ヨハネによる福音書10章 よい羊飼い

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

9章は、イエス様とファリサイ派の人々との対話で閉じられます。その対話はわずか数節の長さです。10章の前半は、実はこの対話につづく部分ですが、その関連性は非常に読み取りにくいため、西暦13世紀に聖書の章の区分けがなされた時、話の流れの途中で分断されてしまいました。10章でイエス様は、御自分がどのような方か、羊や羊飼いのたとえによって、さらに光を当てておられます。この箇所と、他の三つの福音書(「マルコによる福音書」6章34節、「マタイによる福音書」9章36節、「ルカによる福音書」15章3~7節)と旧約聖書とには深い関連があります。

イエス様は今エルサレムで教えておられます。この10章の終わりのほうで宮清めの祭典についての言及があります。ですから、10章のはじめから、この祭典を背景として読む必要があるでしょう。   紀元前160年代に、シリア帝国の大王、ギリシア系のアンティオコス・エピファネスが軍隊をエルサレムに入城させました。彼はエルサレム神殿の礼拝を異教の儀式と同一化しようとし、ユダヤ人の割礼など宗教的に中核をなす慣習を死の脅迫をもって禁止しました。ユダヤ人の一部はこの変更を望んでいたし、神殿の上層部はこの圧力に屈しましたが、民衆は反乱を起こしました。予想外にもこの反乱は成功し、神殿は再び清められました。

神殿を再度清める儀式の際、読まれた聖書の箇所が「エゼキエル書」34章であったのはほぼ確実です。その箇所は、イスラエルの民のまったくだめな羊飼いについて語っています。主御自身が羊たちを世話をなさいます(「エゼキエル書」34章11~16節)。これはメシアについて力強く語っている箇所です。主が民を御自分の羊として養い守ってくださいます。そのために、主は、聖書に約束されているダヴィデの家系の王を主の民の只中に遣わされます。そのおかげで、民は、神様の手厚い保護を受けて、安心して生きていくことができます(34章23~31節)。このように、「よい羊飼い」についてのイエス様のお話は、旧約聖書によってその意味が明らかになります。

門であり羊飼いであるイエス様 10章1~21節

イエス様がこの地上に生きておられた時代に、羊たちは、昼間は牧場に連れて行かれ、夜になると塀で囲まれた安全な羊の園に戻されるのが普通でした。このような羊の園では、複数の異なる羊飼いたちの羊が一緒になっていました。当時の羊の園には盗難を防ぐため見張りが立てられていたことをふまえて、イエス様はこのたとえを話しています。羊飼いは、朝になると園に来て、自分の羊たちを呼びます。その羊飼いの羊たちは、この呼び声を聞き分けて、牧場へと出かけます。イエス様のお話の中では、ふたつのたとえがひとつに結びついています。イエス様は、羊の園の門であり、また羊飼いでもある、ということです。そこで、この両面について考えてみることにしましょう。    羊の園は、羊たちの避難場所です。そこへ塀を越えて潜入しようとする者は、盗みや何か他の悪さをたくらんでいる、と見てまちがいありません。用事がある人は、ちゃんと門を通って園の中に入っていくものです。

羊飼い(牧者)についてのイエス様の御言葉は、イエス様の教会を引き合いに出すことで理解できるようになります。初期教会の時代に、「牧者」(牧師)が各個教会の指導者の一般的な名称だったのは、たんなる偶然ではありません。キリスト御自身が牧者の職を設定されました。そして、聖霊様が、歴史を通じて御自分の教会を監督するために、牧者を召されたのです(「使徒の働き」20章28節を参照してください)。

人は、キリストとの関係が整えられていなければ、教会の群れの牧者にはなれません。門をくぐらずに群れを監督しようとするのは、群れを散らす危険な強盗です。その者は、「私の前に来た者は皆盗人であり強盗だったので、羊たちは彼らの声を聞こうとはしなかった」、とイエス様が言われている者たちと同類です。もちろんイエス様がここで意味しておられるのは、モーセや預言者たちではなく、偽のキリストたちのことです。   羊飼いの仕事は、イエス様の時代には、その牧歌的なイメージとはそぐわない重労働でした。社会的にみて、羊飼いたちは社会の最下層に属していました。イエス様が御自分をなぞらえる「羊飼い」は、ふわふわ浮いている「空中楼閣」などではなく、当時の日常に密着した地味な職業です。この牧者の仕事を、いいかげんに行う者もいれば、きちんと真面目に行う者もいました。羊の責任を取らない雇われ人は、不真面目な牧者です。真面目に仕事をするのは、羊の群れを「自分のもの」として大切にする牧者です。

イエス様が「よい羊飼い」について語られる際、それと対応する旧約聖書の箇所が念頭にあったのは明らかです。「だめな羊飼い」は、羊の群れが狼に襲われても何もしません。戦いに負けた昔のイスラエルの人々の群れが散らされるのを放っておく「だめな羊飼い」と、イエス様は根本的にちがいます(「エぜキエル書」34章、「列王記上」22章17節)。イエス様は羊の群れを愛しておられ、彼らのために御自分の命さえも犠牲にする覚悟をおもちです。イエス様は、御父様の御心により、死へと下降していかれます。一方では、イエス様は、御父様から御霊を再び受けることになります。このようにして、神様の偉大なご計画が成就されていきます。

旧約聖書を背景としてこの箇所を考えるとき、「羊の群れ」はイスラエルの民を指している、と捉えるべきです。しかし、イエス様のお仕事は旧約の設けた境界さえも越えていくものでした。「私には、この園の中にはいない他の羊たちもいます。そして、私は彼らのことも連れて来なければなりません。彼らは私の声を聴きます。こうして一つの群れと一人の羊飼いがいるようになります」(「ヨハネによる福音書」10章16節)。これらの御言葉は、イスラエルが異邦の諸国民と共に、いつかキリストの教会を形成することを、すでに告げています。このキリストの教会では、イスラエルの民と異邦人という二つのグループの間をそれまで隔ててきた壁を、主の救いのみわざがすっかり取り去ったのです(「エフェソの信徒への手紙」2章)。   

迫り来る危険 10章22~42節

この箇所は、12月に行われるエルサレムの宮清めの祭りから始まります。「ヨハネによる福音書」の描写は緊迫感を伝えます。他の三つの福音書では、イエス様は「神を侮辱する者」として糾弾されています。この箇所の記述はそれと対応するテーマを扱っている、と考える研究者たちもいます。ユダヤ人たちは、いったい何度イエス様を殺そうとしてきたことでしょうか。こうして、イエス様の受難は次第に明確な形を取るようになっていきます。「マルコによる福音書」では、最初から一貫して、イエス様の十字架の影がかかっています。この点で、「ヨハネによる福音書」は「マルコによる福音書」と深く対応していると言えます。   ここでの話し合いは、ニコデモとの対話でのように真理の探究をめざしたものではありません。今イエス様に近づいてきたのは、イエス様から明確な質問の答えを要求し、その返答如何では、イエス様を殺害するのも辞さないユダヤ人たちでした。

イエス様もまた、御自分に属する者たちと、今話し合っている相手側との間に、明確な区別をなさいます。後者はイエス様を信じません。彼らはイエス様の羊ではないからです。御自分の羊たちには、イエス様は永遠の命を授けてくださいます。イエス様に敵対する人々は、それを拒絶します。彼らは目が見えず、イエス様が天の御父様と一体なる方であることが見えていないからです。それで、彼らは唯一の救い主なるイエス様を「全能なる神を侮辱する者」として、石打の刑に処そうとします。ここで再び、「ヨハネによる福音書」の冒頭の「ロゴス賛歌」を思い起こすことにしましょう、「この方は御自分のところに来られたのに、その民はこの方を受け入れませんでした」(「ヨハネによる福音書」1章11節)。   ここで「ヨハネによる福音書」は、イエス殺害計画があったことをほのめかす一方で、しかしそれが未遂に終わった、とも記しています。まだ「イエス様の受苦の時」は来ていなかったからです。むしろこの段階では、誰かしらがイエス様の御許に来て、イエス様を信じることさえ起こりうる状態でした。光は今もなお輝き続けており、暗闇はそれを支配下におくことができませんでした(「ヨハネによる福音書」1章5節を参照してください)。