エフェソの信徒への手紙1章

フィンランド語原版執筆者: 
ペトリ・トゥレン(フィンランド・ルーテル福音教会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

インターネットでエフェソの信徒への手紙を読むか聴く(口語訳)


1章1~2節 挨拶

 「エフェソの信徒への手紙」の冒頭はパウロの挨拶の通常のパターンを踏襲しています。古典古代の習慣に従って、まず手紙の著者の名が次に手紙の受け取り手の名が記されます。そして、その後に短い挨拶がつづきます。

 最も古い写本群には、それよりも新しい写本群とは異なり、テキストに「エフェソにいる」という言葉がありません。すでに述べたように、エフェソの信徒たちはこの手紙の唯一の受け取り手ではなかったのです。おそらく、この手紙は教会間で回覧されるために書かれたので、手紙の受け取り手を記すべき箇所が空欄だったのではないでしょうか。

 いつものようにパウロは自分のことを「使徒」すなわち「派遣された者」と呼んでいます。ふたつの短い節でイエス様の御名が3回も登場します。これによってパウロは自分が勝手にこの手紙を書いているのではないことを強調しているのです。

1章3~14節 神様の救いのご計画への賛美

 ほとんどすべてのパウロの手紙では、はじめの挨拶の後にすぐさま神様への賛美がつづきます。これらの箇所からわかるのは、パウロが神様に日々感謝していたということです(「コリントの信徒への第一の手紙」1章4節、「テサロニケの信徒への第一の手紙」1章2節)。この点で私たちが学ぶべきことはたくさんあります。手紙のこうした書き方の背景に大いなる神様への賛美で一日をはじめるユダヤ人の慣習があったのは、たしかだと思われます。この慣習はキリスト教会で何百年にもわたって受け継がれ、今日でも教会の規範的な祈りの中に残っています。

 「エフェソの信徒への手紙」から伝わってくる神様の恵みについての御言葉は、深い意味を湛えた壮大な次のようなイメージに基づいています。すでに天地創造以前に、神様はキリストにあって救いの計画を立てておられました。そして、私たちをキリストにあって「御自分のもの」として選び出してくださっていたのです。こうして私たちは皆、神様の究めがたい御意思により、「神様の子ども」と定められました。なぜ私たちが神様に招かれたのか、なぜ聖霊様は私たちが主イエス様を信じるようにしてくださったのか、とても不思議です。ともかくも実際にそうなっているのであり、私たちにできることはこのことについて神様に感謝をささげることです。

 「私たちは御子にあって神様のゆたかな恵みにより御子の血をとおして、あがない、すなわち罪過の赦しを受けたのです。神様はあらゆる知恵と思慮との中に、その恵みを私たちに増し加えてくださいました。」(「エフェソの信徒への手紙」1章7~8節)

 これよりも美しく明瞭に私たちの信仰の基礎を言い表すことは容易ではないでしょう。このことを見出した人は、決して揺るがない礎石を自分の人生に見つけたことになります。

 すでに9~14節には、手紙のはじめの部分の主題が登場します。それは、キリストによる和解のみわざがユダヤ人と異邦人とをひとつにした、というテーマです。このおかげで、旧約では神様がイスラエルの民だけに約束なさった御国の相続権に、ユダヤ人ではないキリスト信仰者もあずかることができるようになったのです。このことを私たちに確証するのが、聖霊様による証印である洗礼です。洗礼は、私たちが天の御国の相続権、あがない、罪の赦し、そしてあらゆる天の宝を受けていることを私たちに保証しています。

 「エフェソの信徒への手紙」の最初の章は、この手紙をわかりやすく説明する喜びと困難とを同時に明示しています。この手紙は言葉にはできないほど美しい書であり、圧倒的に偉大な思想に満ちているので、それと深く取り組む者は手紙のイメージが躍動し始めるのを経験します。その際に思い浮かんでくる事象があまりにも豊かなものであるがゆえに、それらを個別に扱うことは、まだ現時点では不可能です。幸いなことに、手紙のはじめの部分が繰り返し語っている内容は、神様の大いなる救いの計画です。今のところ私たちは、とても大きくて美味しいパンから容易く千切れる「かけら」を味わうことで満足することにしましょう。

1章15~23節 信仰者は神様を学び知るべきです

 この手紙は私たちをパウロと共に祈りの部屋へと連れて行きます。パウロは教会のことを絶えず祈りに覚え、これら教会が神様から授かった恵みについて感謝をささげます。また、パウロは教会が信仰の基礎をよりよく学び知ることができるように祈っています。ここで読者の皆さんに注意していただきたいことがあります。今の論点は、神様を無視して生きている人がキリストを知って親しむようになる、ということではなく、すでに信じるようになった人たちこそ神様の愛の偉大さを学び知っていくべきである、ということなのです。当時の教会の中でさえ、つまりキリスト信仰者の間でさえ、神様の栄光と力に関してごくわずかしか知られていなかったからこそ、パウロはこう強調したのです。

 19~23節は、途方もなく偉大な神様の救いのみわざが私たちの信仰に影響を与えていることを教えてくれます。神様はキリストを死者の中からよみがえらせ、天にある御自分の右の座に高く挙げられました。今キリストは御父と共に、あらゆる見えるものと見えないものとの主となっておられます。この世の時だけではなく来るべき時においても、この事実は変わりません。サタンはあるとき、これらのごく一部を報酬として与える約束によって、イエス様を試みようとしました(「マタイによる福音書」4章8~10節)。しかし、すでにサタンの権力は打ち砕かれています。キリストがこの世を支配なさっていることを、私たちは今すでに信仰によって目にすることができます。キリストは教会のかしらであり、私たちは皆、一緒にキリストの体を構成しています。このテーマは第5章の終わりで取り上げます。これらすべてを実現したのは、私たちに対する神様の善き御心です。私たち自身の中にではなく、まさしく神様の善き御心の中にこそ、私たちの希望の礎があるのです。

 第1章の後半部には、「エフェソの信徒への手紙」に特徴的な内容が取り上げられています。信仰者たちが神様を学び知ることを、パウロは期待しています。これは私たち読者にいろいろなことを考えさせます。あたかも獄中から響きわたるようにして、神様の愛を賛美する声が聞こえてきます。手紙の著者は神様とその愛を学び知った人です。それゆえ、大いなる神様の奥義を学び知るように、とパウロは手紙の読者たちをいざなっているのです。彼はわだかまりなく無我夢中になのです。手紙の受け取り手が理解した内容よりもさらに多くの内容を、神様は彼らに分配なさろうとしているのです。これは私たちに何を教えてくれますか。

 私たちキリスト信仰者も信仰生活では落ち込んだり怠けたりするものです。それというのも、神様の愛の広大さや、私たちに約束されている希望の素晴らしさに、ふだんほとんど気づかないまま生活しているからです。これこそが私たちの信仰生活と教会全体にかかわる重大な問題である、と私は確信するようになりました。ここでの問題は、私たちの努力が足りないことではありません。また、私たちは信仰を証するのが下手であるとか、現代世界の潮流から取り残されてしまったということでもありません。さらには、私たちは感情を揺さぶるような強烈な体験をしなければならないとか、新しい恵みの賜物を獲得しなければならないとかいうことでさえありません。大問題なのは、「エフェソの信徒への手紙」が語るキリストの十字架に明示された神様の圧倒的に偉大な愛に関して、そのごくわずかの部分しか私たちはまだ学び知ってはいないということなのです。

 それでは「エフェソの信徒への手紙」の学びを次のことから始めることにしましょう。あなたには、あなたのありのままで、ただキリストの十字架と神様の愛のゆえに、御父がいてくださいます。これまでのあなたは御父の善き本質や偉大さや愛についてあれこれ想像してみることしかできませんでした。しかしこれからは要求や脅迫や条件ではなく、ひたすら神様の善性のみに注目することにしましょう。

 もしもこのことに関して何かしらわかるようなら、私たちが今ある種の「爆弾」を取り扱っていることに気がつくでしょう。このガイドブックの冒頭に登場したヘドベリ牧師がそれを学び知ったとき、現在のフィンランド・ルーテル福音協会につながる福音運動がはじまりました。ですから、それを学び知るとき私たちの中にもリヴァイヴァル(信仰の刷新)が起こるのは大いにありうることです。


引用される聖書の箇所は、高木が原語聖書から訳出したものです。