エフェソの信徒への手紙6章

フィンランド語原版執筆者: 
ペトリ・トゥレン(フィンランド・ルーテル福音教会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

完全武装

 この章は前の章の「家訓」の続きです。今回の指示の対象となるのは、まず子どもと父親であり、それから奴隷と主人です。

6章1~4節 第四戒を大切にするために

 子どもたちに何を行うべきかを勧告するときに、「エフェソの信徒への手紙」は単純な指示を与え、第四戒を引用します。主はイスラエルの民に、「主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである」(「出エジプト」20章12節)という約束の言葉を与えてくださいましたが、この部分は「エフェソの信徒への手紙」における引用では省略されています。これにより第四戒は、小アジアの異邦人にも放牧民であるヘブライ人にも等しく適用できる形で提示されることになりました。元々この第四戒は、小さい子どもが言いつけを聞かずに親に迷惑をかけることを禁止したものではなくて、成人した子が年老いた親の面倒を見るよう勧告するものであったことを思い起こしましょう。ただし、「エフェソの信徒への手紙」のこの箇所は、まだ親元にいる若年の子どもにふさわしい生活態度について述べているのは明らかです。

 父親は子どもを激しく苛立たせることなく訓戒しなければならない、という興味深い指示は今日でも特に有益です。フィンランド人聖書学者ユッカ・トゥレーン教授が指摘しているように、この指示も元々はきわめて具体的な教育方法の実践に関するものでした。要するに、キリスト信仰者は自分の子どもをゴミ箱に投げ込むのに等しいような態度を取ってはいけないのです。ところが異邦人の中には実際にそのような態度で子らに接する者たちもいました。家庭での子育てにおける父親の義務はまず何よりも、子どもたちが心身ともに健康に生活できるように面倒を見ることであり、しつけとか教育とかの話はその後にくるものなのです。「あなたがたの子どもたちを大人になるまでちゃんと育てて、主の御心に従ってしつけ諭しなさい」というのがこの指示の本意です。このように一方では、キリスト信仰者の子どもの教育においては十分に厳しいしつけがなされなければなりません。しかし他方では、子どもの中に怒りが生まれるほどしつけが厳しすぎてもよくありません。私たちはどうすればこの指示に正しく従うことができるのでしょうか。キリスト信仰者にふさわしい子育てのあり方について、私たちは時間をかけて話し合う必要があるでしょう。

6章5~9節 本当に「奴隷」だったのでしょうか

 現代の私たちの社会とパウロの時代の世界との間の顕著な違いのひとつに「奴隷制」があります。私たちにとって奴隷の置かれていた立場を正しく理解するのは困難です。奴隷制は奴隷にとって己が仕える主人の人柄や態度如何によって好ましくもなるし辛くもなります。ローマ人の法律によれば、奴隷は一家の主人の法的な権力の下にありました。すなわち、奴隷がどのような扱いを受けようとも、外部の人間は誰も何も口出しできなかったのです。主人が自ら正しいと思うやり方に応じて、奴隷は厳しすぎる処罰を受けたり殺されたりするさえありました。しかし当時の主人の大多数は非常識な峻酷さを行使することはなく、当時の慣習に従って奴隷に接していました。こうした慣習の中には、たとえば異性間あるいは同性間による奴隷の性的な利用が含まれることもありました。しかし、この慣習も常に奴隷に対して強要されていたとも言えません。たいそう平和で問題が起きないような奴隷の生活のケースもありました。これらすべてのことは、主人がどのような人物であるかによって決まりました。

 新約聖書において、キリスト信仰者の奴隷はしばしば指示を受けていますが、制度としての「奴隷制」自体は一度も疑問視されていません。その一方で、「テモテへの第一の手紙」1章10節によれば、人買い商人は皆から嫌悪され、公然と罪の生活を送る者とみなされていますし、奴隷制が神様の設定された制度であるとは、新約聖書では一度も言われていません。ともあれ、聖書で奴隷制は内容的に新しい意味を付与されているのはたしかです。神様の目には奴隷は自由人であり、自由人は奴隷なのです。人間の価値は、その人の行いに基づいて決められるのではなく、神様のはたらきによって決まります。この箇所が強調しているのは「奴隷制」という制度ではなく、人々が集う教会では「自由人か奴隷か」という立場の相違は意味を失うという点です。

 今回もまた、「主人の下に立って、できるだけよく仕事をするように」、といういつもの指示が奴隷に与えられています。日常の仕事に勤しむ者は神様に仕えているのです。同様に、主人たちにも指示が与えられています。主人たちの上にも主人がいます。それは神様です。人を差別しない神様に対して、彼ら主人たちも(最後の裁きの場で)申し開きをすることになります。神様の御前で奴隷と自由人は同じ基準に従って裁かれるのです。

 幸いなことに制度としての「奴隷制」の時代は過ぎ去りました。にもかかわらず、この箇所は現代の私たちの生活にも応用可能な事項を含んでいます。主人と奴隷に関わる指示は、雇用者と労働者の関係に適用されるのは当然として、その他にも私たちに大切な事実を教えてくれます。それは「日常の仕事とは神様への奉仕である」ということです。これは宗教改革における大発見の一つなのですが、残念なことに、忘れられていることがあまりにも多いです。

6章10~20節 真の戦い

 先の箇所で「家訓」は終わります。キリスト信仰者がこれまで受けた指示は、結びの勧めにまとめられています。1章によれば「諸力」はすでに粉砕されています。にもかかわらず、この「諸力」についてここで再び取り上げられているのは興味を引きます。実は、ようやくこの段階になって、キリスト信仰者はそれらの諸力と具体的に戦う準備ができたのです。キリストと離れている限り、人間は神様との関係も失っており、死の支配下におかれています。そのような状態の人間には「墓場の中の平安」があるのみです。ところが、神様が人を命へとよみがえらせたときに「戦い」が始まります。死者なら墓場で横たわったままですが、生者なら戦い祈ります。パウロは獄中にあっても苦い怒りの心をもたず、言葉には表せないほど偉大な神様の愛と奥義を描き出すことに専心しました。この彼が適切な言葉で主を正しく証できるよう皆にとりなしの祈りを謙遜に頼む姿勢は感動的です。

 「神様の武具」の各部分は旧約聖書からの引用の数々から構成されています。このことは私たちの心を揺さぶります。一つの例外を除き、それらの武具は神様が人間に賜った武具であるだけではなく、旧約聖書において神様御自身が身に纏われた武具でもあります。このような武具をキリスト信仰者は装着するのです。「ヘブライの信徒への手紙」4章12節は神様の御言葉のことを「御霊の剣」と言っています。その他に少なくとも次の旧約聖書の箇所は特に注目に価します。

「正義はその腰の帯となり、真理はその身の帯となる。」
(「イザヤ書」11章5節)

「主は義を胸当てとしてまとい、救いのかぶとをその頭にかぶり、報復の衣をまとって着物とし、熱情という外套に身を包まれました。」
(「イザヤ書」59章17節)

「福音を伝える者の足、平和を告げる者の足、よき福音を伝える者の足、救いを告げる者の足、シオンに向かって「あなたの神様は王となられた」と言う者の足は、山々の上にあってなんと麗しいことでしょう。」
(「イザヤ書」52章7節)

「私の盾は神様です。神様は心のまっすぐな者を救われます。」
(「詩篇」7篇11節)

 「エフェソの信徒への手紙」のこの箇所は、誕生してまだ間もなかったキリスト教会の信仰者たちにとっても旧約聖書が信仰の基本書であったことを私たちに教えてくれます。旧約聖書を軽んじるのは、キリスト信仰者にふさわしい態度ではありません。ともすると聖書の3分の2を占める旧約聖書が読まれずに放置されている状態を、私たちは恥ずかしく思うべきでしょう。私たちに提供されている武具は、神様の御言葉の光の下で私たちが自らの生活全体を見直すよう何度も繰り返し促しています。私たちの生活の中に聖書とは相容れない何かがありますか。神様は私を憐れんで御自分の子どもとしてくださったのです。この事実に基づいてよりよい人生を送るために、私たちはどのような決意をすることができるでしょうか。

6章21~24節 手紙の結語

 現在「エフェソの信徒への手紙」として知られているこの手紙はどのようにして教会(あるいは諸教会)のもとに届けられたのでしょうか。この箇所にそれに関連するヒントが与えられています。手紙を届けたのはテキコという人(「幸福な子」という意味の名前)です。彼はパウロの近しい同僚であり、新約聖書の他の箇所にも登場します(「使徒言行録」20章4節、「コロサイの信徒への手紙」4章7節)。パウロの仕事はチームワークによって行われました。そこで同僚たちの協力関係は私たちには想像できないほど非常に大切な意味を持っていたのです。

 「エフェソの信徒への手紙」は、その冒頭から一貫して「恵みの手紙」であったのにふさわしく、短く美しい恵みの挨拶で閉じられます。


引用される聖書の箇所は、高木が原語聖書から訳出したものです。