ヘブライの信徒への手紙9章 新しい契約のいけにえ

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

古い契約のいけにえ

「ヘブライの信徒への手紙」9章1〜10節

「ヘブライの信徒への手紙」はイスラエルの民が荒野を彷徨していた時の主の幕屋とそこでの礼拝について述べています。紀元前586年にエルサレム神殿が破壊された後、神殿の至聖所は空になっていました。9章4節によれば元々そこにはアロンの杖とマナの入っている金の壺と契約の石板と契約の箱が置いてありました(「出エジプト記」16章31〜33節、25章16節、「民数記」17章10節)。それらは戦利品としてバビロンに奪い去られたと思われますが、エルサレムが陥落する前にどこかに隠されたとするユダヤ人の伝承もあります。

マルティン・ルターは契約の箱の蓋をドイツ語でGnadenstuhlすなわち「恵みの座」と呼んでいます(口語訳は「贖罪所」です)。このルターの訳は箱の蓋のもつ二つの機能を明示している点で適切であると言えます。第一にそれは神様の玉座、神様の顕現なさる場所であり、第二にそれは罪から贖われる場所、恵みが下賜される場所でもあるのです。

ユダヤ人たちの贖罪の日はユダヤ人の暦で第七の月の第十の日に祝われました(「レビ記」16章29、34節)。現在この祭りはヨム・キプルという名で知られています)。この日に大祭司は年にたった一度だけ至聖所の中に入って民と自分自身を罪から贖うために罪祭のやぎの血を契約の箱の蓋の上に降り注がなければなりませんでした(「レビ記」16章14〜15節)。この血が罪からの贖いをもたらしたからです(「レビ記」17章11節)。

贖罪の日には罪祭のやぎのうち一頭がほふられ、もう一頭はまずその上にイスラエルの民のすべての罪を置いた後で荒野に放たれました(「レビ記」16章20〜22節)。イエス様は私たちの罪をゴルゴタの十字架へと担って行かれ、すべての罪を御自分の血によって帳消しにしてくださったのです。

「それによって聖霊は、前方の幕屋が存在している限り、聖所にはいる道はまだ開かれていないことを、明らかに示している。この幕屋というのは今の時代に対する比喩である。すなわち、供え物やいけにえはささげられるが、儀式にたずさわる者の良心を全うすることはできない。それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いごとに関する行事であって、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎない。」
(「ヘブライの信徒への手紙」9章8〜10節、口語訳)

古い契約のいけにえを捧げる儀式における最大の問題点はそれがたんなる祭儀上の清めにすぎなかったことです(9章10節)。このいけにえによって得られた清めは人々が古い契約に基づく礼拝に参加できるようにはしましたが、儀式にたずさわる者の良心を清めることはできなかったのです(9章9節)。至聖所への道、神様の御前への道は依然として閉ざされたままでした(9章8節)。ようやくイエス様が至聖所への道を開いてくださったのです(「マタイによる福音書」27章51節)。

新しい契約のいけにえ

「ヘブライの信徒への手紙」9章11〜28節

「しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」9章11〜12節、口語訳)

キリストの捧げられたいけにえは次の二つの点で古い契約のいけにえとは異なるものでした(9章12節)。

1)それは一度きりで完了するいけにえだった

2)イエス様は犠牲動物の血ではなく御自分の血と命をいけにえとして捧げられた

古い契約の大祭司たちは贖いの日に二頭の動物のいけにえを捧げなければなりませんでした。そのうちの一頭は彼ら自身を己の罪から贖うためのいけにえでした(「レビ記」16章6節)。罪なきイエス様は御自分の罪のためにいけにえを捧げる必要がなかったため、一度きりの一つのいけにえで十分だったのです(「ヘブライの信徒への手紙」7章27節)。

「かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」9章12節、口語訳)

キリストのいけにえが一度きりのものであったということは、それによって救いが最終的に成し遂げられたため、もはやそれを人間が自らの行いによって補完することは許されないし可能でもないという意味でもあります(12節)。

「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。」
(「ヘブライの信徒への手紙」9章14節、口語訳)

キリストのいけにえは私たちをたんに宗教的に清めるだけではなく良心をも清めてくれるものです。それは罪の赦しを与えてくれる捧げ物だからです。人はもはや救いを得るためにはよい行いをする必要がなくなりました。よい行いとはそれを通して私たちが神様におつかえすることなのです。

「いったい、遺言には、遺言者の死の証明が必要である。遺言は死によってのみその効力を生じ、遺言者が生きている間は、効力がない。」
(「ヘブライの信徒への手紙」9章16〜17節、口語訳)

上の箇所にはギリシア語の「ディアテーケー」がもつ「契約」と「遺言」という二つの意味が並行してあらわれています。遺言はある意味では契約でもあります。遺言にも二人の当事者がいますが、それを完全に決定する権利を有しているのは遺言作成者の側です。遺言の受領者は本当に受け取るだけであって遺言の内容にまで立ち入ってあれこれ指図することはできません。

遺言の作成者の死亡を確証できないかぎりその遺言の遂行はできないことを「ヘブライの信徒への手紙」は指摘しています(16〜17節)。

「だから、初めの契約も、血を流すことなしに成立したのではない。すなわち、モーセが、律法に従ってすべての戒めを民全体に宣言したとき、水と赤色の羊毛とヒソプとの外に、子牛とやぎとの血を取って、契約書と民全体とにふりかけ、そして、「これは、神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言った。彼はまた、幕屋と儀式用の器具いっさいにも、同様に血をふりかけた。こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。」
(「ヘブライの信徒への手紙」9章18〜22節。口語訳)

上掲の節にあるように古い契約の時代にはいけにえの動物が死ぬことだけで十分でした。「出エジプト記」24章4〜8節にもこれに関連する記述があります。

それとは異なり新しい契約が効力を発揮するようになるためにはイエス様の死が要求されました。この箇所はイエス様が神様であることを奥義として述べている箇所のひとつです。

「こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。」
(「ヘブライの信徒への手紙」9章22節、口語訳)

上掲の節はほとんどすべてのものが血によって清められると述べています。旧約聖書は水の他にも次のような様々な「清浄剤」を知っていました。

1)灰(13節、「民数記」19章17〜19節)
2)火(「民数記」31章21〜24節)
3)水(「民数記」31章21〜24節)

血だけが贖いをもたらすことは重要な点です。他の様々な清浄剤は外面的な汚れから清めるものにすぎません(「レビ記」8章15節、「民数記」17章11節)。

「それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。」
(「ヘブライの信徒への手紙」9章15節、口語訳)

旧約聖書の捧げ物は真の捧げ物なるキリストの死を予告するものでもあり、キリストがこの世に来られる以前の世界において罪からの清めを行うための一時的な処方でもあったと言えるでしょう。

私たちの大祭司イエス様には次の三つの任務がありました。

1)罪の赦しを与える最終的ないけにえとして御自身を捧げられた(25節)
2)私たちのために今も祈っておられる(24節)
3)この世を裁くためにいつか必ず戻って来られる(27〜28節)

「もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」9章26節、口語訳)

この節が「イザヤ書」の次の箇所を念頭に置いているものであるのは明らかです。

「それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に
物を分かち取らせる。
彼は強い者と共に獲物を分かち取る。
これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、
とがある者と共に数えられたからである。
しかも彼は多くの人の罪を負い、
とがある者のためにとりなしをした。」
(「イザヤ書」53章12節、口語訳)

「キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」9章28節、口語訳)

上掲の節で「多くの人の罪」とありますが、ヘブライ人の考えかたによれば「多く」はしばしば「すべて」をあらわす言葉です。その例として「ルカによる福音書」15章17節、「ローマの信徒への手紙」8章29節などを挙げることができます。

また「罪を負うためではなしに」というのは、キリストがこの世に戻って来られる再臨の時にはもはや罪から贖うためにではなく最後の裁きを行うために来られるからです。その時にキリストを信じている人々は救いにあずかり、キリストを捨てた人々は永遠の滅びへと落ちていくことになります。