ヨハネによる福音書9章 盲目なのは誰か?

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

9章ではまず奇跡の出来事が描かれます。しかし、他の三つの福音書とは異なり、「ヨハネによる福音書」はすぐ次の話題に移ったりはせず、奇跡の出来事の霊的な意味を説明しています。この章でのイエス様の奇跡は、目の見えない人の目を癒すことです。それで、この章の終わりでは「霊的な盲目」の問題が取り上げられているのです。

悪いのは誰か? 9章1~7節

当時のユダヤ人の一般的な理解では、人が病気や不幸になるのは、ほとんどの場合は、本人が罪を犯したからであり、神様は罰としてその人を病気や不幸な目にあわせるのだ、とされていました。こうした見方からすると、生まれつき目が見えない人は、神学的に興味深い問題を提起します。誰の罪のせいで、その人は苦しむことになったのでしょうか。自分の罪のせいでしょうか、それとも他の人の罪のせいでしょうか。ラビたちの説明によれば、エサウは母親の胎内にいる時すでに罪を犯し、その結果、神様の怒りを招いた、とされます。もう一例を挙げると、両親が偶像を崇拝していた場合には、母親の胎内にいた生まれる前の子どももまた偶像礼拝に参加したことになる、とされます。イエス様はこのような苦しみの原因をどこに求められるのでしょうか。この箇所でイエス様は、「罪とそれが引き起こす罰」という問題を持ち出そうとはなさいません(5章14節を参照してください)。また、この問題を解決するために、この箇所を援用するのも適切ではないでしょう。ここでは、神様の偉大さが明示される特別なケースが扱われているからです。このケースでは、「光と暗闇」(あるいは「昼間と夜」)という一組の言葉が、「視覚と盲目」という一組の言葉と結びついています。イエス様は御自身の危険を顧みず、再び安息日に病人を癒されました。昼間は短いので、昼の間に急いで仕事を行わなければならないのです。こうして、「イザヤ書」35章の預言のうちの一つ、「目の見えない人が見えるようになる」ことが実現しました(「イザヤ書」35章5節)。

尋問 9章8~34節

目の見えない人が視力を回復した癒しの奇跡は周りの人々を驚嘆させ、一体何が起きたのか、調査する必要が生じました。一見すると、ファリサイ派の人々は目が見えるようになった人に対して集中的に質問しているようですが、実は、彼らの関心はイエス様そのものに向けられていました。最初に質問してきたのは、近所の人々や、目が見えるようになった人のことを前から知っていた人々でした。彼らは出来事のあまりの不思議さにどう考えてよいか、わからなかったのです。ユダヤ人の民衆の教師だったファリサイ派の人々は、彼らから出来事の説明を要求されました。ファリサイ派の人々は、奇跡そのものよりも、イエス様が安息日に奇跡を行ったことに注目しました。彼らによれば、それはモーセの律法を破る行為でした。なぜ神はイエスの祈りを聴いたのか、と訝る人々も中にはいました。罪人の祈りは神様に聴かれることがない、と一般に考えられていたからです。癒された人は、イエス様が預言者であることを微塵も疑いませんでした。一番簡単な説明は、実は奇跡は起きなかった、とするものです。そのために、癒された人の両親が呼び出され、彼らの息子は本当に生まれた時から盲目だったのか、と厳しく尋問されました。ユダヤ人を恐れて、彼の両親は最小限の返答をするのに留めました。彼らは、癒された人が彼らの息子であり生まれた時から目が見えなかったことを認めましたが、他のことについては何も語ろうとはしませんでした。彼らはシナゴーグ(ユダヤ人たちの集会所)からある一定の期間(一週間か、一ヶ月間か、あるいは一生の間かはわかりません)追放されていた可能性があります。13歳でユダヤ人の男の子は、自分で自分の責任を取るようになります。それを理由として、両親は彼について責任を取ろうとはしませんでした。それで今度は、目が見えるようになった人が再び尋問を受けることになりました。「神に栄光を帰せよ」、と重々しく誓わせ、「うそをついて罪人をかばってはいけないぞ」、と彼らを脅かしました。それに対して、癒された人は、ファリサイ派の人々の神経を一番逆なでするような質問を逆に投げかけました。もしもイエス様が罪人ならば、なぜ神様はイエス様の祈りを聴いてくださったのでしょうか。もしも神様がイエス様のことを聴いてくださるなら、なぜファリサイ派の人々はイエス様について何もわからないのでしょうか。これらの質問は答えるにはあまりにも難しいものであったため、ファリサイ派の人々は尋問を取りやめて、癒された人をその場から追い払ったのでした。    

目の見えない人が見え、目の見える人が見えない 9章35~41節

この箇所はイエス様のふたつの会話で閉じられます。ひとつは目の見える人との会話であり、もうひとつは目の見えない人との会話です。ここで示されているのは、イエス様にどのような態度を取るかによって、人は霊的に目が見えるようになったり、目が見えなくなったりする、ということです。イエス様は、ユダヤ人たちによって外に追いやられた男の人を、自らすすんで捜されます。「ヨハネによる福音書」には、人が無条件で信仰を告白する箇所が幾つかあります。以前目が見えなかった男の人の口からも、それが聞かれます。彼はイエス様を「人の子」、来るべき裁き主として信じ、イエス様にひざまずいてお祈りします。その傍らには、ファリサイ派の人々が立っています。彼らに対するイエス様の言葉は厳しいものです。人が霊的に盲目になるのは、それだけでも十分に悪いことです。しかし、その上自分自身の視力の確かさに頼るのは、さらに事態を悪化させるばかりです。換言すれば、人々が唯一の救い主を拒絶することだけが、ひどい仕業なのではありません。一番ひどいのは、「自分は助けなど必要としない」、という思い込みです。人が霊的に傲慢になるのは、人の心が最悪の形でかたくなになることです。そういう人たちにとって、最後の裁きの時に人の子がこの世に再臨するのは、恐怖の不意打ちとなるでしょう。