ヘブライの信徒への手紙5章 祭司としてのキリスト

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

偉大なる大祭司

「ヘブライの信徒への手紙」5章1〜10節

「大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である。彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができると共に、その弱さのゆえに、民のためだけではなく自分自身のためにも、罪についてささげものをしなければならないのである。かつ、だれもこの栄誉ある務を自分で得るのではなく、アロンの場合のように、神の召しによって受けるのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」5章1〜4節、口語訳)

上掲の箇所には旧約聖書の大祭司にふさわしい人物像について説明されています。それに続く5章5〜10節にはイエス様が大祭司のもつべき特性をすべて満たしておられたことが述べられています。

旧約聖書によれば大祭司となる人物は
1)人間の中から選ばれた者であり(1節)
2)罪のために供え物といけにえとをささげる者であり(1節)
3)無知な迷っている人々を、思いやることができる者であり(2節)
4)民のためだけではなく自分自身のためにも罪についてささげものをする者であり(3節)
5)この栄誉ある務を自分で得るのではなく、アロンの場合のように、神の召しによって受ける者です(4節)

3)については「レビ記」9章7節と16章6節も参照してください。
5)については、神様がアロンを召され、それを通してすべての祭司を召されたことを思い起こしましょう。

それから大祭司に要求される諸項目がイエス様において実現したことが先ほどと逆の順序で述べられます。

1)神様はイエス様を大祭司として召された(5〜6節)
2)イエス様は御自分のためにも祈りと願いとをささげられた(7節)
3)イエス様は罪人たちのことを理解するために人となられた(8節)
4)イエス様は永遠の救いの源となられた(9節)
5)イエス様はレビ族の祭司ではなく謎めいた人物メルキゼデクに等しい大祭司となられた(10節)

2)について補足すると、ユダヤ教では「祈り」も「ささげもの」とみなされていました。とはいえユダヤ教の大祭司とは異なりイエス様は御自分のためには罪についてのささげものをする必要はありませんでした(4章15節)。イエス様は御自分そのものをささげものとなさったのです。イエス様は十字架で死ななければなりませんでした。しかしイエス様の祈りは父なる神様に聴き届けられました。そして神様はイエス様を復活させて死から解放なさいました。

5)について補足すると、メルキゼデクは「創世記」14章に登場します。

「同様に、キリストもまた、大祭司の栄誉を自分で得たのではなく、
「あなたこそは、わたしの子。
きょう、わたしはあなたを生んだ」
と言われたかたから、お受けになったのである。
また、ほかの箇所でこう言われている、
「あなたこそは、永遠に、
メルキゼデクに等しい祭司である」。」
(「ヘブライの信徒への手紙」5章5〜6節、口語訳)

上掲の箇所も旧約聖書からの引用です。5節は「詩篇」2篇7節から、6節は「詩篇」110篇4節からの引用です。

「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」5章7節、口語訳)

イエス様が偉大な大祭司であることを教えている「ヘブライの信徒への手紙」5章1〜10節は最初の読者たちに慰めを与えました。上掲の節はイエス様のゲッセマネでの祈りの戦いについて語っています。イエス様は真の孤独がどのようなものかを身をもって経験なさったのです。ですからイエス様への信仰のゆえに排斥される人々のこともイエス様はよく理解してくださるのです。

神様を学び知る中で成長していきなさい!

「ヘブライの信徒への手紙」5章11〜14節

「このことについては、言いたいことがたくさんあるが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、それを説き明かすことはむずかしい。あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要としている。すべて乳を飲んでいる者は、幼な子なのだから、義の言葉を味わうことができない。しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」5章11〜14節、口語訳)

「ヘブライの信徒への手紙」の執筆者も福音書記者ヨハネもキリスト信仰者としての成長を三つの時期に分けています(「ヨハネの第一の手紙」2章12〜14節。「コリントの信徒への第一の手紙」3章1節も参考になります)。

1)幼少期(13節)
2)青年期、成人期(14節)
3)老年期、他の人々を教える時期(12節)

キリスト信仰者の信仰は成長していくか衰えていくかのどちらかであり、現状のまま留まることはありえません。この箇所は「ヘブライの信徒への手紙」で最初の叱責の部分になっています。どうやら手紙の受け取り手たちの信仰生活は当初期待されていたようには順調に成長しなかったようです。手紙の執筆者は、先ほど述べた「メルキゼデクに等しい大祭司」という表現が読者にとっては難しすぎると考え、あえて手厳しい言い方をすることで読者にその意味を深く考えるよう促そうとしたのではないでしょうか。

「ヘブライの信徒への手紙」の執筆者はまず6章でキリスト教信仰の教えの初歩について述べ、それから7〜10章で「堅い食物」である「メルキゼデクに等しい大祭司」という表現の意味の考察に立ち戻ります。何かを学ぼうとする時にそうするように信仰生活の学びにおいても最初に基礎を十分学んでから他の関連事項を少しずつ学んでいくというやり方をとるべきなのです。それに対して「人はいかにして神様に義とされるのか」というキリスト教信仰の基本事項でさえまだ十分にわかっていないにもかかわらず「キリスト信仰者はいかにして聖なる生活を送れるようになるのか」といういわゆる「聖化」の問題にばかり関心を寄せるようになる人がしばしばみられますが、これは順序的に間違ったキリスト教信仰の学び方です。例えば「ローマの信徒への手紙」が人の罪深さの考察から神様の義の教えへと移り、そのあとでようやく信仰者の聖化の問題を扱うという構成になっていることにも注目しましょう。

イギリスには"No pain, no gain."というスポーツの諺があります。「苦しまなければ勝利はない」という意味です。キリスト信仰者の成長についても同じことが言えます。この成長は自然に起きることではなく、私たち自身が成長するために労苦しなければなりません。ルター派の教会の教理問答の「聖霊に関する信条」の説明にあるように、キリスト信仰者としての成長は私たちのうちでなされる聖霊様の働きによるものです。宗教改革者マルティン・ルターは次のように言っています。「あたかも自分の祈りが何の助けにもならないかのようにあなたは働きなさい。そして、あたかも自分の働きが何の助けにもならないかのようにあなたは祈りなさい!」