エフェソの信徒への手紙4章

フィンランド語原版執筆者: 
ペトリ・トゥレン(フィンランド・ルーテル福音教会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

キリスト信仰者にふさわしい生活

 「エフェソの信徒への手紙」の1〜3章は神様の奥義と福音の深遠さについて述べています。3章の最後の数節は厳かな晴れやかさをもってこの第一部を閉じます。これからはじまる第二部で、「エフェソの信徒への手紙」はキリスト信仰者にふさわしい生活について語り始めます。

4章1~6節

 多くの手紙でパウロは第一に、キリストが私たちのためにしてくださったことについて多くの言葉を用いて語ります。そして次に、このキリストのみわざが私たちの生活に及ぼす影響について語ります。最初の話題から次の話題に移る箇所はしばしば祭典的な美を湛えており、その厳かさは他の箇所とはっきり区別されるほどです。たとえば、「ローマの信徒への手紙」12章1~2節や「ガラテアの信徒への手紙」5章13節以降がそのような箇所の例です。「エフェソの信徒への手紙」でこのようなテーマの移行が観察されるのが今扱っている1~6節なのです。「へりくだり優しく忍耐強く生活して、教会の一致が保たれるようにしなさい」、と牢につながれた男はキリスト信仰者たちを厳粛に諭しています。ここで提示された倫理的な生活規定は、ほかでもなく教会生活に関わるものです。誰であろうとも、教会の一致を間違った信仰や愛のない生活態度によって汚してはならないのです。

 先を急ぐ前に、いったん「エフェソの信徒への手紙」の構成に注目してみることにしましょう。この構成順序はキリスト信仰者の信仰の内的な段階とも対応しています。最初に来るのが、神様は私のために何をしてくださったか、ということです。最初の出来事の結果として次に続くのが、神様の全き善なる性質は私の生活にどのような影響を与えるのか、ということです。これは神学的に言えば、義認と聖化とはどのような関係にあるのか、という問題です。聖化は義認の根拠ではありません。言い換えれば、人が義とされるのは、その人が聖となることに基づいているのではありません。それとは逆に、聖化とは、義認の結果として神様からの働きかけを受けるようになることです。言い換えれば、人は義とされると自発的に神様の御心にかなうことを行うようになる、ということです。表現できないほどに大いなる神様の愛をどれほど深く理解できているかに応じて、どのくらい私たちが神様を愛し、神様に仕え、自らを捧げることができるのかが決まります。まさにそれゆえに、教えの基本的内容を集中的に学ぶのは教会にとって常によいことなのです。教えと生活とを互いに相反するものとして対置することはできません。生活は正しい教えによって正しい方向に導かれます。もしもそうならない場合には、教えをもう少し正確に確認してみる必要があります。キリスト信仰者の生活はその心のうちにあることを示す尺度にすぎません。

 キリスト信仰者はひとつのからだの一部分となるべく洗礼を受けており、全体としてひとつのからだを構成しています。それはちょうど、御霊や主イエスや父なる神様がおひとりであられるのと同じです。神様が唯一のお方であることを強調する5~6節は、「イスラエルよ、聴きなさい。主は私たちの神様であられます。主はおひとりです」(「申命記」6章4節)というユダヤ人の日々の信仰告白に結びつきます。私たちキリスト信仰者は三位一体なる神様の他にはいかなる神も知りません。パウロは神様の一性について語り、それと同時に「父と子と聖霊」についても語っています。いつの時代にもキリスト教会はこれと同じ信条を告白してきました。私たちは「三位一体」の奥義にひれ伏して、三位一体の神様に栄光を帰するべきなのであり、聖書よりも賢くなろうとしてはいけないのです。私たちが受けた生涯で一回限りの洗礼は私たちを聖なる神様の子どもにしました。この洗礼について私たちが今日も感謝することができるなら、とてもすばらしいことです。

 エホバの証人は、われわれの家の前にやってきては三位一体論について論戦を挑み、この教えをカトリック教会の捏造だと言い張ったりしますが、彼らの論難に対してすかさず徹底的な返答をあたえることができる人は、キリスト教信仰を公に告白しているキリスト信仰者のうちにもあまりいないのではないでしょうか。返答の際には、キリスト信仰者が教会創設以来ずっと唯一の神様を信じて告白してきたこと、および「詩篇」が語る神様についての記述をそのままキリストにあてはめて理解してきたことを確認しておけば十分です。具体的な例としては、「エフェソの信徒への手紙」4章8節と「詩篇」68篇19節などをあげることができます。また「ヨハネの黙示録」では、御座におられる神様と小羊は私たちの理解を超えるほどに親しい間柄として描写されています。実のところ、箇所によってはいったいどちらについて語られているのか、わかりかねる場合もあるほどです。

4章7~16節 賜物を用いることについて

 ここでパウロは「詩篇」68篇29節を引用しています。キリストは地上に下って来られました。その後、あらゆる天よりも高いところにある御座に着かれました。そして、そこからキリスト信仰者に御霊の賜物を分け与えてくださっています。「エフェソの信徒への手紙」がキリストのからだと神様の賜物についてどのようなイメージを用いているかに注目してみましょう。高みにのぼられたキリストの賜物とは、教会のさまざまな職制(使徒、預言者、福音伝道者、牧師、教師のこと)にほかなりません。これらの職制を通じて、キリスト御自身が教会と教会員ひとりひとりの面倒を見てくださいます。それによって、キリストは信仰者ひとりひとりがキリストのからだを構成するようになさいます。この「からだ」は活働する存在であり、どんどん成長していきます。このからだは成熟すると未成年者のあらゆる愚行を捨て去り、もはやいろいろな教えに振り回されることもなくなります。こうして、からだは自らのかしらにしっかり結びつきます。教会がキリストに結びつくことにより、その会員ひとりひとりが互いに結びつき、各々が自分の使命をしっかり果たし、からだが愛につつまれて成長し続けます。教会がキリストのからだであり、教会には御霊の賜物が与えられていることについて、パウロはしばしば語っています。パウロが強調するのは、キリスト信仰者ひとりひとりがキリストのからだの一部分として御霊の賜物と自分の奉仕すべき使命をどのように受けるか、ということではありません。そうではなく、キリストが教会に賜った特定の職制を通じて、神様がキリストのからだである会員ひとりひとりを積極的な愛の奉仕へと整えてくださる、という点です。

 パウロが挙げている職制のうちで、使徒と預言者の職制は歴史的に見て一回的なものです。私たちは今自分たちの仲間の中から使徒や預言者を選出したりはしません。聖書に書かれている彼らの教えに従うことで、私たちには十分なのです。それに比べて、福音伝道者、牧師、教師は私たちの時代にも実際に存続している職制に対応しています。もっとも、教会の職制について考えるときには、職制の名称ばかりではなく内容にも注目していくべきでしょう。「エフェソの信徒への手紙」のこの箇所は、教会の職制がとても大切な問題であることを示しています。ルター派の基本信条である「アウグスブルク信仰告白」第5条が教会の職制を人々に信仰を得させるために神様が設定なさったものと規定しているのは、理由のないことではありません。

古い人と新しい人 4章17~24節

 パウロはキリスト信仰者にふさわしい生き方について語るとき、その具体的な指示を与える前に、彼の他の手紙でもくりかえし書かれている基本事項をまずここでもおさらいします。彼は美しく端的に表現しています。「古い人」と「新しい人」という一組の言葉がその教えの基本にあります。これらの言葉は「肉」と「霊」という言葉でほぼ置き換えることができます。これからわかるのは、キリスト信仰者の生き方を背後から支えているのは救いの教えであるということです。それゆえ、パウロはまず異邦人たちの希望のない状態について語ることからはじめます。

 異邦人は、どれほど自分の力に頼ってみても依然として神様の怒りの下にあり、希望なく生きています。パウロは「ローマの信徒への手紙」1章においてと同じように、いかに異邦人が活ける神様に対して背を向け、心をかたくなにして罪の深い泥沼に沈んでしまったか、語っています。これが私たちの「古い人」あるいは「肉」と呼ばれるものであり、私たちがキリストを無視し自らの力に頼ったままで神様の御前に立っている状態を表しています。神様の救いのみわざは私たちを死者の中から復活させ、新しい命を授け、私たちの中に「新しい人」あるいは「霊」を与えてくれました。それは、私たちが神様の子どもになったことを意味しています。

 ここでパウロは教えます。キリスト信仰者の生活はこの基本的なパターンを実行するために絶えず努力していくことにほかなりません。私たちの使命は「脱ぎ去ること」と「着ること」です。自分の「古い人」と「肉の行い」を脱ぎ去り、「新しい人」と「霊のみわざ」を着ることです。これは、キリストに日々真剣に従いつづけることであり、自分自身の肉を殺しつづけることでもあります。ルターの言い方を借りるなら、古い人を聖なる洗礼の水の中で日々溺死させることです。これとまったく同じ教えが「コロサイの信徒への手紙」にも登場します。「ローマの信徒への手紙」6章にもそれと似た教えがあります。

新しい生き方のための指針 4章25~32節

 ようやく具体的な指針を明示する時が来ました。実は、このことについてはとくに説明を要しません。これらの指針の内容はユダヤ人にはさほど目新しいものではない、というのが多くの研究者の見解です。この箇所は倫理的に自明なことを述べているにすぎない、とみなす人もいるほどです。そうとも言えるでしょう。残された課題は、これらの戒めに実際に従いながら生きることです。実はその際に真の困難がはじまるのです。ここでいくつかの点を具体的に細かく検討するのは有意義であると思います。

 26節は「怒ること」を容認しているわけではありません。「怒りなさい。しかし、罪を犯してはなりません」、というのがこの箇所の直訳です。この背景にある「詩篇」4篇5節は説明が難しい箇所です。それは意図的に私たちの意表をつくような謎を秘めています。この箇所には、「罪を犯さずに、いったい誰が怒ることができると言うのだろうか」、という反語的な意味が込められているのではないでしょうか。クムランのユダヤ人グループの中では(信仰の)兄弟に怒ることは禁じられていました。とりわけイエス様は、隣り人に怒りを抱くことは隣人愛でもなんでもないことを示してくださいました(「マタイによる福音書」5章22節以降)。クムランでいわば仙人のような生活を送っていた者たちが自分の怒りの感情をいくら否定したからといって、そうすることで彼らに純正な愛がもたらされたとは限りません。それはちょうど、現代のキリスト教徒が自分の怒りをみせかけだけの義人の「衣装」で包み隠しているのと同じようなものです。私たちは自分の怒りのかわりに純正な愛を必要としている存在です。これが最重要課題です。このことを考えるとき、せめて私たちは「太陽が沈んでもまだ怒りつづけることがない」ように努力するべきではないでしょうか。そうすれば、悪魔が私たちの内向し根付いた怒りにつけこみそれを拡大して大災害を生むようなこともなくなります。聖書のこの御言葉は、キリスト教徒の間でも絶えず破られています。しかも最悪の場合には、その怒りを誇示することさえあります。

 もうひとつここで取り上げたいのは、キリスト信仰者の言葉がいかに重い意味を持っているか、ということです。私たちが互いに対してどのように話しているかは、どうでもよいようなことではないのです。私たちはまさに言葉によって人をひどく傷つけ、神様の民がかつて陥ったのと同じ罪に陥ってしまいます。その罪とは、聖霊様を嘆き悲しませることです(「イザヤ書」63章10節)。聖霊様は敏感な霊であり、うそをついたり、悪口を言ったり、争いを巻き起こしたりするところに滞在するのを好まれません。私たちはこのことを覚えておくべきです。


引用される聖書の箇所は、高木が原語聖書から訳出したものです。