エフェソの信徒への手紙5章

フィンランド語原版執筆者: 
ペトリ・トゥレン(フィンランド・ルーテル福音教会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

花嫁が受け取る手紙

 神様を賛美する美しさにあふれた「エフェソの信徒への手紙」は、前回扱った4章でキリスト信仰者の生き方に関する指示を与えています。この指示の部分は手紙の終わりまで続きます。先を読めば読むほど、指示はしだいに詳細になり、神様の愛への驚きから日常生活へと話題が転換していきます。この順序をはっきりと心に入れておかなければなりません。はじめに神様の恵みと愛が来ます。次にそれらが人の心をしっかりつかんだ結果として、キリスト信仰者にふさわしい生活、すなわち聖化がはじまるのです。

5章1~5節 神様に倣う者たち!

 1節でパウロが言っていることは、「神様を倣う者になりなさい」と直訳できます。これは含蓄のある表現です。見たこともない神様を人はどのように模範にできるのか、などと深刻に考えるのは意味がありません。目に見えない神様の偉大さを模範とすることが問題になっているのではありません。新約聖書のほかの多くの箇所では、キリストはキリストに属する者の従うべき模範である、という指示があらわれます(「ヨハネによる福音書」13章、「フィリピの信徒への手紙」2章など)。しかし、「キリストを模範として生きる」とはどういう意味でしょうか。キリスト教会の歴史の中では、アッシジのフランシスコのように、自分の財産を捨て全身全霊をこめてキリストを模範とする生きかたを試みた人々がいました。ところが、「エフェソの信徒への手紙」で紹介されている教えはそれとはまったく異なるものです。4章32節から5章2節までの箇所がこのことをはっきり示してくれます。

 「互いに役立つことを望む同情心あふれる者となり、神様がキリストにあってあなたがたを赦してくださったように、あなたがたも互いに赦し合いなさい。こうして、あなたがたは神様に愛されている子どもとして神様に倣う者になりなさい。また、愛のうちを歩みなさい。キリストもあなたがたを愛してくださって、私たちのために御自身を神様へのかぐわしい香りの捧げ物、犠牲として捧げられたのです。」
(エフェソの信徒への手紙4章32節~5章2節)

 たとえば、「キリストに従って荒野に向かう」という考えは魅力的に感じられるかもしれません。ところが、ここで言われているのはまったく別のことです。つまり、キリストが私たちを愛してくださったように私たちも隣人を愛さなければならない、という指示を通して主キリストに従うことです。神様の愛からこそ愛が生まれるのです。2節は、旧約聖書の犠牲の捧げ物に関する用語を用いながら、キリストの犠牲の捧げ物の意味を説明しています。

 実は、今取り扱っている考えの中には、なぜ多くの他宗教を代表する人物や無神論者がイエス様について驚くほど美しく語ることができるのか、という疑問への答えがあります。イエス様は多くの人にとって「模範」となっている、ということです。しかし私たちキリスト信仰者にとっては、イエス様は第一に「賜物」であり、次に「模範」でもあるお方なのです。

 ふたつの罪が聖書では絶えず大問題として取り上げられています。それらは性に関する罪と貪欲に関する罪です。性に関する罪とは、結婚生活の外部でのあらゆる性的関係のことです(ギリシア語で「ポルネイア」と言います)。また、性に関連するみだらな話も罪です。驚くべきなのは、この件に関して聖書の御言葉の教えがあるにもかかわらず、同棲やその他の結婚外での性的関係がキリスト教徒の間にも広まってきて、教会の職員の中にさえもそのようなことを行う者がいたし、今もいるということです。また、キリスト信仰者は皆、性に関する自分の話の内容を見つめなおしてみるべきです。もうひとつ私たちにとって重大なことは、貪欲は絶対的に罪として裁かれるということです。また、貪欲は偶像礼拝であり、貪欲な者は永遠の命にあずかることができない、と言われています。

5章6~20節 この箇所が指しているのは、間違った生活を送っている者のことでしょうか、それとも、間違ったことを教えている者のことでしょうか?

 「エフェソの信徒への手紙」はいっそう厳しい警告を続けます。たとえば、愚かな話をする者たちとは何事も一緒に行うべきではないのです。もっとも、ここで対象になっているのが、間違った生活なのか、それとも間違った教えなのか、を見定めるのは簡単ではありません。これは解釈者によって意見が分かれる箇所ですが、「ある特定の行いが罪かどうか判断することは些細な問題であり、罪を犯さないよう人に警告する必要もない」と教える者たちがその対象になっているとは言えるでしょう。初代キリスト教会の頃には、こう主張する教師たちが大勢おり、自分らの考えをあの手この手で正当化しようとしました。私たちの理解を超えることですが、当時のコリントの教会は霊的な現象を過度に強調する傾向と無節操な肉欲とが渾然一体となっていたのです。コリントの信徒たちに対しても、前述のような人々とは何事も共に行わないように、という指示が出されていました。ただしこの指示は、いわゆるこの世の人々一般に対してではなく、自らの信仰を無視して生活しているキリスト教徒についてのみ適用される、という留保が付いています。当時の異端であるグノーシス主義者たちは、「人間の魂は肉体の牢獄ではなく栄光に属している」という偽りの「知識」に基づいて自己の肉体に峻酷な節制を課したり、逆に無制限な自由を与えたりしました。この種のメッセージに気をつけるように「エフェソの信徒への手紙」は厳しく警告しているのです。光の子は光の子にふさわしく生きるものです。これについては「ヨハネの第一の手紙」1章を読んでみてください。

 ここで「エフェソの信徒への手紙」の初めの部分を思い出してみることにしましょう。1〜3章では「キリスト信仰者がいかに生きるべきか」という問題にではなく、「天国への道と義認」というテーマに焦点が当てられてきました。それに対して、この第5章では「聖化」が非常に強調されています。これからわかるのは、義認と聖化は信仰生活の中心的事項であり、そのどちらも忘れてはならない、ということです。ただ注意すべきなのは、両者の相互関係が常に正しく位置づけられていなければならない、ということです。まず罪人がキリストの十字架のみわざのゆえに義と認められます。次にこの義認の結果として聖化が来るのです。

5章21~33節 「家訓」の部のはじまり

 さまざまな人生の状況の下に生きているキリスト信仰者に対して、新約聖書は単純で実践的な指示を与えています。これらの指示は、宗教改革者マルティン・ルターによって「小教理問答書」に取り入れられた後、「家訓」と呼ばれるようになりました。それらは、家族の成員に向けて日常の信仰生活における具体的な指示を記した「掛け軸」のようなものです。

 最初の指示の対象は、教会に属する妻たちです。イエス様に弟子として従った人々の中には男も女もいました。ラザロとマルタの姉妹マリアは立派な弟子でした。ユダヤ人の教師が女性を弟子にするのは、当時のユダヤ人の信仰生活の常識からは考えられないことでした。しかし、イエス様の始められたこのやりかたは初代教会にも途切れることなく受け継がれていきました。その一方で、イエス様は伝統的な家族制度を壊すことはせずに、それを意義深いやり方で刷新なさったのです。たとえば聖書は、家族の頭である夫の下に妻が留まるように勧めています。このイエス様の態度を受け継ぐ形で、教会は神の家族制度とも言える「職制」に関して男と女に別々の使命を与えました。それらは内容的には異なっていますが、そのどれもが大事なものなのです。

 夫に対する「家訓」の指示は、聖書の他の多くの箇所にも記されている教えに関連しています。すなわち、「最善の状態にある結婚はそれ自体よりも大いなる真理を反映している」という教えです。清く心のこもった無私の愛は、キリストがその花嫁なる教会のために自らを犠牲としてささげてくださった、というイメージを喚起します。このように、神様の御民はキリストの死と聖なる洗礼の水とによって聖別されています。それゆえ、彼らは神様の御前でまったく傷のない清く聖なる者とみなされるのです。キリストの教会は聖なる存在です。しかし、その聖さは教会員たちの聖さではなく、キリストが賜った聖さなのです。そして、キリストのこの偉大な愛は、すべての夫たちが従うべき模範として与えられています。

 神様の創造の目的が自分たちの家庭で実現するためにはどうすればよいのか、私たちはよく考えてみなければなりません。その際にまず理解しておくべき大切なポイントは、聖書によれば「誰かの下に立つ」ことは虐待など悪い状態を意味するものではない、ということです。キリストが自ら下に立たれます。聖霊様が預言者に対して自ら下に立たれます。ところが、罪人の私たちには「下に立つ」のは難しいことなのです。聖書が言う「下に立つ」とは、わざとらしく謙遜に振舞うという意味ではありません。それとは逆に、家族を自分の「下に置く」のも好ましくありません。そうした態度は祈りの生活を妨げてしまいます(「ペテロの第一の手紙」3章7節)。家庭の父親には大きな責任と使命がゆだねられています。キリストが彼の模範でなければ、誰もそれを実行することはできません。


引用される聖書の箇所は、高木が原語聖書から訳出したものです。