消しにするきよめのわざを成し遂げられた

「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」1章3節、口語訳)

今やキリストが全能なる神様の右側にお座りになっているということは、キリストの御業(全人類のすべての罪の罰を身代わりに引き受けて帳消しにした十字架の死)が終わりまで成し遂げられたことの証でもあります(「ヨハネによる福音書」19章30節)。それとは対照的に旧約聖書における神殿祭司は犠牲の捧げ物の務めを完遂することが不可能だったため、繰り返し祭壇に立ち続けるほかありませんでした。

なお「ヘブライの信徒への手紙」が立派なギリシア語で書かれていることは1章1〜4節が巧みに構成された一つの文となっていることからもわかります。

御使たちよりも偉大なイエス様

「ヘブライの信徒への手紙」1章5〜14節

イエス様の時代のユダヤ教では御使たち(天使たち)が大きな意味をもっていました。御使たちの役割は人々と神様の間の取り次ぎをすることでした。「ヘブライの信徒への手紙」の冒頭はイエス様と御使たちとの関係について述べています。この手紙の受け取り手たちの間にある考え方が広まっていたためにこのような書き方になったのだと思われます。それはイエス様が御使たちと同様に神様と人間たちとの間を取り持つ存在か、あるいはせいぜい御使たちの首領である大天使にすぎないという考え方でした。この誤解を取り除くために「ヘブライの信徒への手紙」はイエス様が御使たちのような被造物ではなく父なる神様から生まれた神様の御子であることを明確にしようとしています。西暦300年代に公会議で成文化され承認されたキリスト教会の基本信条であるニケア信条もこの教えを忠実に受け継いで「唯一の主、イエス・キリストを、私は信じます。主は神のひとり子であって、すべての世に先立って父から生まれ、神の神、光の光、真の神の真の神、造られたのではなく、生まれ、父と同質であって、すべてのものは主によって造られました。」と信仰告白しています。

「ヘブライの信徒への手紙」には旧約聖書からの直接的な引用が53箇所もあるということです。それに加えて間接的な旧約聖書の引用も数多くあります。今扱っている箇所である1章5〜14節には以下に挙げたような7つの引用があります。その大部分は「詩篇」からのものであり、パウロも使用していたギリシア語旧約聖書七十人訳(セプトゥアギンタ)に基づいていることがわかっています。

1章5節に引用されている箇所
「詩篇」2篇6節、「サムエル記下」7章14節

1章6節に引用されている箇所
「申命記」32章43節と「詩篇」97篇7節を結びつけたもの

1章7節に引用されている箇所
「詩篇」104篇4節

1章8〜9節に引用されている箇所
「詩篇」45篇7〜8節

1章10〜12節に引用されている箇所
「詩篇」102篇26〜28節

1章13節に引用されている箇所
「詩篇」110篇1節
(この「詩篇」の箇所はすでにイエス様の時代以前にも「来るべきメシア」を意味するものと解釈されており、初代のキリスト信仰者たちにとって最も愛着のある聖句のうちのひとつでした。この箇所を「マタイによる福音書」22章41〜46節とも比較してみてください。)

上掲の引用箇所の旧約聖書における元の文脈を調べてみると、これらがソロモン王などイスラエルの王たちについて述べている箇所であることがわかります。「ヘブライの信徒への手紙」がこれらの引用箇所をイエス様に当てはめていることから、執筆者の旧約聖書解釈の特徴が見えてきます。それは、神様はそれらの箇所でメシアについて告げておられるという解釈です。宗教改革者マルティン・ルターもこの解釈を支持し、彼にならってルーテル教会も今日に至るまでこの解釈を支持してきました。ところが現代では学問としての聖書研究の名の下に、旧約聖書の箇所はキリストを念頭に置いて読んだりキリストを意味しているものと解釈したりはせず、元々の文脈でその箇所がもっていた意味を理解するにとどめるべきである、という要求がしばしば提唱されています。しかし聖書は神様が歴史全体の主であると教えています。このように信じる場合には、神様は様々な模範や予型となるような出来事を通してこの世界をメシアの到来に備えさせたのだ、と考えることができますし、旧約聖書の出来事をキリストに基づいて読むやり方が正当な解釈であることもわかります。

「御子については、 「神よ、あなたの御座は、世々限りなく続き、 あなたの支配のつえは、公平のつえである。」」
(「ヘブライの信徒への手紙」1章8節、口語訳)

この節は「ヘブライの信徒への手紙」でイエス様を「神」と呼んでいる唯一の箇所です(ただし1章6節も翻訳の仕方によってはそのような箇所として理解できます)。この手紙の他の箇所ではイエス様について何か別の名称が用いられていますが、イエス様は父なる神様よりいささかも低い存在ではないということが、手紙全体のメッセージの起点になっていると言えます。

ところで、イエス様が造られた存在(被造物)ではなく神様から生まれた方だったことが最初期の教会にとって絶対に妥協することができないほど重要な信条だったのはいったいどうしてなのでしょうか。すべての被造物はいつかは消え去る儚い存在ですが、イエス様は永遠なる神様だからです。御使たちは1章14節の言うように「すべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたもの」ですが、救ってくれる存在(救い主)ではありません。ここに神様の御子なるイエス様と被造物である御使たちとの本質的なちがいがあります。

「神は、御使たちのだれに対して、
「あなたの敵を、あなたの足台とするときまでは、
わたしの右に座していなさい」
と言われたことがあるか。」
(「ヘブライの信徒への手紙」1章13節、口語訳)

上の節には「詩篇」110篇1節が引用されています。キリスト信仰者たちはイエス様の再臨を最初の頃からひたすら待ち続けてきました。しかしその一方で、イエス様の再臨がなかなか実現しないことには何らかの理由があるとも考えられてきました。まさにその理由について「詩篇」110篇1節は述べています。それは、キリストの再臨の起こる前にまずキリストの敵どもが粉砕されなければならないということです。