テモテへの第一の手紙3章 牧師の職務とそれを遂行するために必要とされる諸条件

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

教会の牧師の有するべき特徴 「テモテへの第一の手紙」3章1〜7節

前章でパウロは誰が教会の指導者、牧者として活動してはいけないかについて語りました。今ここで彼は教会の牧者に要求される15の特徴を列挙しています。それらは次の10のグループに分けることができます。

1)ひとりの妻の夫であること(3章2節)
この特徴に反するケースとしては次のような5通りの例が考えられます。パウロが反対しているのは次の5つのいずれかのケースになります。

A)未婚者を教会の牧者として選ぶこと
ギリシア正教会では司祭は輔祭になる前に結婚するかしないかを決心しなければなりません。ローマ・カトリック教会はそれとは別に聖書的ではない極端なやりかたを採用しました。神父は生涯独身を貫き、未婚のままでいなければならないという制度です。しかしイエス様(「マタイによる福音書」19章10〜11節)もパウロ(「コリントの信徒への第一の手紙」7章7節)も人が結婚している状態をキリスト信仰者にとって最も自然な選択肢であるとみなしました。

B)一夫多妻制
ローマ法は夫が妾をもつこと(一夫多妻制)を承認していました。一夫多妻制は初期の教会のキリスト信仰者たちの間にあったのかどうかは知られていませんが、アフリカの多くの国々における海外伝道の現場では今でも見られます。

C)再婚者を教会の牧者として選ぶこと
ユダヤ教では夫がほぼどのような理由であれ妻を離縁して新たな妻を娶ることができるという一夫多妻的な夫婦関係が見られました(「マタイによる福音書」19章3〜9節および「ローマの信徒への手紙」2章22節)。

これに対してパウロは、離婚した者は前の結婚相手の存命中は再婚してはならないという立場を取りました(「ローマの信徒への手紙」7章2〜3節、「コリントの信徒への第一の手紙」7章39節)。

D)やもめの再婚
一般的にレビ族の祭司は寡婦と結婚することが許されていませんでした(「レビ記」21章14節、「エゼキエル書」44章22節)。
教会教父テルトゥリアヌスはこの聖書の箇所が、キリスト信仰者の牧師も寡婦と結婚してはならないことを教えていると解釈しました。しかしこの解釈は奇妙です。
パウロは結婚そのものを禁じるグノーシス主義者たちの考え方と戦っていたからです。
もしもパウロの考えがテルトゥリアヌスの解釈通りのものだとしたら「パウロがそれについてもっと明確に述べなかったのはなぜなのか」という疑問が生じます。

現代の翻訳にいたっては「一度だけ結婚したことがある者」という具合に「夫」という言葉を使用しないものさえ見受けられるようになってきました。

E)不実
この箇所を「結婚において忠実であること」と解釈する案もあります。しかしこの解釈には反論があります。この忠実さは教会の指導者だけにではなくキリスト信仰者全員にも要求される事柄だからです。パウロが列挙したこの要求項目をみてみると、実は「よく教えることができ」ることだけが職業上要求されることであり、他のすべての要求はキリスト信仰者全員に要求されているものであることがわかります。「これは教会の指導者になる条件としては簡単すぎるのではないか」とか「せめてパウロがこの箇所で述べている15の特徴程度は現代の牧師になる人にも要求するべきなのではないか」といった疑問が出てきてもおかしくはありません。

2)慎み深いこと(3章2節)
指導者たちには彼ら自身の行いを吟味し監督してくれる他の指導者たちが欠けています。それゆえ彼らは自分で自分を律しなければならないのです。

3)旅人をもてなすこと(3章2節)
古典古代における「宿屋」の評判はけっしてよいものではありませんでした。それもあってキリスト諸教会は方々を旅して回る説教伝道者たちに安全な宿泊所を提供したのです(「テトスへの手紙」1章8節、「フィレモンへの手紙」22節、「ヘブライの信徒への手紙」13章2節、「ヨハネの第三の手紙」5〜8節)。

4)よく教えることができること(3章2節)
これは教会の牧師の有するべき様々な特徴のうちで唯一職業的に要求される事柄です。神様は牧師の職務を遂行するために必要な賜物や技術を貸与してくださいます。その一方で神様はすでにあらかじめ特定の人々をキリスト教会の僕(しもべ)として用意なさってもおられるのです。

5)酒を好まないこと(3章3節)
ここでパウロは絶対的な禁酒を要求しているのではありません(「テモテへの第一の手紙」3章8節、5章23節、「ヨハネによる福音書」2章1〜12節の「カナの婚礼」の出来事も参考になります)。アルコールは指導者にとって最も重要な資質のひとつである判断力を鈍らせてしまいます。「箴言」は酒のもたらす危険について王たちに警告しています(「箴言」31章4節、また「箴言」20章1節、23章29〜35節、「イザヤ書」5章22〜23節、28章7〜10節も参考になります)。

6)ふさわしい性質(3章3節)
牧師は寛容であるべきで(「フィリピの信徒への手紙」4章5節)、人と争わず、乱暴でなく(「テトスへの手紙」1章7節)、争いません(「テトスへの手紙」3章2節)。

7)金銭に対して正しい態度を保っていること(「金に淡泊」3章3節)
牧師は貪欲であってはなりません(「テモテへの第一の手紙」6章5、10節、「テモテへの第二の手紙」3章2節、「ペテロの第一の手紙」5章2節。また「ヨハネによる福音書」12章6節も参考になります)。

アメリカ合衆国のテレビ説教者たちのうちの多くはキリスト教関係のテレビ番組が集金手段として優れていることに気がつきました。すると彼らの説教からは福音が消えてしまったのです。旧約の預言者サムエル(「サムエル記上」12章1〜5節)と新約の使徒パウロ(「使徒言行録」20章33〜35節)は金銭や財産にかんして過ちを犯さなかったという証言を人々から受けていました。ところが旧約の預言者ミカの時代の世俗の指導者たちやユダヤ教の指導者たちはそろって強欲でした(「ミカ書」3章1〜5節)。

8)自分の家をよく治めること(3章4〜5節)
主の祭司エリはこの点で人々が避けるべき反例となっています(「サムエル記上」3章12〜14節)。エリは自分の二人の息子たち(祭司ホフニとピネハス)に主を畏れない悪行をこれ以上続けないように訓戒することができなかったのです。キリスト信仰者にとって自分の家族は「最も難しく最も重要な宣教地」であるとも言われます(「テトスへの手紙」1章6節を参照してください)。キリスト教伝道に携わる者にとって家族からの支えは非常に重要になります。

9)キリスト信仰者として成熟していること(3章6節)
信者になって間もない者が早々と教会の指導者の地位に上ると高慢になる可能性が高いです。異端と戦うためにはキリスト信仰者として十分に成熟していることとキリスト教の教義を堅く保持していることが要求されます。人は信仰の中で成長していきますが、それには時間が必要とされるのです。

10)教会の外部の人々からもよい評価を得ていること(3章10節)
教会の指導者は教会全体を代表する存在でもあります。彼は教会外の人々にそれがどのような教会であるかという印象を与える立場にあるからです(「コリントの信徒への第一の手紙」10章32節、「コロサイの信徒への手紙」4章5節、「テサロニケの信徒への第一の手紙」4章12節)。

今まで述べてきたすべての事柄は「私たちが教会の信仰的な指導者たちのためにとりなしの祈りをするように」という奨励ととらえることもできます(「ローマの信徒への手紙」15章30〜31節、「エフェソの信徒への手紙」6章18〜20節、「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章25節)。

キリスト教会にはそこで奉仕するための特別な職務が最初から存在していました(「使徒言行録」14章23節、20章28節)。

「監督」(ギリシア語で「エピスコポス」)は本来、監察官や上司といった世俗の職務の名称でしたが、後には多くの言語で教会の指導者(英語のbishopなど)を意味するものとなりました。パウロの時代では「長老」と「監督」は等しく教会の指導者のことを意味していました(「使徒言行録」20章17、28節、「テトスへの手紙」1章5〜7節、「ペテロの第一の手紙」5章1〜2節)。

「長老」(ギリシア語で「プレスビュテロス」)は後に多くの言語で牧師のことを意味するようになりました(例えば英語のpriestなど)。

監督の使命は教会を指導して教えて説教することです(「テモテへの第一の手紙」3章2節、5章17節)。監督はあらゆる異端から教会を守らなければなりません(「使徒言行録」20章28〜31節)。

3章2〜3節にある牧師に要求される諸項目を読むと、最初の頃の諸教会が決して理想的な信徒の集まりではなかったことがわかります。かつてスウェーデンのビショップBo Giertzは最初の頃の教会員たちについて彼らがいわば「火の中から取り出した燃えさし」(「ゼカリヤ書」3章2節)であり、彼らのうちの多くの者にはまだかなり焦げた臭いが付着していたという言い方をしましたが、的確な評価だと思います。そういうこともあって、教会の指導者たちには、以前の自分たちの異教徒(非キリスト教徒)としての生き方との明確な訣別が要求されたのです。

ここでパウロはある意味では自明ともいえる事柄を牧師になる者からあえて要求していないことに注目しましょう。例えば牧師が信仰をもっていることや信仰について証する能力があることは当然のこととみなされています。ただし牧師がよく教えることができる人物であるべきことは要求項目に入っています(3章2節、「テモテへの第二の手紙」2章24節)。

原則として人は教会の指導者の職を自ら希望することができるとパウロは考えているようです(3章1節)。現代では牧師となる人は教会の職に(少なくとも形式的には)招聘されます。しかし実際には現代でも「牧師になりたい」と望む人が招聘を受けることになります。

「さらにまた、教会外の人々にもよく思われている人でなければならない。そうでないと、そしりを受け、悪魔のわなにかかるであろう。」 (「テモテへの第一の手紙」3章7節、口語訳)

この節の終わりの部分については二通りの解釈ができます。 第一の解釈は「牧師たちの中には悪魔の仕掛けた罠に陥る者が出てくる」というものです。第二の解釈は「牧師たちの中には悪魔と同じ裁きを受ける者が出てくる」というものです。これらを比べると第一の解釈がより適切であると思われます(6章9節、「テモテへの第二の手紙」2章26節。また「コリントの信徒への第一の手紙」10章32節も参考になります)。

教会の執事たちのもつべき特徴 「テモテへの第一の手紙」3章8〜13節

ディアコニア職員はギリシア語で「(食卓での)召使い」を意味していました。ディアコニアの職は「使徒言行録」6章の出来事に基づいて設定されました。ユダヤ教徒の会堂と同じように、最初の頃のエルサレムの教会は貧しい会員たちを経済的に援助するために献金を集めました。ところが「ギリシア語を話すやもめたちが経済支援においてなおざりにされている」とギリシア語を話す会員たちがヘブライ語を話す会員たちを批判するという事態が生じました。それを受けて使徒たちは七人のディアコニア職員を任命したのです。彼らのうちで最も有名になったのがステパノでした。

「執事」(ディアコニア職員)に要求される項目は多くの点で「監督」(牧師)に対する要求項目と似ています。

ディアコニア職員は私益をかすめようとすればそれができてしまう立場にありました(3章8節)。それゆえディアコニア職員はそのような罪を犯さないような人物でなければなりませんでした。

二枚舌を使わない(3章8節)というのは同じ事柄について二つの異なるうわさ話を流布してはいけないという意味です。教会員たちの家々でディアコニア職員たちはさまざまな事柄を耳にする機会があったため、他人の悪口を言わないように自制できなければ、逆に悪いうわさ話を拡散してしまう首謀者にもなりえたのです(3章11節)。

「きよい良心をもって、信仰の奥義を保っていなければならない。」
(「テモテへの第一の手紙」3章9節、口語訳)

上節の「信仰の奥義」とは福音、そしてキリストのことです(3章16節、「コロサイの信徒への手紙」2章2節。また「マタイによる福音書」13章11節、「ローマの信徒への手紙」11章25節、「コリントの信徒への第一の手紙」2章6〜10節、4章1節、15章51節も参考になります)。

「彼らはまず調べられて、不都合なことがなかったなら、それから執事の職につかすべきである。」
(「テモテへの第一の手紙」3章10節、口語訳)

監督(牧師)が任命前に吟味されたように、執事(ディアコニア職員)も吟味されなければなりません。この審査は執事には仮採用の期間があったという意味ではなく、これから教会の職務を担う者の人となりについて教会は具体的な経験を通してあらかじめ十分に把握していなければならないという意味です。

「女たちも、同様に謹厳で、他人をそしらず、自らを制し、すべてのことに忠実でなければならない。」
(「テモテへの第一の手紙」3章11節、口語訳)

ギリシア語で「他人をそしる者」は3章6、7節の「悪魔」と同じく「ディアボロス」です。この言葉は元々は「非難する者」や「他人の悪口を言う者」や「密告する者」を意味していました。神様の敵とはまさにこのような者であり、私たちを神様の御前で責め立てて神様の愛から引き離そうとします。

上掲の節は二つのやりかたで解釈できます。第一に「女たちとは執事たちの妻たちを意味している」とする解釈です。第二に「女たちとは女性の執事を指している」という解釈です。ギリシア語原版の新約聖書ではたんに「女たち」とのみ記されています。

3章の冒頭では監督の妻たちについての記述が一切ありません。それなのにどうして執事たちの妻たちについての記述はあるのかという自然な疑問が湧いてきます。パウロは「ローマの信徒への手紙」の最後の箇所でケンクレヤにある教会の女性執事フィベに挨拶を送っています(「ローマの信徒への手紙」16章1節)。すなわち執事たちの中には女性もいたのです。

「テモテへの第一の手紙」3章11節の「女たち」は執事たちの妻たちを意味していると考える人々は「テモテへの第一の手紙」5章1〜16節が教会に存在した女性の職務すなわち「やもめ」について述べている箇所であると考えます。

「執事はひとりの妻の夫であって、子供と自分の家とをよく治める者でなければならない。」
(「テモテへの第一の手紙」3章12節、口語訳)

この節には「執事はひとりの妻の夫」でなければならないと述べられています。当時の世界では「ひとりの妻に複数の夫がいる」という考え方はきわめて奇妙であると言わざるをえません。それゆえこの節は一夫一婦の婚姻関係にある男性執事のみを対象としたものであると考えることができます。

「執事の職をよくつとめた者は、良い地位を得、さらにキリスト・イエスを信じる信仰による、大いなる確信を得るであろう。」
(「テモテへの第一の手紙」3章13節、口語訳)

信仰はそれを活用するときにこそ成長するものであることをこの節は保証しています。信仰は実生活の中でこそ鍛錬されていくべきものなのです。

「良い地位を得」るとは、執事の職をよくつとめた者たちが現在より高い職務に出世することではなく、彼ら自身が信仰者として前よりも高く評価されるような地位を得るようになることを意味しています。

信仰の奥義 「テモテへの第一の手紙」3章14〜16節

「万一わたしが遅れる場合には、神の家でいかに生活すべきかを、あなたに知ってもらいたいからである。神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである。」
(「テモテへの第一の手紙」3章15節、口語訳)

この節は牧会書簡の目指すものを標語的に表現しています。

古典古代の手紙ではほとんどの場合「受け取り手のところにすぐにでも行きたい」という手紙の送り手の希望が書き添えられています(3章14節)。エフェソへの旅が実現しない夢のままで終わるか、あるいは少なくとも自分が希望していた計画よりも遅れるかもしれないと思っていたにもかかわらず(4章15節)、パウロはエフェソに行けるという希望をまだ捨ててはいませんでした(4章13節)。

「神の家」の「家」とはギリシア語で「オイコス」といい「部屋」あるいは「部屋(すなわち家)に住んでいる家族」を意味しています。ですから「神の家」は「神の家族」と訳することもできます(「ガラテアの信徒への手紙」3章26〜29節も参考になります)。

パウロは教会を「神の家」と呼んでいます。この建物を構成しているのはキリスト信仰者たちです(「コリントの信徒への第一の手紙」6章19〜20節、エフェソ2章19〜22節)。

教会は世俗的な組織ではなく神様の御業であることを私たちは覚えておく必要があります。

「生ける神」(3章15節)の反対の言葉は「死んだ神」すなわち偶像です。預言者イザヤは偶像製作者たちを嘲っています。彼らの作った偶像は聞くことも見ることもできないからです(「イザヤ書」44章9〜20節)。それに対して聖書の神様は私たちの祈りを聴いて応答してくださる活ける神です(「ヨシュア記」3章10節、「使徒言行録」14章15節、「コリントの信徒への第二の手紙」6章16節、「テサロニケの信徒への第一の手紙」1章9節)。

「柱」(3章15節)はエフェソの人々にアルテミス神殿の18メートルもある百本の柱を想起させたことでしょう。しかし福音こそが教会を築き上げる土台や基礎(「エフェソの信徒への手紙」2章20節)であって、教会は「真理の柱」(3章15節)なのです。神様は教会をこの地上で御自身の真理が見出される場所となさいました。教会は「真理がどういうものであるべきか」を定義する場ではありません。教会は自分が神様からいただいたものをしっかりと受け継いで宣べ伝えていく場なのです。

「確かに偉大なのは、この信心の奥義である、
「キリストは肉において現れ、
霊において義とせられ、
御使たちに見られ、
諸国民の間に伝えられ、
世界の中で信じられ、
栄光のうちに天に上げられた」。」
(「テモテへの第一の手紙」3章16節、口語訳)

キリストは「信心の奥義」でありその奥義が何であるかを明らかになさるお方でもあります(「ローマの信徒への手紙」16章25節)。

「奥義」(ギリシア語で「ミュステーリオン」)はパウロがしばしばキリスト教信仰について用いた表現です(「ローマの信徒への手紙」11章25節、16章25節、「コリントの信徒への第一の手紙」2章7節、4章1節、13章2節、14章2節、15章51節、「エフェソの信徒への手紙」1章9節、3章3〜4、9節、5章32節、6章19節、「コロサイの信徒への手紙」1章26〜27節、2章2節、4章3節、「テモテへの第一の手紙」3章9節、「テサロニケの信徒への第二の手紙」2章7節(「不法の秘密の力」))。

上掲の節でパウロが引用している讃美はおそらく当時の礼拝で歌われたものだったのでしょう。

この讃美にはキリストが人としてこの世にお生まれになる以前からすでに神様として存在しておられたことを示唆する表現(「キリストは肉において現れ」)が含まれていることに注目しましょう。次の「フィリピの信徒への手紙」の箇所にはこのことが明確に述べられています。

「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」
(「フィリピの信徒への手紙」2章6〜8節、口語訳)。

「テモテへの第一の手紙」3章16節の讃美は三つの詩節から構成され、各々の詩節は二つの行からなっています。

もしもこの讃美の詩の内容が時間的順序に従って歌われているものだとすれば、 最後の行の「栄光のうちに天に上げられた」という表現はイエス様の再臨を指していることになるのでしょうが、それはやや不自然な解釈に思われます。

むしろここでは信仰の中心的な事柄について天と地の視点から歌い上げられていると捉えたほうが適切であると思われます。

「霊において義とせられ」というのはキリストが義であることを御霊が明らかになさるという意味です。人間とその理性はイエス様のうちに死する普通の人間しか見ることができません。しかし御霊はイエス様が神様の義なる御子としてキリスト信仰者たちを義とされることを明らかにしてくださるのです(「ローマの信徒への手紙」1章2〜5節、「ペテロの第一の手紙」3章18節)。

「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。」
(「ローマの信徒への手紙」4章25節、口語訳)

讃美に出てくる「御使たち」(「テモテへの第一の手紙」3章16節)はイエス様の復活(「マタイによる福音書」28章2節)と昇天(「使徒言行録」1章10節)の出来事の場にいてそれらが真実であることを証しています。

また「諸国民の間に伝えられ」とあるように、福音はすべての諸国民に宣べ伝えられていくために与えられているものです。