ヨハネによる福音書11章 死んでいる者と生きている者

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

6章でイエス様は、まず何千人もの人々に食べ物を分け与え、それから命のパンについて話し始められました。9章でイエス様は、目の見えない人の目を癒し、それから霊的な盲目さについて語られました。今ここで扱う箇所でイエス様は、ラザロを死者の中からよみがえらせました。しかし、それはたんに死者の中からの復活という奇跡に留まるものではありません。この箇所で私たちは、命とは何か、死とは何か、誰が活きており、誰が死んでいるのか、という問題を考えなければならなくなります。

意図的な遅延 11章1~10節

ラザロが重い病気だと聞いたイエス様は、しかしすぐには行動を起こさずに、意図的に出発を遅らせました。ここに、この章の核心が示されています。その核心とは、死者の中からの復活の奇跡だけではありませんでした。一連の出来事の真の狙いは、神様の御子の栄光をあきらかにすること、すなわち、イエス様の真のお姿を示すことにありました。それゆえ、ラザロのことを悲しむ人々は待ちぼうけをくらい、その間にラザロは死んでしまいます。

弟子たちは、イエス様がエルサレムの地方に出向かれようとするのを見て、不思議がります。イエス様は、ついこの間エルサレムであやうく殺されかけたばかりだからです。ここでもイエス様は、目の見えない男の人を癒された時に彼に言われたのと同じ内容を、御自分の活動の根拠として繰り返しておられます(9章4~5節)。それは、人が働くことができる時には限りがあり、いつかかならず人生の黄昏が来て、人はもはやよい働きができなくなる、ということです。このことは、とりわけイエス様に当てはまります。イエス様には、この世での使命がありましたが、それは限られた期間内に終了しました。イエス様はその間、危険を避けたりせずに活動を継続しなければなりませんでした。   

「ラザロは死んだのです」 11章11~16節

ラザロはベタニヤで息を引き取りました。それを合図とするかのように、イエス様は出発なさいました。「ヨハネによる福音書」では何度も繰り返されたことですが、弟子たちはまたしてもイエス様の言われたことを誤解します。はじめに、彼らは「眠っている」ラザロを介抱するつもりでいました。つぎには、弟子のトマスが、イエス様と一緒なら殉教さえ辞さない、という覚悟を口にします。どちらの場合も、弟子たちは善意からそう言っています。しかし、大いなる神様の御計画は、彼ら弟子たちにはまったく測り知れないことだったのです。

マルタの信条告白 11章17~27節

ラザロの姉妹を慰め共に悲しむ人々の一群で、死者の家はひしめいていました。

イエス様はまずマルタと対話されました。今までも見てきたように、「ヨハネによる福音書」では「信仰」という言葉に非常に多様な意味が込められています。人々はイエス様を「信じ」ますが、一方では、キリストが現れた時にはこのイエス様よりも多くの奇跡を行うのだろうか、などと不思議がったりもしています。大抵の場合、イエス様の対話の相手は話のポイントを理解することができません。先ほど見た弟子たちの無理解にもそれはよくあらわれています。

それとはちがって、ここでのマルタの信仰告白は模範的で美しいものです。まずマルタは、イエス様は奇跡を行うことができる、という信仰を告白します。イエス様は病気のラザロを癒すこともできるし、さらには死んだラザロを今でもよみがえらせることができる、と彼女は信じています。こう言った後でマルタは、最後の日に起こる死者の復活へのゆるぎない信仰を告白します。対話のしめくくりとして、イエス様の決定的な質問が飛んで来ます。心臓の鼓動や呼吸によってではなく、イエス様との絆を通して、人は命と復活を得ます。その意味で、命と復活の問題は、人がイエス様のペルソナにぴったり寄り添っているかどうか、という問題でもあるのです。

マルタは、神様が霊的な盲目さを取り除いてくださった人々の中の一人でした。彼女はイエス様の栄光をはっきりと見ました。「信じます、主よ、私は信じます、あなたがこの世に来られるはずのメシアであり、神様の御子であられることを」。

このように、マルタとイエス様の対話は、命と死の問題を正しい順序に整えます。ラザロが死んで墓に横たわっているのは悪いことではありません。彼には何も悪いことが起きたわけではないのです。キリストを拒絶する時にこそ、人は不幸になります。

退く死の支配 11章28~44節

「ヨハネによる福音書」において、死者の中からのラザロの復活の描写は、独特であり見事です。ラザロの墓の傍らには、実に恐るべき死の支配があらわれています。それと同時に、人間と神様との間の大きな違いもまた明らかにされています。悲しみに駆られた人々は、ラザロが死んだという、この世での出来事を悲嘆しています。ラザロの墓の傍らでイエス様が泣き出された時、その場の人々は、イエス様はラザロの死をやるせなく悲しんでいる、と思いました。実はイエス様は、死と暗闇が人間の心を支配していることと、周囲にいた人々の不信仰について泣いておられたのです。イエス様は、御自分のためには、死者からの復活という奇跡を行う必要はありませんでした。それを必要としていたのは、命のことも死のことも実はわかっていない、イエス様を取り囲んだ人々だったのです。死者が墓からよみがえる時、人は誰でも神様の真理の深淵を覗き込む機会を与えられます。その真理とは、「キリストは命をこの世にもたらすために天の御父様が遣わした方なので、死の支配はキリストの傍らでは崩れ去っていく」、ということです。この出来事には他にも大切な点があります。それは、イエス様が驚愕されたことと、泣き出されたことです。イエス様が十字架にかかり、普通の人間が死ぬのと同じように苦しみながら死んでいかれたことは、すでに「ヨハネによる福音書」が書かれた時代でも、多くの人の心を傷つけるようなことがらでした。たとえば、「実はイエス様は身体を持たないたんなる霊のような存在だったので、苦しむこともなく、まして死ぬようなことはなかったのだ」、という説明を施すことで当時の人々を躓かせるこうした問題点を回避する試みもなされました。   「ヨハネによる福音書」でも、他の三つの福音書でも、こうした合理化の試みの跡は微塵もありません。私たちが福音書で出会うのは、戦い苦しまれるイエス様、痛みと病気を知悉しておられる方です。この箇所で死者とそれを取り囲む人々の無理解を見て泣かれるお姿は、こうしたイエス様を美しく描き出しているといえるでしょう。

殺害計画 11章45~57節

イエス様のなさった最大の奇跡、死者の復活は、人々の間に驚きと信仰を与えただけではありません。まさにこの奇跡は、あるグループにあることを実行に移す決断を下すきっかけともなったのです。ユダヤ人の意志最高決定機関である大議会が召集され、「どのような犠牲を払うことになろうとも、イエスの活動を阻止しなければならない」、と決議しました。

暗闇に覆われた状況下でも、神様の御霊が働いておられます。イエス様の敵対者たちの悪意にみちた言葉の中にも、神様の御計画が隠されています。大祭司カヤパの悪行も、神様が彼を通して語られるのを妨げることはできません。カヤパが言ったとおりに、他の誰も死ぬ必要がなくなるために、一人が死ぬことになるのです。しかも、この死は、イスラエルの民だけではなく、全世界の人々にも関係があるのです。今や決定が下されました。最後の派手な幕切れまでの準備がすべて整いつつありました。「イエス殺害計画」が立てられたのです。次章からは、イエス様の歩まれた受難の出来事が記述されていきます。