使徒パウロは「恵みの賜物」について何を教えていますか?
日本語訳は口語訳に従っています。
聖書の箇所について「5章6節」のように章節のみが記されているものは、それがその直前に掲げられている聖書の同じ文書からの引用であることを示しています。
また、聖書の箇所について「および」で結ばれている章節はその前後の箇所が聖書の同じ文書(福音書や手紙など)の該当箇所であることを意味しています。
なお、日本語版では翻訳者の判断によりフィンランド語原文に多少の内容的な編集を施して翻訳しています。
どうして「パウロ」なのか?
本来ならば「パウロは」ではなく「聖書は」恵みの賜物について何を教えているのかをこの小文は問うべきではないでしょうか?
「(恵みの)賜物」という表現は聖書にわずか11回しか登場せず、そのうち10回はパウロの手紙に出てきます。その意味で、上記の表題は適切であると言えます。
これら10回のうちで2回の箇所では、恵みの賜物全般が「神様からの賜物」として述べられています。「ローマの信徒への手紙」6章23節(ギリシア語で「カリスマ・トゥー・テウー」(「神様の(恵みの)賜物」という意味))では恵みの賜物は救いであるとされています。また「エフェソの信徒への手紙」3章7節(ギリシア語で「ドーレア・トゥー・カリトス・トゥー・テウー」(「神様の恵みの賜物」))も参照してください。
「テモテへの第一の手紙」4章14節(ギリシア語で「カリスマ」)と「テモテへの第二の手紙」1章6節(ギリシア語で「カリスマ・トゥー・テウー」)は、パウロがテモテの上に手を置いて祝福し、神様の御国の働きのために献身(聖別)されたテモテが受けた「恵みの賜物」について述べています。
「恵みの賜物」の具体的なリストは「ローマの信徒への手紙」12章と「コリントの信徒への第一の手紙」12章にあります。とりわけ「コリントの信徒への第一の手紙」12章の終わりが同13章の有名な「愛の章」に言及していることに注目しましょう。「恵みの賜物」は愛を通して用いられるべきものなのです。
しかし、聖書は「恵みの賜物」という表現を使わずに内容的に「恵みの賜物」について語っている場合もあることも忘れてはなりません。例えば、パウロはエルサレムへの最後の旅路にあったとき、「ただ、聖霊が至るところの町々で、わたしにはっきり告げているのは、投獄と患難とが、わたしを待ちうけているということだ。しかし、わたしは自分の行程を走り終え、主イエスから賜わった、神のめぐみの福音をあかしする任務を果し得さえしたら、このいのちは自分にとって、少しも惜しいとは思わない。」(「使徒言行録」20章23〜24節)と書いています。「神のめぐみの福音」はギリシア語で「ト・エウアンゲリオン・カリトス・トゥー・テウー」といい、「(神様の)恵み」を意味する「カリス」(の属格形)が用いられています。
三つの重要な原則
パウロは二度すなわち「コリントの信徒への第一の手紙」7章7節(ギリシア語で「カリスマ・エク・テウー」(「神様からの(恵みの)賜物」という意味))と「エフェソの信徒への手紙」4章7節(ギリシア語で「ヘー・カリス・カタ・ト・メトロン・テース・ドーレアース・トゥー・テウー」(「神様の賜物に相応した恵み」という意味))で、すべてのキリスト信仰者は何らかの恵みの賜物を持っていることを述べています。同様に、ペテロは「ペテロの第一の手紙」4章10節で「あなたがたは、それぞれ賜物(ギリシア語で「カリスマ」)をいただいているのだから、神のさまざまな恵み(ギリシア語で「カリス」)の良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである。」(口語訳)と書いています。これは11番目の箇所であり、パウロの手紙以外で「賜物」という言葉が用いられている唯一の箇所です。以上からわかるように、賜物を持たないキリスト信仰者は一人もいないのです。
恵みの賜物は、それによって教会に仕えるために存在するのであって、教会を分裂させたり、特定のキリスト信仰者を他のキリスト信仰者たちよりも優位に立たせたりするためのものではありません。
恵みの賜物には様々な種類があります。このことを説明するためにパウロは、それぞれが必要不可欠なものであり他のものでは代用できない様々な部位を持つ「人間の体」という比喩を用いています(「コリントの信徒への第一の手紙」1章7節も参照してください)。これについては後述することにします。
パウロは「コリントの信徒への第一の手紙」14章1〜25節で「預言(すること)」(ギリシア語で「プロフェ-テウオーン」)を最も偉大な恵みの賜物と考えており、とりわけ「異言(で話すこと)」(ギリシア語で「ラローン・グローッサイス」)よりも「上位」に置いています。おそらく当時のコリント教会には「キリスト信仰者は皆、異言を話すべきだ」と主張する人々がいたのでしょう。この章でパウロは「霊の賜物」(12節、ギリシア語で「プネウマトーン」)という言葉を用いていますが、これは明らかに「恵みの賜物」と同じ意味の表現です。
同じ体の一員として 「ローマの信徒への手紙」12章3〜8節
「わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。」
(「ローマの信徒への手紙」12章3〜8節、口語訳)
「自分に与えられた恵みによって」(3節)という表現は、パウロが自分自身の考えではなく神様の御心について述べていることを示しています。「ローマの信徒への手紙」を書いた当時のパウロはおそらく大多数のローマのキリスト信仰者には無名の存在だったことでしょう。
恵みの賜物について教え始めるにあたり、パウロは教会、すなわち教会員一人ひとりを「キリストの体」として捉えています(なお、「コリントの信徒への第一の手紙」12〜14章でパウロは恵みの賜物についてより詳しく論じています)。人間の体に様々な部位(「肢体」(ギリシア語で「メレー」(「メロス」の複数形))があるように、教会員、すなわちキリスト信仰者もそれぞれ互いに異なっている存在です。そうであっても「体は一つ」なのであり、その部位同士が争い合うことはできません。それと同様に、キリスト信仰者は自らの行動を通して共通の善(利益)を追求すべきなのです。
個々のキリスト信仰者は自分の個人的な目標や欲望よりも教会員全体そして神様の御国の善を優先すべきです。教会(教会員)を(信仰的に)築き上げるどころか、むしろ破壊してしまうような自己顕示欲は正しいものではありません。
ここでのパウロは特に、与えられた恵みの賜物に自覚的な人々に向けて語っています。彼らは自分を他の人々よりも高く評価することで、教会全体を築き上げるどころか、むしろ破壊していました。彼らにとっては「恵みの賜物」がいわば「恵みの重荷」に変わってしまったのです!
注目すべきは、パウロがこの賜物のリストで「異言」を全く挙げていない点です。聖書に基づくかぎり、どのような場合であれ、異言を最も重要な賜物とみなすことはできないのです。
「預言」(6節、ギリシア語で「プロフェーテイア」)は未来にかかわる予言を告げるというよりも、むしろ神様の御霊に導かれた託宣(すなわち御言葉)を下すことであり、それによってその時点での具体的な問題の解決を志向するものです。このような預言について、まずは旧約聖書の文脈で理解し、次にそれに基づいて個々の状況に適用していくというやりかたがとられたのはまちがいないでしょう。旧約聖書の預言者たちにとって、預言はすでに実現した事柄でしたし、未来について予言することは彼らに与えられた使命のうちの一部分に過ぎなかったのです。その意味では「預言」という言葉は「神様の御心の啓示」という言葉に置き換えることもできるでしょう。
6節の最後(「もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、」)は、教会(教会員)の信仰について語っているとも解釈できます。預言は、それが真か否かを吟味されなければならないものなのです。例えば「コリントの信徒への第一の手紙」12章10節には「またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。」と書かれており、「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章21節には「すべてのものを識別して、良いものを守り、」と書かれています。
どの賜物も過大評価されるべきではなく、その賜物を持つ者を他の誰よりも高く評価するようなことがあってはなりません。むしろ、一人ひとりが自分に与えられた恵みの賜物をもって神様の教会に仕えるべきなのです。「私はどのような賜物によって最も適切に仕えることができるか」ということについて、聖霊様が私たち自身よりもよくご存知であると信頼してよいのです(「コリントの信徒への第一の手紙」12章14〜25節を参照してください)。
ここで「見慣れない」恵みの賜物にも注目してみてください。それらは奉仕(7節、ギリシア語で「ディアコニア」)、教え(7節、ギリシア語動詞で「ディダスコー」)、励まし(8節、ギリシア語動詞で「パラカレオー」)、施し(8節、ギリシア語動詞で「メタディドーミ」)、指導(8節、ギリシア語動詞で「プロイステーミ」)、貧しい人々を助けること(「慈善」8節、ギリシア語動詞で「エレエオー」)などです。私たちは通常、これらを恵みの賜物とは考えず、日常生活で至極当前なこととして捉えがちです。しかし、これらもまた恵みの賜物となり得るのです。神様はこれらを通しても人々に恵みを分かち与えることができるからです。「ローマの信徒への手紙」の書かれた当時のローマではこれらの事柄に携わることは教会のディアコニアの務めと密接に関係していました。このことは次の「使徒言行録」の記述からもたしかに伝わってきます。
「そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。そこで、十二使徒は弟子全体を呼び集めて言った、「わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう」。この提案は会衆一同の賛成するところとなった。そして信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、それからピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、およびアンテオケの改宗者ニコラオを選び出して、使徒たちの前に立たせた。すると、使徒たちは祈って手を彼らの上においた。こうして神の言は、ますますひろまり、エルサレムにおける弟子の数が、非常にふえていき、祭司たちも多数、信仰を受けいれるようになった。」
(「使徒言行録」6章1〜7節、口語訳)
自分の役割を見つけなさい!
キリスト信仰者も神様の御計画における自分の役割を過大あるいは過小に評価する危険に常にさらされています。
目立つ立場にいる人や神様から特別な祝福を受けている人はとりわけ「傲慢」という罪に陥りやすいものです。彼らは自分の役割や恵みの賜物を他の人よりも優れているものと考えるようになるかもしれないからです。これは「自分の賜物はそれ相応の価値があるものだが、他のどのような恵みの賜物も私の賜物の比ではない」と考えるような傲慢さです。
しかし、私たちフィンランドのキリスト信仰者は、これとは正反対の危険、すなわち自分の役割を過小評価して軽んじるという危険のほうに強くさらされているように見えます。これは国民性の問題でもあります。フィンランド人は自己肯定感が低く、その結果として、自分自身や自分の行いの価値を軽んじる傾向がある、としばしば言われます。それが露骨な軽蔑になってしまう場合さえあります。これは例えば「私のやっていることは特に何の意味もない。説教者たちや福音伝道者たちは何かしら価値のあることを行なっているが、平信徒には何の価値もない」というような考えかたです。
しかし、もしも台所や厨房で働く人々がいなければ、どれほど多くの信仰集会が開催されないままになったことでしょうか。食事作りを担当する人々はしばしば忘れられがちな大切な裏方です。そのせいもあって、彼らには自分の仕事を誇りに思う気持ちが薄いのかもしれません。ある宣教団体の責任者は「宣教師や説教者を見つけるのはわりと簡単なのに、秘書やその他の実務的な働き手を見つけるのは難しい」とつぶやいたことがあります。しかし、手紙を送ったり会計を管理したりする裏方の人々がいなければ、宣教活動は一日たりとも成り立たないのです。
「自負心が低い」キリスト信仰者たちはとりわけ「嫉妬」という罪に陥りやすい危険があります。これは「もし私があの人のようだったら・・・」というように考える嫉妬心です。しかし、神様は「私たちにどのような役割を与えたか」について私たち自身よりもよくわかっておられます。このことを私たちは常に覚えておくべきです。あなたの役割はかけがえのないものです。他の誰もその役割を担うことはできません。あなたがやらなければ、他の誰もやってくれません!そういう意味では、あなたもまた神様の御計画においてかけがえのない存在なのです。
ある礼拝での出来事です。伴奏者が「私が演奏する次の曲は・・・」と言ったきり、オルガンからは一音も聞こえてこなかったことがありました。ほどなくして彼は「私たちが演奏する次の曲は・・・」と言い直してから、おもむろにふいごに空気を送り込み始めたのです。
賜物には様々な種類がある 「コリントの信徒への第一の手紙」12章4〜11節
「霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。務は種々あるが、主は同じである。働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」12章4〜11節、口語訳)
聖霊様は機械的に働きかけるのではなく、換言すれば、すべてのキリスト信仰者に同じ賜物を与えるのではなく、キリスト信仰者一人ひとりに異なる賜物を与えてくださるということをパウロは強調しています(11節)。パウロのこの発言の背景には「すべてのキリスト信仰者は特定の賜物(たぶん異言の賜物のことでしょう)を持つべきだ」と要求する人々がコリントの教会にいたからでしょう。
神様は御計画をお持ちです。恵みの賜物も御計画の成就をその目的としています。これらの賜物は「私の賜物」なのではなく、教会を築き上げていくための「神様の賜物」なのです(7節)。これらは「私の成功」のためではなく、「教会の成功」のためにあるのです。
恵みの賜物の「所有者たち」がすべての中心になるところでは、恵みの賜物は容易に教会の重荷に変わってしまいます。そのような場合、恵みの賜物は教会を分裂させてしまうので、もはや教会を築き上げる力ではなくなるのです。それと同じことは「恵みの賜物自体」がすべての中心となり、それらを与えてくださるお方、すなわち神様が中心にならない場合にも起きます。
上掲の4〜7節において、パウロが「三位一体」の三つの位格、すなわち御父、御子、御霊のすべてを恵みの賜物と結びつけている点は注目に値します。新約聖書には三位一体の教義が神学用語としては直接的に記されていませんが、神様の三位一体性はたしかに明示されています。例えば、次に引用する「マタイによる福音書」の終わりの箇所である「イエス様による洗礼と世界宣教の御命令」を参照してください。
「イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。」
(「マタイによる福音書」28章18〜20節、口語訳)
またパウロは「コリントの信徒への第一の手紙」12章4〜6節において、恵みの賜物と並んで、教会の役職、奉仕の働き(5節)、そして神様の力の働きかけ(6節)に言及している点も注目に値します。このことからもわかるように、恵みの賜物は神様が教会を築き上げる唯一の手段ではないのです。
神様の力の働きかけは、おそらく神様の力が特別な形で現れる状況を指すものとして理解するべきなのでしょう。
賜物はいくつある?
パウロは上掲の「コリントの信徒への第一の手紙」12章7~11節では9つの賜物を挙げています。しかし、パウロの他のリストが記されている「ローマの信徒への手紙」12章6~8節(預言、奉仕、教え、勧め、寄付、指導、慈善)と「エフェソの信徒への手紙」4章7~11節(使徒、預言者、伝道者、牧師、教師)や、ペテロのリストが記されている「ペテロの第一の手紙」4章7~11節(神の御言を語る者、神から賜わる力による者にふさわしく奉仕する者)にはそれぞれ内容的に異なる賜物が挙げられています。新約聖書全体でみると約20種類の賜物が出てきます。要するに、これらのリストはどれも完全なものではなく、あくまで例示に過ぎないと理解するべきなのでしょう。
以下では「コリントの信徒への第一の手紙」12章のリストにある6つの賜物について考察していくことにします。同じリストにある他の3つの賜物、すなわち預言、異言、異言の解釈についてパウロは14章でより詳しく論じています。
「知恵の言葉」(8節、ギリシア語で「ロゴス・ソフィアース」)について。 聖書の中でこの恵みの賜物に関連する出来事としては、ソロモンの裁き(「列王記上」3章16〜28節(ふたりの遊女に対するソロモンの裁き))や、イエス様の公生涯における多くの出来事、特に反対者との論争(例えば「マタイによる福音書」22章15〜40節での税金、復活、戒めをめぐる問答)などが挙げられます。
「知識の言」(8節、ギリシア語で「ロゴス・グノーセオース」)について。 この賜物は、上に挙げた「知恵の言葉」の賜物や教える賜物(「コリントの信徒への第一の手紙」12章28〜29節の「教師」)とよく似ています。この賜物を持つ者は時として神様から直接的に超自然的な「知識」(ギリシア語で「グノーシス」)を受けることもあります。それは人間が自力では決して得られないような知識です。例えば、ペテロがアナニヤとサッピラの件で経験したことは、まさにこのようなことだったと思われます(「使徒言行録」5章1〜11節)。
「信仰」について(9節、ギリシア語で「ピスティス」)。 この賜物は、すべてのキリスト信仰者が確実に有している「救いの信仰」を意味するものではありません。おそらくこれは山を動かすほどの信仰(「マルコによる福音書」11章23節、「コリントの信徒への第一の手紙」13章2節(「山を移すほどの強い信仰」))や、奇跡を起こすような信仰を指しているのでしょう。
「いやしの賜物」(9節、ギリシア語で「カリスマタ・イアマトーン」(ギリシア語では「癒し」も「賜物」も複数形になっています))について。 この恵みの賜物についての説明は不要でしょう。ただし、次の二つのことは覚えておくべきです。第一に、キリスト教会の歴史を通じてすべての人が癒された時代は一度もなかったことを忘れてはなりません。もしもそのようなことが起こるのなら、最終的には人間が不死の存在になってしまうからです。第二に、「現代医学がこの恵みの賜物に完全に取って代わった」という考えかたも意味がないということです。
例えば、神様は、ある人に対して一つの病気を最初に癒されてから、別の病気が発症するのを許し、しかもそれを癒されないままになさるという場合もあります。神様は私たち一人ひとりを個別に扱っておいでです。私たち一人ひとりの人生の状況は刻々と変化していきますが、このことも神様の働きかけのありかたに影響を与える場合さえあるのです。
「力あるわざ」(10節、ギリシア語で「エネルゲーマタ・デュナメオーン」(ギリシア語では「力」も「行い」も複数形になっています))。
この恵みの賜物には、イエス様が行った多くの自然界の奇跡(例えば嵐を鎮めるなど)が含まれるでしょうし、また悪霊を追い出すこともこの賜物のはたらきであると考えることができるでしょう。なお、後者(悪霊払い)は癒しの賜物のひとつとみなすこともできます。
「霊を見わける力」(10節、ギリシア語で「ディアクリセイス・プネウマトーン」(ギリシア語では「霊」も「識別」も複数形になっています))。 この恵みの賜物は、宗教性が様々な形をとってキリスト教会の中にも溢れるように流れ込んできている現代では特に必要とされている賜物であるとも言われます。「真の霊性」と「偽りの霊性」を正しく区別することは極めて難しいですが、非常に重要なことです。まさにこの点に関して教会の歴史は残念なことに実に多くの誤りを犯してきました。
次のようにヨハネも「霊を見わけること」を勧めています。
「愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。」
(「ヨハネの第一の手紙」4章1節、口語訳)
次の「使徒言行録」16章に記されている出来事は、まさに「霊を見わけること」によって説明できるでしょう。これは、ある召使いの少女は悪霊(占いの霊)に取り憑かれていたのに、使徒であるパウロとバルナバにつきまとい、彼らについて「正しいこと」を喧伝して回ったという出来事です。
「ある時、わたしたちが、祈り場に行く途中、占いの霊につかれた女奴隷に出会った。彼女は占いをして、その主人たちに多くの利益を得させていた者である。この女が、パウロやわたしたちのあとを追ってきては、「この人たちは、いと高き神の僕たちで、あなたがたに救の道を伝えるかただ」と、叫び出すのであった。そして、そんなことを幾日間もつづけていた。パウロは困りはてて、その霊にむかい「イエス・キリストの名によって命じる。その女から出て行け」と言った。すると、その瞬間に霊が女から出て行った。」
(「使徒言行録」16章16〜18節、口語訳)
とはいえ、私たちは極端すぎる考えかたをしないようにも気をつけるべきです。例えば、「悪霊が至る所に現れる」と考えたり、「あらゆる悪が悪霊の仕業である」と説明されたりするのはさすがにやりすぎです。人間の中に悪(すなわち原罪)が内在している(神学的により正確に言えば「染み付いている」)のは、聖書的には最初の人間たち(アダムとエバ)による堕罪の出来事に起因していると説明できます。多くの場合(全部のケースについてではないにせよ)、これで十分な説明になります。悪の背後に常に悪霊どもが存在するとは限らないのです。
多様性の中にある統一性(共通性) 「コリントの信徒への第一の手紙」12章12〜13節
「からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」12章12〜13節、口語訳)
様々な賜物があり、キリスト信仰者はそれぞれ異なる賜物を神様からいただいています。とはいえ、それは「教会が一つではない」という意味ではないことをパウロは強調しています。さらにパウロは、ユダヤ人がギリシア人と異なっていたり、奴隷が自由人と異なっていたりしてもかまわないということを指摘します。要するに、キリスト信仰者たちの間の統一性(共通性)は類似性に基づくものではなく、すべてのキリスト信仰者がキリスト(キリスト教会)の肢体であるという事実に基づいているのです。
パウロがここで用いている人体とその様々な「肢体」(ギリシア語で「メレー」(複数形))という比喩は古代の文献、例えば古代エジプト人やユダヤ人歴史家ヨセフスの著作にもすでに登場しています。古典古代の文献では、この比喩は当時の社会構成を描写するために用いられ、富裕で特権階級に属する人々もいれば貧困な人々もいるという現実を説明する際にしばしば引き合いに出されました。
パウロはそのような解釈には同意せずに、ここで全く新しい解釈を提示しています。それは、体はどの「肢体」であれ一部分でも欠けると機能しなくなってしまうのだから、どの部分も等しく価値があり、無駄なものは一つもない、という考えかたです(21節)。
パウロは「ローマの信徒への手紙」12章3〜8節と「エフェソの信徒への手紙」5章25〜33節でも同じ比喩を用いています。これら三つの箇所での基本的な考えかたは共通しています。キリスト信仰者たちは一つの共同体である教会を形成しているのだから、その中において異なる構成員同士が争い合うべきではないということです。
パウロはまた、洗礼(「バプテスマ」)と聖餐というサクラメント(聖礼典)もこの比喩に含意させています(13節)。本来は、そのどちらも教会に分裂をもたらすものではなく、一致をもたらすものだからです。
体の各部分の違いこそが、体の本質である 「コリントの信徒への第一の手紙」12章14〜31節
「実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。そして、神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれた。みんなが使徒だろうか。みんなが預言者だろうか。みんなが教師だろうか。みんなが力あるわざを行う者だろうか。みんながいやしの賜物を持っているのだろうか。みんなが異言を語るのだろうか。みんなが異言を解くのだろうか。だが、あなたがたは、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。そこで、わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示そう。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」12章14〜31節、口語訳)
この箇所でパウロは自然界の例を用いて、体が生命を維持するために不可欠な条件が、体に様々な「肢体」があることであるのと同じように、教会が生命を維持するために不可欠な条件は、キリスト信仰者一人ひとりが互いにちがっていることであると指摘しています。もしも体に目しかなかったのなら、それは体とは言えません。もしも教会に特定のタイプのキリスト信仰者しかいなかったのなら、それは真の教会とは言えないことになるでしょう。
パウロはこの問題をいわゆる「弱い者」と「強い者」という両者の視点から考察しています。コリントのキリスト信仰者の中には、自分が他のキリスト信仰者たちよりも劣っていると感じて、「より優れたキリスト信仰者たち」と同じ教会にはたして自分は属してよいのかと疑う者さえいました(15〜16節)。しかし、そのような疑問は無意味であるとパウロは断言しています。キリスト信仰者は皆もちろん教会の構成員だからです。たとえ自分の役割が他の一部のキリスト信仰者たちほど輝かしいものでないとしても、すべてのキリスト信仰者は等しく「キリストの体」に属しているのです。
その一方で、パウロは「強い者」の高慢さも否定します。キリスト信仰者はたとえ「強いキリスト信仰者たち」とはちがっていても、教会に属することはできるからです(21節)。「強者の論理」は先ほど述べた「弱者の躊躇」よりも、定期的に教会の礼拝に通う習慣のある私たちにとっては馴染みがある考えかたかもしれません。私たちは、自分たちの通っている教会に他の人々が属するための「条件」を自分たちの都合でいとも簡単に変更してしまいがちだからです。
またパウロは、体のすべての部分が一つの部分の苦しみによって影響を受けるという事実も指摘しています。これと同様に、もしある種のキリスト信仰者たちが教会から追い出されたり、教会の中で隅っこに追いやられたりすれば、他のキリスト信仰者たちも苦しむことになるのです。教会は「統一体」なのであり、その中にある一部の弱さや欠陥はすべてのキリスト信仰者たちの教会生活に影響を及ぼすことになるからです。もちろん、パウロはこのように言うことによって教会の規律(罪を犯している者を諌めること)を無効なものにしているのではありません。当然ながら、教会の中での「思想の自由」には聖書に定められている一定の限度があるからです。
人間の体には多くの「目に見えない部分」や「目立たない部分」があることも私たちは忘れてはなりません。それと同様に、教会の中にも表舞台には出ず人目にはつかないものの「目に見える成員たち」と同じくらい全体にとって重要な役割を担っている教会員たちが数多く存在します。
28節に記されている職務と賜物の順序(「第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者」)は、主として時間的な順序のことであり、価値に基づく順序ではありません。使徒たちは各地の教会の創設者であり、彼らの働きは預言者たちと教師たちによって引き継がれていきました。例えば、パウロは「コリントの信徒への第一の手紙」3章6節では「わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。」と書き、「エフェソの信徒への手紙」2章19〜20節では「そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。」と述べています。当時の書物は非常に高価で希少でした。それゆえ、書物の内容を説明する教師は非常に重要な立場にありました。ユダヤ教の背景を持つ一部のキリスト信仰者たちは旧約聖書をすでによく知っていましたが、ユダヤ教の教師であるラビたちによる聖書解釈は彼らのキリスト信仰にとっては逆に重荷になっていました。そのため、異教の背景を持つキリスト信仰者たちと同じように、彼らもまたキリスト信仰について基礎から教えを受けることを必要としていたのです。
パウロが賜物のリストに「補助者」(他者を助ける能力を持つ者)と「管理者」(指導者としての役割を果たす能力を持つ者)を含めていることは注目に値します。私たちは賜物の多様性について考えるときにしばしば「超自然的な側面」を強調しすぎる傾向があるからです。しかし、パウロはキリスト信仰者たちがごく日常的な仕事を実行していく時にも神様からの恵みの働きかけがあることに気づいていました。
今まで述べてきたことからもわかるように、すべてのキリスト信仰者は何らかの賜物をいただいていると断言できます。ちょうど人体で何の役割も担っていない「肢体」が一つもないのと同じように、神様にとって全く役割の与えられていないキリスト信仰者は一人もいません。
(おわり)