エフェソの信徒への手紙2章

フィンランド語原版執筆者: 
ペトリ・トゥレン(フィンランド・ルーテル福音教会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

神様の唯一の建物

 聖書の多くの章は、順を追って節ごとに調べていけば一番よく意味がわかります。しかし、いくつかの章についてはそうではありません。読み始める前に十分に時間をかけて、背景知識をある程度手に入れておいたほうがよい場合もあります。こうした作業を経ると、御言葉の意味がおのずと明らかになってくるのです。「エフェソの信徒への手紙」第2章はまさにこのような章です。もちろんこの章の意味は、たとえ背景知識がなくても、信仰者にとっては比較的容易に把握できるものです。ところが背景知識があれば、このすばらしい章のさらに新しい広がりが見えてくるのです。

 私は前回のはじめに、「エフェソの信徒への手紙」は「教会の手紙」であり、そこでは「教会」という言葉は肯定的な意味でのみ用いられている、と述べました。この章を読むときに私たちがまず行うべきことは、現に存在するキリスト教会の分裂状態と教会間の緊張関係をすべて心から追い出すことです。一例として「高教会派」と「低教会派」といった聖公会に由来する区分を一旦忘れることにしましょう。行政的な決定によって教会間の境目を人為的に取り除いてみたところで、教会の分裂状態を修復することはできません。そのためには、福音とサクラメント(洗礼と聖餐の聖礼典 )について一致した理解を見出すことが大切です。しかしここではまず「エフェソの信徒への手紙」が言っていることを見てみることにしましょう。

ユダヤ人と異邦人

 「エフェソの信徒への手紙」2章を読む上で欠かせない背景知識は、当時の世界で実際に存在したユダヤ人と異邦人の間の区別という問題です。異なる環境に生きている私たち現代人にとって、この問題を理解するのは容易なことではありません。この点に関して私たちには日常生活における経験が不足しているからです。この問題は私たちが聖書を理解するのを大きく妨げている諸問題のうちのひとつである、と私は思っています。とりわけ「ローマの信徒への手紙」と「ガラテアの信徒への手紙」、それともちろん「エフェソの信徒への手紙」を理解しようとするときに、この問題が関係してきます。

 異邦人とは誰のことか、という問題の核心は次のようにまとめることができます。神様は救いの約束をアブラハムとその子孫にお与えになり、イスラエルを御自分の民として選ばれました。このようにして神様は人間の世界に近づき、イスラエルの民を諸国民にとっての祭司のような存在とし、アブラハムを通して世界の全国民を祝福しようと望んでおられることを、すでに旧約聖書が私たちに提示しているのはたしかです。にもかかわらず、ユダヤ人と異邦人との間の区別は明瞭で厳然たる事実でした。ユダヤ人は真の神様を礼拝し、モーセの律法を自分のものとして受け継いでいました。それに対して、他のすべての諸国民は正しい道を見失い、偶像を礼拝していたのです。当時の日常生活はこのことが現実であったことを証明しています。ユダヤ人は自分たちの居住区に住むのが普通であり、異邦人のもとを訪れたり、彼らと共に食事をしたり、彼らと婚姻関係を結んだり、彼らと同じ宗教的な行事を施行したり、彼らと同じ神を礼拝したりはしませんでした。もちろん彼らの中には、周囲の環境に多かれ少なかれ同化していったユダヤ人もいました。しかし神様を畏れるユダヤ人にとっては、異邦人から分離することは命に関わる重大事でした。

異邦人伝道のはじまり

 キリストが弟子たちを被造物すべてに福音を宣べ伝えるために世界中に派遣なさったとき、当然ながらこの派遣命令は「異邦人への伝道」も含意していました。それでは、どのようにしてこの伝道は実行されるのでしょうか?注意深い読者ならお気づきでしょうが、「使徒言行録」は、ユダヤ人と異邦人の間に古くから横たわっている境界線を越えることがいかに難しいことであるかについて語っています。使徒たちは自らの意思に反することではありましたが、聖霊様に促されるかたちで、はじめにサマリア人に福音を伝える勇気を得ました(「使徒言行録」8章)。それから、最初の異邦人たちに洗礼を授けることができました(「使徒言行録」10~11章)。アンティオキアの教会に派遣されたパウロとバルナバは最初の宣教旅行でも福音を伝え広げていきました。その福音では、異邦人はモーセの律法に従うことを要求されていません。また彼らには割礼を施す必要もありません。ナザレのイエス様はその御許に異邦人たちのこともお招きになっているのです。

 エルサレムにいたキリスト信仰者の中には、「信じて洗礼を受けただけの異邦人はまだ真のキリスト信仰者ではない」、と考える人たちがいました。この問題をめぐり激しい論争が巻き起こりました。彼らの意見によれば、「信じて洗礼を受けた異邦人もモーセの律法を遵守するしるしとして割礼を受けるべきである」、ということになります。この問題を解決するために、エルサレムでは使徒たちの会議が開かれました。熱気を帯びたこの会議について、パウロ(「ガラテアの信徒への手紙」2章)とルカ(「使徒言行録」15章)は互いにやや異なった形で報告しています。この会議では以下のことが決められました。 1)モーセの律法に従うことはユダヤ人にとっても異邦人にとっても「救いの道」ではないこと 2)モーセの律法はもともと異邦人に与えられたものではないため、異邦人はモーセの律法から自由であること 3)異邦人キリスト信仰者とユダヤ人キリスト信仰者の共同生活(礼拝など)をある種の規定によってある程度まで容易なものにすること(「使徒言行録」における記述) 4)異邦人キリスト信仰者たちの集まるあらゆるところで、パウロがエルサレムの初代教会の貧しい人たちのために愛の献金を集める責任を受け持つこと

行き止まり?

 パウロの宣教した福音は誰もが驚くような実を結びました。小アジアや大陸沿岸のギリシアのあちらこちらには、パウロが開拓伝道した教会がありました。「教会員はモーセの律法に従って割礼を受けるべきだ」、と主張する教師がこれらの教会に現れたときに、激しい衝突が起きました。こうした戦いの中で生まれたのが「ガラテアの信徒への手紙「であり、「ローマの信徒への手紙」です。キリストの死と復活のみが私たち人間の唯一の救いの理由であることを、パウロは最後まで確固として主張しつづけました。この論争を解消するために、パウロはとうとうエルサレムに出発することになりました。そして、そこで彼は逮捕されることになります。

エフェソの信徒への手紙では?

 ところが、「エフェソの信徒への手紙」においては激しい論争はすでに過去のものとなっています。神様の救いのみわざとその人間の理解を超えた奇跡全体を、調和と美を保ちつつ提示する時がついに熟したのです。この2章では、ユダヤ人と異邦人との関係が重要なテーマになります。この手紙の受け取り手の大部分は異邦人として生まれた人たちでした。今や私たちは「エフェソの信徒への手紙」の教えの核心に迫っています。

2章1~10節 昔と今

 「エフェソの信徒への手紙」は、手紙の受け取り手がキリスト信仰者になる前の状態となった後の状態とを正反対のものとして対置しています。これは、「彼らは皆、以前には人殺しや泥棒だったのに今ではすっかり更生した」、という意味ではありません。「神様の真理の光の中で、彼らの状態が以前にはどのように見え、また今はどのように見えるのか」、という点がそのポイントです。

 キリスト信仰者になる以前、彼らは自らの罪の中に死んでいる存在でした。彼らは神様と離れて暮らし、サタンの支配下にありました(「エフェソの信徒への手紙」の表現はもっと優雅です)。彼らの生活が彼らの心の中にあることを明示していました。彼らは「怒りの子ら」であり、最後の裁きと永遠の滅びを待つ身の上でした。実はパウロはここで「ローマの信徒への手紙」1章の内容と同じことを描いているのです。さらに「テサロニケの信徒への手紙」1章9~10節も、「異邦人は偶像を礼拝し、来るべき裁きを待っている」、と 簡潔に同じことを鋭く語っています。

 「前」と「今」は激しく対立しています。憐れみの心に満ちた神様は大いなる愛のゆえに私たちを愛し、死者の中から目覚めさせ、キリストと共に活きるようにしてくださいました。また、私たちをひとえに恵みによって救い出し、キリストと共にいれる天国の御民となさいました。このように手紙の受け取り手は、私たちと同様に、以前は自分たちの罪の中に死んで、神様から離れ去り、滅びへと向かっていましたが、今やキリストのゆえに、彼らは新しい命へと揺り起こされ、「神様のもの」となり、永遠の命へと旅立ったのです。

 この二項対立の中に、パウロの神学の核心がすべて短く描き出されています。ここでは、その対立関係をあえて際立たせて理解するのが大切です。全世界は一筋の光も差し込まない、深く暗い罪の吹き溜まりでした。しかし、神様はキリストを私たちの罪のために死なせ、死者の中からよみがえらせることによって、事態を一変させてくださいました。ここにキリスト教の信仰の核心があります。こうして神様の救いのみわざは人間の世界にまったく新しい状況をもたらしました。「前」と「今」という二項対立は、人々の生活の変化にではなく神様の恵みのみに基づくことがらです。「私たちが神様の子どもである」という事実は、私たちの生活に多くの変化をもたらします。しかし、それはここのテーマとは別のものなので、それについては後で触れることにします。今ここで大切なのは、キリスト信仰者の生活の変化を神様の恵みのみわざと混同しないことです。神学的に言えば、聖化と義認とを混同してはならない、ということです。

2章11~22節 しかし、彼らは異邦人でしょう?

 この章の終わりの箇所を理解するためには、ユダヤ人と異邦人の間に深い溝が存在していた当時の状況を考慮しなければなりません。手紙の受け取り手たちは、以前は神様とはまったくかかわりがなく、神様の民からも隔てられ、希望もなく生きていました。ところが今や、キリストの血が彼らをはるか遠くから神様の近くへと連れてきてくれたのです。そして、彼らは神様の恵みにあずかり、神様の民の一員とされたのでした。「エフェソの信徒への手紙」は、実に多くの見事なイメージを重ね合わせて用いながら「神様の建物」について語っています。神様はキリストにあってユダヤ人と異邦人を分け隔てている壁を取り去り、両者をひとつの神様の神殿としました。この神殿は使徒や預言者(の伝えた神様のメッセージ)の基礎の上に建てられています。その壁は洗礼を受けたユダヤ人と異邦人とから構成されており、隅のかしら石はキリスト御自身です。私たちのよく知っている十字架の形は、テキストが語っている出来事を視覚化します。神様はキリストにあって御自分とすべての人間との間に平和を築かれました。十字架の縦の木は、天と地との間のつながりを表しています。一方、神様はユダヤ人と異邦人を隔てる壁を取り除かれました。十字架の横の木は、人々の間の新しいつながりを表しています。こうして、異邦人はもはや他人や外国人ではなく、神様の家族の一員、神様の民となったのでした。

 「エフェソの信徒への手紙」2章は、私たちの目の前にこの上なく壮大な絵を描き出しています。これほど充実した内容にみちた章を解き明かしていくのは、やりがいのある仕事です。

 まず、教会について多くのゆたかなイメージが用いられていることに、私たちは気がつきます。教会は神様の民であり、「新しい人」(15節)すなわち神様の家族であり、神様の建物です。これらのイメージは、神様の救いのみわざがどのようにして「神様のもの」である新しいグループを生み出してきたかを目に見えるように描き出しています。これからわかるように、「教会」という言葉は「エフェソの信徒への手紙」では肯定的な意味でのみ用いられています。昔も今もこれからも「教会」をつくりあげることができるのは、神様以外の誰でもありません。人々ができることといえば、せいぜい教会を分裂させ腐敗させることぐらいです。

 次に、キリストの教会がどのように預言者や使徒の基礎の上に築かれているかを見てみましょう。「ルーテル教会信条集」はこれについて次のように述べています。

 「旧新約聖書の預言者と使徒の書物は、あらゆる教えと教師が吟味される際に用いられる唯一の規則であり指針です。「あなたの御言葉は私の足元を照らす灯火であり、私の道を照らす光です」(「詩篇」119篇)、と書かれていますし、聖パウロも、「たとえ天の御使いが現れて(御言葉と)ちがうことを宣教したとしても、その天使はのろわれてしまうがよい」、と言っています。
他のテキストがどれほど有名な昔や今の教師の書いたものであったとしても、それらを聖書と同等なものとみなしたりはせずに、すべて聖書よりも下位に置かなければなりません。それらは、どの場所でどのように預言者と使徒の教えが使徒たちの時代の後にも保存されてきたかを語る「証人」としてのみ用いなければなりません」 。
(「和協信条」)

 聖書を通して私たちに語りかけるお方以外の何者のことも、私たちは神様として認識したり告白したりはしません。預言者と使徒のメッセージが教会をつくり保ちます。他のものはいつか燃え尽きてしまう「わら」にすぎません。聖書から受けたメッセージを勝手に変更する権利など私たちにはありません。私たちにできるのは、それをさらに先へ次の世代へと伝えていくことだけです。また、私たちは神様の御言葉が真理であることをしっかり信じ続ける勇気を持つべきです。

 「エフェソの信徒への手紙」の第2章は、私にとって個人的にとても大切な聖書の箇所です。「もしかしたら私は聖書全体をまったく誤解してきたのではないか」、という問いを、私は何年間にもわたって自分に投げかけてきました。「詩篇」139篇の最後の数節がしばしば私の心の中をよぎりました。それは、「神様、どうか私を探ってください。もしも私が間違っているのなら、どうか私を正しい道に導いてください」、という御言葉です。上記の疑問にとらわれたときには、私はよくこの「エフェソの信徒への手紙」2章を開いて、「これを間違って理解するのは不可能だ」とあらためて確認するのが常でした。この章は無条件で完全な恵みについて語っています。本当にすばらしい章です。ずっと後になって、私がユダヤ人と異邦人との間の区別に注目するようになったときに、この章はさらに新たな深みを帯びて私の心を魅了するようになりました。

 皆さんもこの章を読んで、どうか「恵みの福音」を深く学んでください。これよりもよいものはこの世界には存在しないし、また存在し得ないからです。


引用される聖書の箇所は、高木が原語聖書から訳出したものです。