テモテへの第一の手紙6章 職務を忠実に果たすことへの奨励

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

奴隷と主人 「テモテへの第一の手紙」6章1〜2節

「くびきの下にある奴隷はすべて、自分の主人を、真に尊敬すべき者として仰ぐべきである。それは、神の御名と教とが、そしりを受けないためである。信者である主人を持っている者たちは、その主人が兄弟であるというので軽視してはならない。むしろ、ますます励んで仕えるべきである。その益を受ける主人は、信者であり愛されている人だからである。あなたは、これらの事を教えかつ勧めなさい。」
(「テモテへの第一の手紙」6章1〜2節、口語訳)

自分の主人がキリスト信仰者である奴隷たちは主人も自分も共通の信仰をもっているという理由で自分を特別扱いしてくれるよう主人に要求する誘惑に駆られました。しかしパウロは彼らがむしろ以前よりも熱心に自分の主人たちに仕えるようにと奨励しました。またキリスト信仰者である奴隷たちはキリスト信仰者ではない主人たちをも敬わなければなりません。こうすることによって奴隷たちは神様についてと自らの信仰についてよい証をすることになるからです。現代と同じように当時も教会に属さない人々はキリスト信仰者たちの生き方を観察することを通じて神様について様々なことを理解したつもりになる傾向があります(「ローマの信徒への手紙」2章24節、「イザヤ書」52章5節も参考になります)。

「くびき」は聖書では下に押しつける重い何かを一般的にあらわしています(「歴代志下」10章4節、「イザヤ書」9章3節(口語訳では4節)、47章6節)。イエス様は御自分に従ってくる者たちに対して負いやすいくびきと軽い荷を与えることを約束してくださいました(「マタイによる福音書」11章29〜30節)。

上掲の箇所の最後の部分はいろいろな解釈ができます。例えば「彼らの益を受ける主人は信仰者であり神様に愛されているからである」とか「自分が神様に愛されていることを知っているキリスト信仰者である主人は自分の奴隷に対しても多くの良いことを行うからである」とか「神様に愛されている信仰者とは他の人々に良いことを行おうと努める者だけだからである」などという解釈です。要するにパウロはこの箇所で奴隷の主人たちにも指示を与えていると考えることもできるということです(「エフェソの信徒への手紙」6章5〜9節、「コロサイの信徒への手紙」3章22節〜4章1節も参考になります)。

「パウロや最初の頃のキリスト信仰者たちが奴隷制の廃止を断固とした態度で要求するどころか、むしろこの制度の存続を容認しているようにさえ見えるのはどうしてなのか」という問いかけが今までなされてきました(「コリントの信徒への第一の手紙」7章17〜24節も参考になります)。

ローマ帝国にはおよそ五千万人の奴隷がいたと推定されています。ローマ社会の全体が奴隷制によって支えられ成り立っていたのです。首都ローマのおよそ百五十万人の住民のうちの七割は奴隷が占めていました。ですから奴隷制を突然廃止したならばローマ社会全体に非常な混乱が生じたことでしょう。

実は奴隷解放は奴隷自身に常に良い結果をもたらすとはかぎりませんでした。主人たちは年老いた奴隷たちを解放しましたが、それは彼らを扶養する義務を免れるためでもありました。解放された奴隷たちはしばしば無一文のまま放り出されたのです。

キリスト教の信仰が社会を大きく変えた結果、奴隷制はその精神的な基盤を失い廃止されていくようになりました。「ガラテアの信徒への手紙」3章26節に加えて次の箇所も参考になります。

「そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。」
(「コロサイの信徒への手紙」3章11節、口語訳)

偽りの富と正しい富 「テモテへの第一の手紙」6章3〜10節

6章2節の最後の言葉「あなたは、これらの事を教えかつ勧めなさい。」は1〜2節に結びつけることもできるし、3〜10節に結びつけて理解することもできます。テモテには正しいキリスト教の教義を教会員たちに教える義務がありました(1〜2節)。またテモテは偽りの教義に対して沈黙していてはいけないのです(3〜10節)。

「もし違ったことを教えて、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教に同意しないような者があれば、」
(「テモテへの第一の手紙」6章3節、口語訳)

福音はただ一つしかありません(「ガラテアの信徒への手紙」1章6〜9節)。それゆえ福音について違うことを教える者は異端教師だということになります(「テモテへの第一の手紙」1章3〜7節、4章1〜5節、6章20〜21節)。

正しい教義は福音から出てくるものです。「私たちの主イエス・キリストの健全な言葉」とは福音書やイエス様の特定の御言葉集のことではなく福音全体を意味しています。パウロはこの箇所で彼自身がエフェソで提示したキリスト教の教義のことを示唆しているという説も提案されています(「コリントの信徒への第二の手紙」13章3節、「テサロニケの信徒への第二の手紙」3章6、12節。「ルカによる福音書」10章16節、「使徒言行録」1章1〜2節も参考になります)。

正しい教義は人々を縛る「足枷」ではなく、真摯なキリスト信仰者を罪の圧制の下から自由な信仰生活へと解放してくれるものです(「ヨハネによる福音書」8章36節)。

「彼は高慢であって、何も知らず、ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である。そこから、ねたみ、争い、そしり、さいぎの心が生じ、また知性が腐って、真理にそむき、信心を利得と心得る者どもの間に、はてしのないいがみ合いが起るのである。」
(「テモテへの第一の手紙」6章4〜5節、口語訳)

偽りの教師たちの特徴としては次の三つを挙げることができます。

A)論議と言葉の争いとに病みついていて教会内に分裂を引き起こす。
B)かつては正しい信仰をもっていたが真理にそむき捨ててしまった。
C)真理よりも金銭を愛してしまった。

「いがみ合い」を異端への警告と混同するべきではありません。教会が理想とする態度は何であれすべて追認してしまうことではなく、教会が正しい教義に自らをしっかり結びつけることです。

いともたやすく宗教は人が裕福になるためのたんなる手段になり下がってしまうものです。アメリカのテレビに登場した多くの説教者たちがその実例です。パウロの時代のエフェソではアルテミスの神殿のミニチュアがよく売れていました。ところがエフェソでキリスト教が広がっていくにつれてその売れ行きが落ち込んでしまったため、アルテミス崇拝を金稼ぎの手段にしていた者たちはキリスト教という新たな宗教の伝道活動を妨げようとしました(「使徒言行録」19章23〜41節)。

パウロは「エフェソの信徒への手紙」で「貪欲」について警告しています(「エフェソの信徒への手紙」5章3節)。異教の宗教性のもたらすこの悪習がエフェソのキリスト信仰者たちのことも脅かしていたようです。

パウロは教会の援助に頼ることなく自分の手で生活に必要な収入を稼いでいたことを誇りとしていました(「使徒言行録」20章32〜35節、「コリントの信徒への第二の手紙」2章17節、11章7〜21節、12章13〜18節、「テサロニケの信徒への第一の手紙」2章5節)。

しかしこのことは誤解も生みました。「パウロは使徒ではないから生活費を教会から要求する勇気がなかったのだ」という言いがかりをつける者たちが出てきたのです(「コリントの信徒への第二の手紙」11章7節)。このような非難を受けたにもかかわらずパウロは天幕造りで生計を立てる福音伝道師の生き方をやめはしませんでした(「使徒言行録」18章1〜5節)。

「しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。」
(「テモテへの第一の手紙」6章6節、口語訳)

信仰は富の源です。しかしそれはこの世的な富ではなくて天国的な富の源です。

「わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。」
(「テモテへの第一の手紙」6章7節、口語訳)

人は何も持たずにこの世に生まれ、同じく何も持たずにこの世から去っていきます(「ヨブ記」1章21節)。死んだ人がこの世にどれだけのものを残したのか考えてみましょう。その答えは富者も貧者も等しく「全部」です。この世から去る時には誰も何も携えて行くことはできません(「詩篇」39篇7節、49篇18節、「伝道の書」5章14節も参考になります)。

「金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。」
(「テモテへの第一の手紙」6章10節、口語訳)

ここで問題視されているのは金銭自体ではなく金銭欲であることに注意するのが大切です。金銭は現代社会では必要不可欠な交換手段なので、金銭との関係をまったくなくすることはできません。ある神学者が言ったように「この世の信仰告白」は「もっと多く!」です。金銭は麻薬に似たところがあります。しだいにもっと多くの量が欲しくてしかたがなくなり、しかもそれでも満足できなくなってしまうのです。金銭の後を追いかけ回すのは塩水を飲み続けることに似ています。飲めば飲むほど喉の渇きを覚えるようになるのです。

聖書には金銭欲で身を滅ぼした人々の例が数多く記されています。アカンは自身の金銭欲のせいでイスラエルの民全体に深刻な問題を引き起こしました(「ヨシュア記」7章)。イスカリオテのユダは銀貨三十枚の代価としてイエス様を敵に売り渡しました(「マタイによる福音書」26章14〜16節)。アナニヤとその妻サッピラは自らの強欲のせいで神様から死刑の裁きを受けることになりました(「使徒言行録」5章1〜11節)。

上掲の節のはじめの部分(「金銭を愛することは、すべての悪の根である」)は翻訳する上で若干の問題を含んでいます。「すべての罪は金銭欲から生じている」とも受け取れますが、パウロはそのようには考えていなかったからです(「ガラテアの信徒への手紙」5章17〜21節と比べてください)。むしろ「金銭欲は諸悪の根源である」と訳した方がパウロの本来の考えに近いでしょう。

人はいともたやすく創造主の代わりに被造物のほうを崇拝するようになりやすいということを上掲の節は私たちに思い起こさせます。

今まで扱ってきた「テモテへの第一の手紙」6章3〜10節は、神様の御国では金銭の使用について公表されるべきであることを教えています。隠された口座などがあってはならないのです。

避けるべきことと追い求めるべきこと 「テモテへの第一の手紙」6章11〜16節

「しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。そして、義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい。」
(「テモテへの第一の手紙」6章11節、口語訳)

信仰生活では避けなければならない事柄もあるし、追い求めなければならない事柄もあります。生活では悪い事柄を捨て去るだけでは十分ではありません。悪い事柄が人間の生活をふたたび左右するようにならないために良い事柄によってそれを満たすべきです(「マタイによる福音書」12章43〜45節も参考になります)。

「神の人」とはここではテモテのことを指しています(6章20節と比べてください)。「神の人」は例えば旧約聖書の次の人物たちについて用いられた尊称です。

モーセ(「申命記」33章1節、「ヨシュア記」14章6節、「歴代志上」23章14〜15節、「詩篇」90篇1節)。
サムエル(「サムエル記上」9章6節)
ダビデ(「ネヘミヤ記」12章24、36節)
預言者シマヤ(「列王記上」12章22節)
エリヤ(「列王記上」17章18節、「列王記下」1章9節)
エリシャ(「列王記下」4章7節)
レカブびとハナン(「エレミヤ書」35章4節)
名前のわからない三人の預言者(「サムエル記上」2章27節、「列王記上」13章1〜3節、「歴代志下」25章7節)

新約聖書で「神の人」という表現がみられるのは上掲の節以外では「テモテへの第二の手紙」3章17節だけです。そこではこの言葉はキリスト信仰者たち一般を指しています。

「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。」
(「テモテへの第一の手紙」6章12節、口語訳)

私たち人間がこの世で完全には実現できないような事柄を要求してくるキリスト教的な教えがしばしば見受けられます。非の打ちどころのない生き方、完璧な信仰生活などがその例です。むしろ私たちはそれ自体としては望ましいそれらの事柄をこの世では十分実現できないことをきちんと自覚しつつ、いくらかでも実現していくために主からの招きを受けていると考えるべきでしょう。

いくら熱心に競争したとしてもゴールに辿り着けないのであれば意味がありません(「コリントの信徒への第一の手紙」9章24〜27節、「ヘブライの信徒への手紙」12章1節。「ルカによる福音書」13章24節、「ヘブライの信徒への手紙」10章32節も参考になります)。

キリスト教信仰は永遠の命への招きであると言えます(「使徒言行録」13章46〜48節)。他の箇所でもパウロは神様が人々を御国に招いておられることを強調しています。救いは神様の御業であり人間の行いではありません(「ローマの信徒への手紙」8章30節、「コリントの信徒への第一の手紙」1章9〜10節、「ガラテアの信徒への手紙」1章6節、「テサロニケの信徒への第一の手紙」2章12節)。

上掲の節にある「あかし」とは人が洗礼を受ける時に告白したキリスト教の信条を指しているか(「ローマの信徒への手紙」10章9〜10節)、あるいは(このほうがより真実に近いと思われますが)、テモテが福音宣教者の職務に任命され按手を受けた時に自ら口頭で告白した信条を指している(「テモテへの第一の手紙」4章14節、「テモテへの第二の手紙」1章6節)とも考えることができます。

「わたしはすべてのものを生かして下さる神のみまえと、またポンテオ・ピラトの面前でりっぱなあかしをなさったキリスト・イエスのみまえで、あなたに命じる。」
(「テモテへの第一の手紙」6章13節、口語訳)

「ポンテオ・ピラトの面前で」は使徒信条のものと同じです。イエス様はポンテオ・ピラトの面前で御自分がメシアであることをあかしなさいました(「ヨハネによる福音書」18章33〜37節、19章10〜11節)。

「わたしたちの主イエス・キリストの出現まで、その戒めを汚すことがなく、また、それを非難のないように守りなさい。」
(「テモテへの第一の手紙」6章14節、口語訳)

「イエス・キリストの出現」とはイエス様の再臨のことです(「テモテへの第二の手紙」4章1、8節)。「出現」(ギリシア語で「エピファネイア」)は一般的にキリスト教会ではイエス様が人としてこの世にお生まれになった最初のクリスマスの出来事を指しています。「エピファネイア」は顕現主日(1月6日)のギリシア語の名称です。

「時がくれば、祝福に満ちた、ただひとりの力あるかた、もろもろの王の王、もろもろの主の主が、キリストを出現させて下さるであろう。」
(「テモテへの第一の手紙」6章15節、口語訳)

「祝福に満ちた」とはギリシア語で「マカリオス」といい「救いのさいわいに満ちた」とも訳せるものです。

神様は「もろもろの王の王、もろもろの主の主」です(「申命記」10章17節、「ダニエル書」2章47節、「ヨハネの黙示録」17章14節、19章16節。「詩篇」136篇2〜3節も参考になります)。

「時がくれば」という表現には特定の時間の指定がなされていないことに注目しましょう。キリストの再臨の正確な時について御存じなのは神様だけです(「使徒言行録」1章6〜7節)。

これと対照的なのがイエス様の生誕について述べている次の「ガラテアの信徒への手紙」の箇所です。

「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。」
(「ガラテアの信徒への手紙」4章4節、口語訳)

「神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。ほまれと永遠の支配とが、神にあるように、アァメン。」
(「テモテへの第一の手紙」6章16節、口語訳)

神様を見ることはできません(「出エジプト記」33章20節)。しかしイエス様が神様を啓示してくださったので、私たちは神様について私たちの救いに必要な程度までは知ることができるようになりました(「ヨハネによる福音書」1章18節)。

6章15〜16節の神様への讃歌が7行の文で構成されていることは偶然ではないでしょう。7はユダヤ人にとって完全な数です。この讃美は当時の礼拝式文からの引用であると思われます。

旧約聖書の神様と新約聖書の神様は同じ神であることをこの箇所が強調していることに注目しましょう。それとは異なりグノーシス主義は旧約聖書の神が至高の神ではなく半神的な存在にすぎないと教えました。

富の危険 「テモテへの第一の手紙」6章17〜19節

「この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、」
(「テモテへの第一の手紙」6章17節、口語訳)

初期の教会のキリスト信仰者たちのうちの大多数は貧しい人々でしたが、この節は教会には経済的に余裕のある会員たちもいたことを明かしています。富裕者たちもキリスト教を信じるようになったからです(「ヤコブの手紙」1章9〜11節、2章1〜4節、5章1〜6節。「ローマの信徒への手紙」12章16節)。

人は富のおかげで自分が神様から離れても自立できると思い込み傲慢になる危険があります(「申命記」8章14節、「エゼキエル書」28章5節)。しかし富は一晩で消え失せることもありうるような儚いものにすぎません(「箴言」23章5節、「マタイによる福音書」6章19〜21節)。人間は朽ちる物などにではなく活ける神様にこそ信頼を寄せるべきなのです(「エレミヤ書」9章23〜24節)。

神様は高慢な者に敵対し、へりくだる者には恵みを与えられます(「箴言」3章34節)。神様は高慢な者に敵対なさいます。高慢さには「自分は神様に依存しないで独立して生きている」という考えが結びついているからです(「ローマの信徒への手紙」11章20節)。

「また、良い行いをし、良いわざに富み、惜しみなく施し、人に分け与えることを喜び、」
(「テモテへの第一の手紙」6章18節、口語訳)

富はそれ自体としては悪いものではありません。問題なのは富に対する私たち人間の態度です。もしも富を他の人たちを助けるために用いたいと思うのなら、私たちは惜しみなく豊かに分け与えてくださる神様の御意思に従っていることになります(「ローマの信徒への手紙」10章12節。「エフェソの信徒への手紙」1章7〜8節、「フィリピの信徒への手紙」4章19節、「ヘブライの信徒への手紙」13章15〜16節も参考になります)。

人は自分が神様からいただいた賜物や持ち物の管理者にすぎないことをわきまえるべきです(「ルカによる福音書」16章10〜11節も参考になります)。私たちは何かを携えてこの世を離れることはできません(「テモテへの第一の手紙」6章7節)。

絶えることなく持続する希望は物ではなく神様のみに基づくものでしかありえません(6章17節、「テモテへの第二の手紙」1章9〜10節)。

「また、良い行いをし、良いわざに富み、惜しみなく施し、人に分け与えることを喜び、こうして、真のいのちを得るために、未来に備えてよい土台を自分のために築き上げるように、命じなさい。」
(「テモテへの第一の手紙」6章18〜19節、口語訳)

人は自分の持ち物を分け与えることによって神様の御国に宝を積むことになります(「マタイによる福音書」6章19〜24節、「ルカによる福音書」12章16〜21節)。しかし私たちの宝がこの世的なものであるならば、私たちの心も神様にではなくこの世に執着していることになります(「ルカによる福音書」12章33〜34節)。

「真のいのち」とは永遠のいのちのことです(6章12節)。

神様が与えてくださるこの世での賜物とのかかわりにおいてキリスト信仰者を脅かす次の四つの危険が存在します。

a. 金銭へのまちがった信頼をおく物質主義(6章17節)
b. 神様からの賜物を受け入れることを拒否する禁欲主義(4章3節)
c. 金銭欲(6章10節)
d. 利己主義(6章5節)

これらとは正反対のものとしてパウロは賜物に対する次の四つの正しい態度を提示しています。

a. 単純な生き方(6章8節)
b. 神様からの賜物に感謝する心(4章4節)
c. 神様からいただくもので満足する心(6章8節)
d. 気前の良さ(6章18節)

あなたにゆだねられていることを守りなさい 「テモテへの第一の手紙」6章20〜21節

「テモテよ。あなたにゆだねられていることを守りなさい。そして、俗悪なむだ話と、偽りの「知識」による反対論とを避けなさい。」
(「テモテへの第一の手紙」6章20節、口語訳)

キリスト教信仰は神様が私たちに啓示してくださったことに依拠していることをパウロは強調しています。ですからテモテは神様から啓示されたことをしっかり守らなければならないのです。復活されたキリストは「ヨハネの黙示録」でテアテラの教会とフィラデルフィア(口語訳では「ヒラデルヒヤ」)の教会に対しても同じように命じられました。

「知識」はギリシア語で「グノーシス」といい、グノーシス主義という異端の名称の由来となっています。

「ある人々はそれに熱中して、信仰からそれてしまったのである。
恵みが、あなたがたと共にあるように。」
(「テモテへの第一の手紙」6章21節、口語訳)

異端の教師たちがまさしく教会の内側から出現してきたことに注目しましょう。かつてパウロが第三次伝道旅行の際にエフェソの教会の指導者たちへの別離の挨拶で予言していた通りのことが起きたのです(「テモテへの第一の手紙」1章6節も参考になります)。

「どうか、あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである。わたしが去った後、狂暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒すようになることを、わたしは知っている。」
(「使徒言行録」20章28〜29節、口語訳)

「テモテへの第一の手紙」は「恵みが、あなたがたと共にあるように」という言葉で閉じられますが、手紙の受け取り手は「あなたがた」という複数形になっています。古典古代の手紙の中には個人宛のものであるのに終わりの挨拶は複数形の宛名になっているものが他にも知られています。この手紙を書いた時、パウロはテモテだけではなくエフェソの教会全体のことも念頭においていたのだと思われます。パウロからの挨拶を教会全体に対して伝えるためにこの手紙は教会の礼拝でも朗読されたものと思われます。

(終わり)