テモテへの第一の手紙 1章 異端の教えに対する警告

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

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はじめのあいさつ 「テモテへの第一の手紙」1章1〜2節

「わたしたちの救主なる神と、わたしたちの望みであるキリスト・イエスとの任命によるキリスト・イエスの使徒パウロから、」
(「テモテへの第一の手紙」1章1節、口語訳)

いつものとおりパウロは自分を「神様の使徒」として紹介しています。パウロがこのような自己紹介をしていないのは三通の手紙でだけです(「フィリピの信徒への手紙」、「テサロニケの信徒への第一の手紙」、「テサロニケの信徒への第二の手紙」)。これらの手紙には二人以上の差出人の名が記されています。「使徒」とは神様が権能を授けて派遣なさった福音宣教者のことです。

すでに「テモテへの第一の手紙」の冒頭でこの手紙が個人宛の手紙ではなく教会の職務にかかわる手紙であることが明らかにされています。この手紙ではテモテ自身が職務として遂行すべき事項や、一部の職務については他の人々に伝達すべき事柄が書かれています。

パウロは神様を「救主」(すくいぬし)と呼んでいます。「救い主」はギリシア語で「ソーテール」といい、一般的にはイエス様について用いられている名称です(「エフェソの信徒への手紙」5章23節、「フィリピの信徒への手紙」3章20節、「テモテへの第二の手紙」1章10節、「テトスへの手紙」1章4節、3章6節)。

「望み」とは新約聖書では曖昧な期待などではなく、神様は御自身が約束なさったことを確実に与えてくださるという堅い信頼のことです。例えば「ヘブライの信徒への手紙」11章1節は「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」と述べています。

「信仰によるわたしの真実な子テモテへ。 父なる神とわたしたちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とが、あなたにあるように。」
(「テモテへの第一の手紙」1章2節、口語訳)

テモテはパウロにとって信仰的な意味での我が子でした。テモテはパウロの伝道を通してキリスト信仰者になったからです。パウロは自分の伝道を通してキリスト信仰者になった者たちを自分の子と呼んでいます。例えば「コリントの信徒への第一の手紙」4章15〜17節ではコリントの信徒たちのことを、「テモテへの第二の手紙」1章2節、2章1節ではテモテのことを、「テトスへの手紙」1章4節ではテトスのことを、「フィレモンへの手紙」10節ではオネシモのことをそう呼んでいます。

パウロはテモテに「恵みとあわれみと平安」があるように願っています。「テモテへの第二の手紙」1章2節でも同様の挨拶をパウロはテモテに送っています。一般的にパウロは「恵みと平安」を手紙の受け取り手に願っています(「ローマの信徒への手紙」1章7節、「コリントの信徒への第一の手紙」1章3節、「コリントの信徒への第二の手紙」1章2節、「ガラテアの信徒への手紙」1章3節、「エフェソの信徒への手紙」1章2節、「フィリピの信徒への手紙」1章2節、「コロサイの信徒への手紙」1章2節、「テサロニケの信徒への第一の手紙」1章1節、「テサロニケの信徒への第二の手紙」1章2節)。しかしパウロは「あわれみ」という単語を牧会書簡以外の手紙でも用いています(例えば「ローマの信徒への手紙」9章23節、「ガラテアの信徒への手紙」6章16節)。

偽りの信仰と正しい信仰 「テモテへの第一の手紙」1章3〜11節

「わたしがマケドニヤに向かって出発する際、頼んでおいたように、あなたはエペソにとどまっていて、ある人々に、違った教を説くことをせず、作り話やはてしのない系図などに気をとられることもないように、命じなさい。そのようなことは信仰による神の務を果すものではなく、むしろ論議を引き起させるだけのものである。」
(「テモテへの第一の手紙」1章3〜4節、口語訳)

いつもならば、パウロの手紙でははじめのあいさつの後に感謝と祈りが続きます(「コリントの信徒への第一の手紙」1章4〜9節、「エフェソの信徒への手紙」1章3〜14節、「コロサイの信徒への手紙」1章3〜8節)。しかしこの手紙ではそうなってはいません。

パウロはテモテをエフェソに残してマケドニヤへの旅を続けました(1章3節)。「テモテへの第一の手紙」はマケドニヤからエフェソに送られたものと思われます。「使徒言行録」はパウロのこの旅について何も記していません。しかしこの旅はルカが「使徒言行録」で描いた出来事以後のことなので当然だとも言えます。

テモテの使命はエフェソの教会に入り込んだ偽りの教えが広まるのを終わらせることでした。

エフェソの教会の内部から偽教師たちが現れることをパウロは5年ほど前に予言していました(「使徒言行録」20章29〜31節)。正しい福音はひとつしかなく、その福音から逸脱することはすなわち偽りの教えにすり替わることを意味します(例えば「コリントの信徒への第二の手紙」11章1〜4節、「ガラテアの信徒への手紙」1章6節、「テモテへの第一の手紙」4章1〜8節、6章3〜5、20、21節、「テトスへの手紙」1章13〜16節)。

エフェソの教会にあらわれた異端がどのようなものであったか正確には知られていません。牧会書簡の中で言及されている異端のいくつかの特徴についてはすでに前述しました。おそらくこの異端のタイプはグノーシス主義かあるいはその萌芽のようなものだったのではないかと思われます。この異端は隠された知識(ギリシア語で「グノーシス」)の重要性を強調し、この知識の力を借りることで物質世界の呪縛から脱して諸霊の世界に上昇できると教えました。また系図を読み取ることで霊界のことを探ろうとしました。

エフェソの教会はわずか8年ほど前に設立されたばかりでした(「使徒言行録」19章1節〜20章1節)。パウロがエフェソの教会で2年ほどかけて正しい福音を教えたにもかかわらず(「使徒言行録」19章10節)、パウロたちがエフェソを出発するとまもなく異端が入り込んでしまったのです。

神様が福音の御業を行われるところには魂の敵(すなわち悪魔)も破壊の仕業を始めます。異端と戦う最も効果的なやりかたは正しい教えを宣べ伝えることです(1章8節)。

「異端者は、一、二度、訓戒を加えた上で退けなさい。」
(「テトスへの手紙」3章10節、口語訳)

この「テトスへの手紙」の箇所については「異端者は退けなさい」という部分だけ切り取って強調されることがしばしばあります。しかし「一、二度、訓戒を加えた上で」という但し書きがついている点も見逃すべきではありません。神様は異端に陥ったキリスト信仰者たちのことも救いたいと望んでおられるのです!

「わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としている。」
(「テモテへの第一の手紙」1章5節、口語訳)

ギリシア語原文に忠実に訳す場合、この文の主語は「命令の目標は」になります。これは勧告や奨励や指導ではなく、キリスト信仰者全員が守らなければならない命令なのです。

「わたしたちが知っているとおり、律法なるものは、法に従って用いるなら、良いものである。」
(「テモテへの第一の手紙」1章8節、口語訳)

律法には神様の御意思にかなった使用目的があります(「ローマの信徒への手紙」8章12、16節)。ですから律法を本来の使用目的以外のために用いることは誤用なのです。律法は人に救いを与える道ではありません。ルター派の教義は律法の三つの使用法について次のように述べています。

1) 社会的な使用法 律法は悪と不義を抑制する働きをする(「ローマの信徒への手紙」13章1〜10節) 
2) 霊的な使用法 律法は人間が自分の罪深さを気づかせるように追い込み、神様の恵みのみによって救われる必要があることを人間に納得させる(「ガラテアの信徒への手紙」3章22節)
3) 律法は神様の御意思に従うようにキリスト信仰者にも奨励を与える(「ローマの信徒への手紙」8章4節)

「すなわち、律法は正しい人のために定められたのではなく、不法な者と法に服さない者、不信心な者と罪ある者、神聖を汚す者と俗悪な者、父を殺す者と母を殺す者、人を殺す者、不品行な者、男色をする者、誘かいする者、偽る者、偽り誓う者、そのほか健全な教にもとることがあれば、そのために定められていることを認むべきである。」
(「テモテへの第一の手紙」1章9〜10節、口語訳)

上掲の箇所でパウロは律法を破る11の例を挙げています。それらは十戒にかかわっています(特に第一戒、第四戒、第五戒、第六戒、第八戒)。たとえすべての罪に対して赦しが与えられる可能性があるとしても「だから何を行ってもかまわない」という考え方は決して許されないことを上記の一覧表は私たちに注意し勧告しています。

聖書では同性間の性的関係を重大な罪に定めています(「レビ記」18章22節、20章13節、「ローマの信徒への手紙」1章26〜27節、「コリントの信徒への第一の手紙」6章9節)。近年ではこの点を曖昧にしたり抹消したりする様々な試みがありましたが、聖書の翻訳にかぎっていえばそのような試みは今までことごとく失敗してきました。聖書に明確に書いてあることをさすがに翻訳者がなかったことにはできないからです。

「健全な教」は神様の律法に従うことと調和しています。キリストは律法を廃するためにではなく成就するためにこの世に来られたのです(「マタイによる福音書」5章17節)。「テモテへの第一の手紙」1章8節にも律法は本来の使用目的にしたがって用いられるかぎり良いものであると述べられています。キリストは恵みによって救いをもたらし、律法の要求する義が実現しました(「ローマの信徒への手紙」8章3〜4節)。

「これは、祝福に満ちた神の栄光の福音が示すところであって、わたしはこの福音をゆだねられているのである。」
(「テモテへの第一の手紙」1章11節、口語訳)

「健全な教」はとりわけ福音とも緊密なつながりがあります。福音はパウロが神様からいただいたものでした。「健全な教」とは福音に沿って生きることです。福音とは人が学習する哲学や体系などではなく、神様の啓示そのものです。

パウロが神様からいただいたのは福音のメッセージだけではなく、それを異邦人たちに宣べ伝える使命もです(「コリントの信徒への第一の手紙」9章17節、「ガラテアの信徒への手紙」2章7節、「テサロニケの信徒への第一の手紙」2章4節、「テモテへの第二の手紙」1章12〜14節)。パウロはテモテも彼から伝えられた福音をさらに他の人々に宣べ伝えていくように指示しています(「テモテへの第二の手紙」2章2節)。

罪人たちのうちでも最大の罪人が恵みをいただいた「テモテへの第一の手紙」1章12〜17節

「わたしは、自分を強くして下さったわたしたちの主キリスト・イエスに感謝する。主はわたしを忠実な者と見て、この務に任じて下さったのである。」
(「テモテへの第一の手紙」1章12節、口語訳)

ようやくここからパウロの感謝と祈りが始まります。上節でパウロは神様が彼を使徒として召してくださったと述べています。パウロ自身は別の生き方をしようとしていましたが、ダマスコへの途上で神様は彼を御自分の福音伝道のために召命なさったのです(「使徒言行録」9章1〜6節)。

上掲の節にもあるようにパウロは神様から使命だけではなくその使命を実行するための力もいただきました(「フィリピの信徒への手紙」4章13節)。福音伝道の仕事は常に神様の助けと力によってなされます。人間の力によっては何の結果ももたらさないからです。

「わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。」
(「テモテへの第一の手紙」1章13節、口語訳)

かつてパウロはキリスト教会を滅ぼそうと試みました(「使徒言行録」9章1節、22章4〜5節、26章9〜12節、「ガラテアの信徒への手紙」1章13節)。その時のパウロは自分がいったい何をしているのかわかっていませんでした。彼はそうすることで自分が神様に仕えているのだと思い込んでいましたが、実は神様に無謀な戦いを挑んでいたのです。十字架上でイエス様は御自分を十字架につけた者たちのために祈られました。なぜなら「彼らは何をしているのか、わからずに」いたからです(「ルカによる福音書」23章34節)。自分の知恵に頼り続けるかぎり人間は活ける神様を正しく知るようになるどころか、むしろ神様に戦いを挑んでいるのです(「使徒言行録」3章17節、17章30節も参照してください)。神様の御意思にわざと反抗することは、すでに旧約聖書において、無知のゆえに犯した罪よりも厳しい裁きを受けています(「民数記」15章22〜31節)。神様の御意思を故意に破ることは神様を侮蔑することです(「使徒言行録」9章4節も参照してください)。

「その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。」
(「テモテへの第一の手紙」1章14節、口語訳)

神様の恵みは人間の罪深さよりも常に大きいものです。次の御言葉にあるように、恵みは常に罪を上回るからです。

「律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。」
(「ローマの信徒への手紙」5章20〜21節)。

「「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。」
(「テモテへの第一の手紙」1章15節、口語訳)

「この言葉は確実である」(ギリシア語で「ピストス・ホ・ロゴス」)は牧会書簡に典型的な言い回しであり、全部で5回登場します(「テモテへの第一の手紙」3章1節、4章9節、「テモテへの第二の手紙」2章11節、「テトスへの手紙」3章8節)。「テモテへの第一の手紙」4章9節では上記の1章15節の「そのまま受けいれるに足るものである」というところまで同一です。

パウロは自分のことを「罪人のかしら」すなわち最大の罪人であると言っていることに注目しましょう。彼は「罪人のかしらであった」とは言わずに「罪人のかしらなのである」と言っています。すなわち彼はこの手紙が執筆された時点でも自分が依然として罪人のかしらであると言いたいのです。これをたんなる修辞的な表現とみなすべきでしょうか(「コリントの信徒への第一の手紙」15章9節や「エフェソの信徒への手紙」3章8節も参照してください)。パウロは他の人々の罪の量の大小についてどこから知ることができるのでしょうか。基本的に人間は自分の罪深さを他の人々と比較することができないし、またそうすべきでもありません。むしろ自分の罪深さは神様の律法や御意思と比較することによって推し測るべきものです。そうするとわかるように、神様の御前で人は各々が最大の罪人なのです。ここでパウロが最大の罪人になったのはキリストに従うようになってからであり、悔い改める前の彼は自分が義人であり良い人間であると感じていたという点に注目しましょう。

「しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。」
(「テモテへの第一の手紙」1章16節、口語訳)

パウロの言葉には手紙の読者に慰めを与えるという意味もあります。もしも神様が最大の罪人を憐れんでくださったのなら、神様はもっと小さな罪人たちのことも(すなわち誰であれ)憐れんでくださることになるからです。キリストは罪人たちの救い主です(「マタイによる福音書」9章13節、「マルコによる福音書」2章17節、「ヨハネの第一の手紙」3章5節)。イエス様は次のように宣言しておられます。

「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。」
(「ルカによる福音書」5章32節、口語訳)

不信仰こそがすべての罪の始まりであり、人間を偽りの宗教性に陥れ、神様の与えてくださった約束への不信を焚き付けます(「ヨハネによる福音書」16章8〜9節、「フィリピの信徒への手紙」3章2〜6節)。

「世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アァメン。」
(「テモテへの第一の手紙」1章17節、口語訳)

この節の讃美には当時の礼拝での祈りが引用されていると思われます(6章15〜16節も参照してください)。

神様は私たちの目には見えません。このことは神様を表すいろいろな像を作ることが不可能であり、神像の製作者たちが実は偶像を崇拝していることについて注意を喚起します(「イザヤ書」44章9〜20節)。上掲の節は活ける真の神様は唯一の存在であることを教えているのです。

神様が可視的な存在ではないということは、人間には神様そのものを見ることが決してできないという意味でもあります(「出エジプト記」33章20節、「ヨハネによる福音書」1章18節、「ヨハネの第一の手紙」4章12節)。

忠実であれ! 「テモテへの第一の手紙」1章18〜20節

「わたしの子テモテよ。以前あなたに対してなされた数々の預言の言葉に従って、この命令を与える。あなたは、これらの言葉に励まされて、信仰と正しい良心とを保ちながら、りっぱに戦いぬきなさい。」
(「テモテへの第一の手紙」1章18節、口語訳)

ここでパウロはテモテに新たな命令を与えています(1章3節も参照してください)。テモテは自分がエフェソに残った目的を実現しなければならないのです。

テモテの受けた預言の言葉は彼がパウロの同僚になった時の状況にかかわるものであったと思われます(「使徒言行録」16章1〜3節、「テモテへの第一の手紙」4章14節)。パウロもまた自分が使徒としての召命を受けたことを確証するものとしてテモテと同じような預言の言葉を神様からいただいています(「使徒言行録」13章1〜3節、9章15〜16節)。どちらの場合もパウロとテモテがキリストの福音の宣教者として正式に召されたことを明らかに証しているのです。

テモテがパウロと共に伝道の旅に出たのは約12年前のことでした。テモテは自分に委ねられた使命に対して忠実であり続けなければなりませんでした(「テモテへの第一の手紙」6章20節)。

「ある人々は、正しい良心を捨てたため、信仰の破船に会った。その中に、ヒメナオとアレキサンデルとがいる。わたしは、神を汚さないことを学ばせるため、このふたりをサタンの手に渡したのである。」
(「テモテへの第一の手紙」1章19〜20節、口語訳)

人が抱くやましい良心はしばしば様々な異端の教えが蔓延するきっかけとなってきました。人は自分の人生が神様の御言葉と調和していない時、自分の生活を変えるのではなく、むしろ神様の御言葉のほうを改変しようと試みてきたのです(「テモテへの第一の手紙」3章9節、4章1〜2節)。

人が信仰を失うことは起こり得ます。上節でパウロは二人の例を挙げています。おそらくこれはエフェソの教会での出来事だったと思われます。

ヒメナオは「テモテへの第二の手紙」2章17〜18節でもその名が出てきます。その箇所によれば彼は復活がすでに起きたと主張しました。

「テモテへの第二の手紙」4章14節に述べられているアレキサンデルは上掲の箇所のアレキサンデルと同一人物である可能性があります。それに対して「使徒言行録」19章33節に出てくるユダヤ人アレキサンデルは別の人物であると思われます。なお「アレキサンデル」という名は古典古代では一般的な人名でした。

パウロが二人を「サタンの手に渡した」目的は彼らが偽りの道から離れて正しい信仰へと戻るように促すことにありました(「コリントの信徒への第一の手紙」5章1〜5節、「コリントの信徒への第二の手紙」2章5〜11節も参照してください)。これは具体的には教会から除外すること、少なくとも聖餐式に参加できなくすることを意味していたと思われます(「コリントの信徒への第一の手紙」5章13節、「マタイによる福音書」18章15〜18節)。

上掲の箇所に書かれている事柄は「テモテへの第一の手紙」がパウロの純正の手紙であることの証拠のひとつとみなすことができます。この手紙が何十年も後に書かれたのだとしたら、その時点では事実上まったく意味を失っていたであろう事柄についてなぜこれほど詳細に書かれているのかが説明できなくなります。ヒメナオとアレキサンデルが実際には何十年も後の時代(すなわちこの手紙がパウロ以外の者によって書かれたとされる時代)に生きていたものと想定し、「テモテへの第一の手紙」1章19〜20節の目的はパウロが彼ら異端者たちを断罪することであったとする仮説はさすがに無理があります。この場合、パウロは自分が死んでから何十年も後に起きた事件を手紙で取り上げることになるわけですから、手紙の読者はすぐに矛盾点に気が付くことでしょう。