ヨハネによる福音書21章 あとがき

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

「ヨハネによる福音書」の最初の形は、20章で終わっていたと推定されます。これから扱う21章は、それに少し遅れて付け加えられた「あとがき」ですが、この部分もまた、福音書と同じ確実な伝承に基づいていることには違いがありません。この章のすべてのシーンにおいて、イエス様の最愛の弟子が中心的な役割を担っています。また、この21章は、「ヨハネによる福音書」のすべての写本に含まれています。ということは、「ヨハネに世よる福音書」が公けに幅広く読まれるために多くの写本(福音書のコピー)が作られるよりも以前に、この21章が書かれていたのは確実だ、ということになります。この意味で、この章は非常に古く、福音書の本来の一部分だと言えるのです。

漁をする使徒たち 21章1~14節

この箇所がどの時期に位置するものか、はっきりと特定するのは難しいですが、未だ弟子たちがイエス様の復活について確信がもてないまま 、混迷の中にいた時期であった、と推定するのが最も自然に思えます。このように考えると、弟子たちが漁に出るというのは、以前にイエス様から受けた使命を否定することを意味しています。「イエス様は墓にいるので、もはやイエス様につき従うことはできなくなった」、と考えた弟子たちは、使徒の職務の代わりになる新しい職業を探したのでしょう。そして、もちろんまず初めに頭に浮かんだのが元の職業、漁師でした。この箇所における、まるで物語の中の出来事のような大漁や、岸でのイエス様と共に過ごした夢うつつのひと時は、弟子たちがイエス様の弟子としての自覚を取り戻す、大切な意味をもっていました。153匹という魚の数には、おそらく何らかの象徴的な意味があり、キリストのみわざがあらゆる国民に関わるものであることを指しているものと推測されます。ただし、今まで提案されてきた幾多の解き明かしのうちで十分な説得力をもっているものは見当たらないようです。先ほどまで揺れ動いていた弟子たちの気持ちは、この出来事をきっかけとして整理され、彼らは再び「人間をとる漁師」に戻ったのでした。

イエス様とペテロ 21章15~19節

かつて公然とイエス様を否認したペテロがイエス様と出会うシーンは、とりわけ強い印象を与える、心理学的にみても非常に興味深いものです。その場には他の人も居合わせましたが、この二人の間には入れない部外者扱いでした。ペテロとイエス様は互いに深く見つめ合います。この箇所では、ペテロの否認や、ペテロの人生にこれから起こることが、そのテーマとなっています。三度ペテロが、「私はイエスを知らない」、と言ったように、ここでイエス様は、三度ペテロに、 「あなたは私を愛していますか」、と質問します。三度目の質問の後で、ペテロはついに悲しみに沈みます。ペテロと主との関係が実際はどのようなものか、今や明らかになったのです。イエス様の三つの質問は、牧者として働く上での三つの勧告でもありました。「ヨハネによる福音書」10章の「よい羊飼い」についてのたとえと、その背景にある旧約聖書の箇所(とりわけ「エゼキエル書」34章)とを思い起こしましょう。不適格な牧者は自分のことばかり気にかけて、自分にゆだねられた羊の群れの世話を怠ります。しかし、主が御自分に属する者たちの牧者になられると、状況がすっかり変わります。復活の主は、群れの世話をするための手段として人間を用いられます。四つの福音書を通じて弟子たちの指導者として描かれるペテロには、他の弟子たちに対してよりも責任の重い使命が与えられています。牧者の仕事、とりわけペテロの大切な特別任務を遂行するためには、主を愛する心が不可欠です。ペテロは確かに、「イエス様のことを知らない」、と三度も人前で否定しましたが、そんなペテロをイエス様はもう一度伝道のために派遣しようとされます。

この派遣の際に、イエス様はペテロに謎めいたことを言われます。そしてその意味はずっと後になってから明らかになります。「帯を締めること」と「歩き回ること」とは、何を指しているのでしょうか。当時の普通の衣服は、上から被る長い衣でした。それを着て歩き回るときには、歩行の邪魔にならないように、帯でそれを締める必要がありました。若者なら、自分で素早く帯を締めるでしょう。年寄りなら、手を広げて他の人に帯を締めてもらうでしょう。この「手を広げる」という動作が、この謎を解く鍵なのです。ペテロは殉教したことが知られています。彼が西暦60年代にローマで十字架に架かって死んだことは、まず間違いありません。その時、彼は手を広げて死んだわけです。キリストとの関係を失って身の安全を図ることと、キリストと共に地獄のような死の苦しみを味わうことのうち、一体どちらがよいのでしょうか。ペテロには、はっきりした答えがあります。「この方の中には命があり、この命は人々の光でした」。

最愛の弟子 21章20~25節

ペテロとイエス様の傍らには、「最愛の弟子」が一緒にいました。ペテロはこの弟子が将来どうなるかについてイエス様につい尋ねてしまいます。しかし、彼が得た返答は、「私に従いなさい」、というものでした。このことに関して、ペテロは、前節のシーンでイエス様とペテロ以外の人々がそうであったように、まったく部外者の立場にありました。ある人の人生についてのイエス様の御計画は、他の人々にとっては何の関わりもないことだからです。あなたは将来殉教することになるだろう、という仄めかしは、公けにではなくペテロだけに与えられたものでした。「最愛の弟子」の将来に何が待っているのか、ペテロには謎のままでした。イエス様は、公けに伝道なさっていた時期に、教えつづけ、何千人もの人々に強烈な印象を与え、偉大な奇跡をたくさん行われました。一日の出来事を正確に描写するためだけでも、「ヨハネによる福音書」全体が記されたものよりも多くのパピルス紙が必要とされたことでしょう。福音書の末尾の文章は、資料に対するこの福音書の特徴をよくあらわしています。つまり、一冊の書物の中にすべては盛り込めないし、また、すべてを語る必要もない、ということです。実際に福音書に記されたものは、幾つかの奇跡と教えなど、資料全体の一部に過ぎませんでした。しかし、「ヨハネによる福音書」は、それらを精確かつ詳細に取り扱ったのです。このように、第四福音書は、イエス様の最愛の弟子が保存した伝承を受け継ぎつつ、一番大切なことについて特に力を込めて明瞭に語っています。すなわち、キリストは神様の御子であり、目の見えない者の光、死者たちの命である、ということです。 「この方の充溢の中から、私たちは皆、恵みに恵みを加えていただいたのです」(「ヨハネによる福音書」1章16節)。